セイシする時<1>
よく晴れた空だった。晴天とはきっとこういう事をいうのだろうと、納得したように窓を開けようとする。しかし、手に取った窓の淵の冷酷ともいえる冷たさに手を引き、慌ててカーテンを閉める。積雪こそまだなかったが冬至が過ぎ、恋人たちの一大イベントも終わった頃、夜空にはいつもオリオンの光が輝いていた。いよいよ年の瀬が深まり世の中は年明けに向けての準備に追われ、皆一様に時間が忙殺されていく。
今日は久しぶりにアルバイトも稽古も休みの為、朝から掃除でもしようと活き込んでみたものの、寒さが大の苦手だった僕は掃除をすること自体を躊躇し始めていた。
祥は本当に寒いのが苦手なんだね。冬眠でもしてるみたい。と、理子にはよくからかわれたものだった。
でも、いいよね。私は夏が嫌いで、祥は冬が嫌い。だから、二人足して一人前になるから、私達はずっと一緒にいられるね。
そう言って僕の懐をジッと見つめている事に気づく。
「はい、ど~ぞ。」
理子が愛らしいことを言う時は決まって、僕の胸を要求する時だった。
ふふ、わかった?と、僕の胸に顔を埋める理子は本当に愛おしく、真っ黒の中に碧色がみてとれるサラサラとした美しい黒髪から漂ってくる甘酸っぱい良い香りに誘惑されながら僕も理子を抱きしめる。
さて、掃除でもしようかと雑巾を取りに台所へ向かおうとした瞬間に、携帯電話が自分を主張するようかのように大きな着信音で泣き出した。
ディスプレイを覗くと、珍しい人からの電話に驚いて慌てて携帯を手に取る。
「もしもし!」
「もしもし、祥?」
「うわ~、お久しぶりです!」
もう随分と会っていないどころか、連絡さえも約三年ぶりにもなろうか、前のプロダクションで仲間として共にした、理子の同期の高田さんからの電話だった。
「お!元気そうだね。久々~!」
「え、どうしたんですか?突然。珍しいですよね。」
「あぁ、ちょっと久々に吉祥寺まで買い物に来たからさ。祥って確か吉祥寺に住んでたな~って思ってさ。まだ吉祥寺に住んでる?」
「ええ、まだ吉祥寺に住んでいますよ。」
「そっか!よかった。今日は何か予定ある?良かったらちょっと出てこない?」
「いいですよ。今日はちょうどオフなんですよ。すぐに吉祥寺駅に向かいますね。」
「ああ、わかった。待ってるよ。」
もう、何年会っていないだろうか?おそらく4~5年ぶりの再開になるであろう高田との約束にそそくさと身支度を整えて、駅に自転車で向かった。
吉祥寺に向かう途中の顔を切り裂くような凍てついた風に何度も心が萎えそうになるのを我慢して、高田さんのもとへ急いだ。
吉祥寺駅北口に着くと、すぐに高田さんの方から声を掛けてきてくれた。
「お~!久し振り!!祥!」
「本当ですね!」
外国人よろしく、本当であればここでシェイクハンドをしながらハグをしたいところだが、さすがにハグまではせずに握手のみに留めて再会を喜びあった。
「よかったよ~!今日はオフだったんだな。」
「本当にたまたまですよ!」
「たまたまか!でもよかったよ!あ、少しいろいろと見ておきたいものがあるからちょっと付き合ってくれよ。」
そう言うと、再開の喜びもひとしおにして、サンロード商店街を進み始めた。
高田さんの風貌、格好は昔からだがひと際目立つ。金髪のセミロングの髪で、いつもお気に入りの少し大きめのヘッドフォンを首にかけて、背中に自分の背中よりも大きめなリュックを背負っている。昔と何一つ変わらない風貌に懐かしさを覚えていた。
「あれ?サンロードってずいぶん変わった?」
「遅いですよ、気がつくの!」
近年、中央線沿いの各主要駅は都市開発が進んでおり、立川駅が一番わかりやすく都市化が進んだ町と言えるだろう。吉祥寺も例外ではなく大規模な商店街改造計画が進んで、サンロード商店街は一新したばかりだった。
「へ~、そうなんだ、全然知らなかったよ。」
「え、吉祥寺自体は