1-9 解放
一ヶ月後。久々の休日に、外で物思いに耽っていた亮は、庭の隅でうずくまる昇を偶然見つけた。
「昇?」
「……パパ」
この一ヶ月で、昇も自分の立場を理解していた。今までの生活とは一変し、服も食事も豪華なものが与えられる反面、礼儀作法や勉強など、窮屈なしがらみも生まれている。
なにより亮を父とし真紀を母とする関係に、無理に慣らされようとしていた。
「昇。そんなところでどうしたんだ?」
亮の問いかけに、昇は力なく首を振る。
「なんでもない……」
「まだこの家には慣れないか? 嫌な思いでもしているのか?」
「……ううん」
そう言うものの、昇は表情を失くし、気力なく答えるだけだ。
「昇、せっかくおまえが来てくれたのに、構ってやれる時間があまりなくてすまないね。でも今日は久々に仕事が早く終わったんだ。家へ入って、一緒に遊ぼう」
元気づけようとする亮に、昇は首を振る。
「パパ……もう、ママには会えないの?」
その言葉は、幼いながらも今まで我慢してきた言葉なのだと気付かされる。
亮は苦しそうに、昇の頭を撫でた。
「昇……」
「ママのこと、話してもいけないの?」
「……そうだな。今の昇のママは、真紀という人だ。わかるだろう?」
辛いながらも、亮はそう言った。ここで真紀が母親だと昇に認めさせなければ、真紀にもマリアにも示しがつかない。
それでも昇は、胸に渦巻く疑問を、ここぞとばかりに亮にぶつける。
「じゃあ、前のママは?」
「うん……」
「僕、ママにひどいこと言っちゃったんだ。だから、僕……」
昇は涙を流した。小さな胸に溜め切れなくなった涙に、亮の胸も痛む。そして亮は、きつく昇を抱きしめた。
「昇。ママに……ママに会いに行こう」
堪らず、亮はそう言ってしまった。だが期待と不安の表情を浮かべる昇に、もはやためらいはない。
「……本当?」
「ああ……だけどママに会ったら、今の生活に慣れなくちゃいけないよ。真紀が新しいママなのだと思わなければ駄目だよ」
亮の言葉に、昇はゆっくりと頷いた。マリアに別れの言葉も言えなかった昇は、気持ちが晴れないままだったのだ。たとえこれが最後でも、もう一度会いたかった。
決心した昇の顔を見て、亮は昇を連れて隣の収容所へと向かっていった。
「最高指揮官! どうかお帰りください。奥様の織田指揮官に、きつく言われているんです」
収容所に入るなり、管理の男がそう言った。数人の男が、亮の前に立ちはだかっている。
「入れてくれ。ここは妻の領域かもしれないが、これでも僕はこの街の最高指揮官だ。マリアへの面会を許可してもらいたい。最高指揮官としての視察も兼ねてのことだ」
仕事の口調で、亮がそう言った。
「し、しかし、あの女は今、人に会えるような状態では……」
管理の男の言葉に、亮は目を見開いた。
「何かあったのか?」
「いえ、それは……」
「とにかく入れてくれ。責任は僕が取る」
「……わかりました。面会室でお待ちください。すぐに連れて行きます」
男はそう言うと、亮たちを面会室へと案内した。何もないその部屋は、ガラスを隔てて対面出来るようになっている。
しばらくして、マリアが面会室へと入ってきた。だがその姿はとても衰弱していて、両脇を男たちに抱えられ、やっと歩いている状態だ。
「マリア……」
「ママ!」
亮の呟きをかき消して、昇が叫ぶ。その声に、マリアはやっと状況を飲み込んで顔を上げた。
「昇……」
マリアは男たちの手を離れて、昇と対面したガラスへとへばりついた。亮と昇の目には、痩せ細ったマリアの姿が映る。
「ママ……痩せちゃった……」
昇の言葉を聞いて、マリアは笑顔で首を振る。
「そんなことないわ。ママの顔を忘れちゃったの?」
「ううん。でも……」
「ああ、昇。また会えるなんて……いい子にしていた?」
優しく昇を見つめながら、マリアはそう言った。昇はあまりのマリアの変わりように居たたまれなかったが、マリアと同じくガラスへと近付く。
「うん……ママ、ずっとこんなところにいるの? こんなところにいたら死んじゃうよ。いつになったら、また一緒に暮らせるの?」
そんな悲痛な叫びに、マリアは悲しそうに首を振った。
「ごめんね、昇……私はもう、昇のママじゃないの……」
「どうして? ママは僕のママじゃないの?」
「昇には新しいママがいるでしょう? もう私のことは忘れなきゃ駄目。いいわね?」
「嫌だよ! 僕、ママに謝りたかったの。あの時、ママなんか嫌いって言っちゃったでしょう? だから……」
「ああ、昇……いいのよ」
「でも僕、ママが心配なんだ」
マリアはガラス越しで触れられない我が子に、もどかしさを感じながらも、また会えた喜びに震えている。そして静かに口を開いた。
「ありがとう、昇……あなたはパパに似て、とても優しいのね」
それを聞いて、亮は心を痛めた。こんなにも求め合う母子を引き離していいのか、わからなくなりそうだった。しかしそんな思いを抱きながら、亮はマリアの言葉で現実に引き戻される。
「旦那様。昇を連れて来てくださって、ありがとうございます。本当に……嬉しかったです。でももう、帰ったほうがいいです」
「ママ、嫌だよ。もうちょっと!」
すかさず昇がそう言った。だがマリアは強く首を振る。
「昇……もうパパを困らせちゃ駄目。ここへ来ては駄目。いい子にして帰りなさい。私はあなたが立派な人になってくれるのが願いなのよ。それには私は必要ない。私はママにはなれないの……」
「ママ……」
マリアの言葉は、まだ昇にはすべて理解出来なかったが、マリアの真剣な拒否だけは通じた。
「ありがとう、昇。会えて嬉しかった……元気でね。いい子でいてね。それから、私のことは忘れなさい」
昇は俯いたまま、もう何も言わなかった。
「旦那様。お願いです……昇とはこれ以上、一緒にはいられません。どうかもう行ってください」
泣きそうに震えるマリアの言葉を察して、亮は頷く。
「また辛い思いをさせてしまったようだね……すまない」
「いいえ。本当に嬉しかったです……」
亮とマリアの目がまっすぐに合う。だが亮は居たたまれなくなって、すぐに目を伏せた。亮ともまた、これが最後になるだろう。
「出来るだけ、ここから早く出れるようにするから……」
「……ありがとうございます」
「……生きてくれ……」
亮の言葉に、マリアは悲しく微笑んだ。すべてを失くしたマリアにとって、それは重荷であり、逆に生きる支えにもなる言葉である。
「……はい」
マリアはかみしめるようにそう言った。
亮は昇を連れて背を向ける。昇はマリアに振り返りながら、涙を溜めて面会室を出ていった。
去っていく二人を見つめながら、マリアは本当にこれで最後なのだと涙を流した。そして、亮の「生きてくれ」と言った言葉が、重く圧しかかる。
(これからの私に、生きる意味などあるのでしょうか。昇がいない今、いつかここから出られたとしても、そんなものはない気がする……)
独房に戻されたマリアは、途方に暮れていた。もう会えないと思っていた昇に会えてしまったからこそ、また会いたいという、欲や辛さが出てくる。
この一ヶ月で、マリアは肉体的にも精神的にも参っていた。食事も喉を通らず、涙も止め処なく溢れ出る。その身体は、亮や昇が驚くのも無理はないほど、見る影もなく痩せ衰えていた。
「おい、出ろ」
そんなマリアに、突然の呼び出しがかかった。訳もわからず、マリアは取り調べ室のようなところへと連れて行かれる。するとそこには真紀がいた。
「奥様……」
「久しぶりね。ずいぶん痩せたみたいだけど、ここの食事は合わなかったかしら?」
真紀の言葉に、マリアは首を振る。
「いいえ。そういうわけでは……」
「でも、このままじゃ病人よ。病棟に移さなきゃならなくなるわ」
「……大丈夫です。だいぶ慣れましたし、見かけよりは元気です」
それを聞いて頷くと、真紀はまっすぐにマリアを見つめた。
「じゃあ本題に入るわね。さっき、亮が来たようね」
「……はい。昇と一緒に……」
「まったく、禁じているというのに……亮の性格からして、また来るに違いないわ」
マリアもそう思った。自分ではそんなに痩せたとは思っていなかったが、亮の驚き具合からして、やはり一ヶ月前とは違うのだと実感する。優しい亮が、そんな自分を放っておけるはずがないと思う。
「あなたには明日、出所してもらいます」
突然の真紀の言葉に、マリアは驚いた。入所してから一ヶ月しか経っていない。厳しい制度の中で、一度脱獄したことのあるマリアの刑期は、通常でも十数年はかかるはずだ。ましてや裁判を望まなかったマリアは、刑期は刑務官会議にかけられる。すなわち真紀の一存で決まる。
「え……?」
「でも出所したからといって、自由にすることは出来ないわ」
「はい……」
「街でお金を稼ぎなさい。一番の名目としては、昇の養育費として。一日、一万パニー。そして一日毎に、屋敷の裏門まで届けてちょうだい。時間は夜中の二時から三時の間。私が直接受け取りに行くから、私が出てこない限り外で待っててちょうだい。中の者を呼ぶのも駄目。いいかしら?」
そう尋ねても、マリアに拒否権などあるはずがない。それにここから出られるということ、昇のために出来ることがあるというのは、素直にありがたく、希望も生まれる。
「はい。わかりました」
真紀の好意にも取れて、マリアは感謝して頷いた。
「よかったわ。昇にはすでに、ずいぶんお金をかけているの。服も食事も最高級だし、礼儀作法のお勉強から何からね。それに、あなたが今まで住んでいた家の家賃、滞ってる分も私が立て替えてあるわ。その他もろもろ出費がかさんで、一日一万じゃ足りないくらいだけど、とりあえずそれで。少しでも滞ったら、昇の身が削られると覚悟して」
それを聞いて、マリアは顔色を変える。
「それはどういう……」
「まあ私も鬼ではないけれど、昇の食事を一食抜くとか、少し厳しくするとかね」
「やります! どんなことをしてでも、滞りなく。ですから、どうか……」
マリアが了解するのを見届けて、真紀はその場から去っていった。
ここから出て昇のために働ける嬉しさの反面、ネスパ人にとって途方もない額の養育費の請求、滞った場合の昇への仕打ちを案じ、マリアは何の未来も見出せないと同時に、やらねばならないという重圧を感じていた。
次の日。マリアは約束通り、外へ出ることが出来た。だが、これから死に物狂いで働かねばならない。
真紀に養育費として提示された金額は、一日一万パニー。一万パニーとは、日本円にして一万円ほどだが、物価の安いこの街では、とても高額な金額だ。ネスパ人の平均日給も、五千パニーに届かない程度である。
マリアは出所したその足で、今まで住むところを提供してくれていた家へと向かった。そこはネスパ人では数えるほどしかいない富豪の家だ。マリアの境遇に同情してかくまってくれていたが、マリアが捕えられてからはどうなっているかわからない。
「マリア……出て来られたんだね」
夫人が言った。
「奥さん。すみません、ご迷惑をかけて……」
「いいのよ。でも、うちにも役人が来てね。あんたをかくまってたから、目をつけられてるのよ。本気でやられれば、うちも路頭に迷うことになる。悪いけど、もう何もしてあげられることは出来ないよ。あんたが住んでいた部屋も、潰すことに決まっててね……」
そんな夫人の言葉に、マリアは頷いた。自分をかくまってくれた優しい富豪も、日本人から目をつけられればひとたまりもない。実害として、すでに被害が出ているかもしれない。
「すみません。優しくしてくださったのに、私のせいで……」
「今までのことはもういいよ。ただ、あんたからは家賃もほとんど取らずにやってきたけれど、正式に取れと言われてね……」
「聞きました。奥様が支払ってくださったそうで……これからそのお金を返します」
「でも、正式となるとすごい額になってしまうわよ。それも五年分でしょう……」
「わかっています」
マリアは深々とお辞儀をした。
「マリア……」
「ご厚意を裏切る真似をして申し訳ありません。今まで本当にありがとうございました」
そう言い残して、マリアはその場から去っていった。
本当は力になってほしかった。住む場所も仕事も、富豪ならば都合がつけられるはずだが、楽に見つけて真紀が許すはずがない。このまま無理を言えば、富豪といえども潰されてしまうかもしれない。
マリアは諦めて、今まで世話になっていたレストランを訪れた。
「マリアじゃないか!」
顔を見るなり、店主が叫ぶ。マリアもまた、その顔に安心するように微笑んだ。
「マスター……」
「出てこれたのか。ずいぶん痩せちまったが、無事なようでなによりだ」
「ありがとうございます。でもお願いがあるんです。もう一度、ここで働かせてください」
「それは構わないが……」
「お願いします!」
必死なまでのマリアに、店主は心配そうに見つめる。
「何があったんだ?」
「……今までの家賃と、昇の養育費を稼ぐために出られたの。なんとしてでも稼がないと……」
マリアは正直にそう言った。
「それはいくらだい?」
「一日一万パニー……」
「一万! そりゃあ大変だ。夜の商売でもやらない限り、簡単には稼げないぞ。夜の商売だって、よほどの売れっ子じゃなきゃ……」
「お願い、マスター。昇のためにも、出来ることなら身体を売りたくないの。今まで以上に何でもやります」
店主にとっても、一万パニーは大金だった。マリアを助けたいと思っても、自分だけではどうしようもないことは目に見えている。
「うちで働くのは構わないが、うちはどう頑張っても、二、三千パニーくらいしか出せないぞ」
「わかっています。それでも、お願いします!」
深々と頭を下げるマリアに、店主も悲しく微笑んだ。
「よし、わかった。今まで通り、働いてもらおうか」
「ありがとう、マスター!」
「でも、残りはどうするんだい?」
「これから探すわ。なんとしても見つけないと……」
そう言うマリアの肩を、店主は軽く叩く。
「頑張れよ。俺は昇が赤ん坊の頃から、おまえら親子を知ってるんだ。応援してるからな」
「ありがとう」
マリアは店主にお辞儀をすると、店を出ていった。
だが仕事を探そうと思っても、そう簡単には見つからない。ただでさえ職が少なく人で溢れている中、特に女性の職は、この街では身売り以外にほとんどなかった。
しかしそれは、マリアの中にも抵抗があった。母親が犯罪者の上に身売りまでするとは、昇のためにも考えたくない。
その日、マリアはレストラン店主の伝手で、早朝の港の仕事を見つけることが出来た。早朝に海から入ってくる荷物を仕分けしながら運ぶ仕事だが、重労働な男の仕事で、男でも辛いとされている。
また近くのスナックでも雇ってもらえることになり、それでノルマの一万パニーは、なんとか稼ぐことが出来そうだった。
次の日から、マリアの新生活が始まった。家も寝る場所もなく、早朝から真夜中まで、ほとんど休みない生活となる。辛くも感じたが、昇のことを考えると、不思議と力が湧いてくる。
マリアは一万パニーをかき集めるように稼ぐと、真夜中の冷たい街を抜け、丘の上にある最高指揮官邸の裏門へと向かう。ここで待てば真紀が来るという約束だ。真紀もしばらくは、直接マリアの様子を見ようと探っているに違いなかった。
しかし、すでに季節は冬で、夜中ともなれば雪もちらつく。服にかける金もなく、以前お古でもらった靴もコートも、汚れて穴だらけだ。それでもマリアは耐えるしかなかった。
風除けに門柱の陰に身を寄せると、ひたすら真紀が来るのを待つ。
しばらくして、裏門へ近付いてくる音が聞こえ、マリアはハッとして立ち上がった。すると小さな裏門が開き、真紀が顔を覗かせる。
「奥様……」
マリアはすかさずお辞儀をした。みじめな姿のマリアからは、真紀の姿が輝いて見える。
「約束通りね。お金は?」
「ここに……」
包む紙すらなく、マリアはポケットの中の金をすべて差し出した。小銭も合わせて、一万パニーがちゃんとある。
「ご苦労様。帰っていいわ」
真紀はそれを数えると、そう口を開き、すぐに去っていく。たったそれだけのやりとりだった。
その日からマリアは、早朝に港での仕事をこなし、朝から夕方まではレストランで皿洗いの仕事、夕方から真夜中までスナックでの仕事をこなしていった。
一日一回の配給で腹を満たすほかは、レストランの店主に残飯や残り湯の風呂などを分けてもらっていたが、実際に寝る時間も家もなかった。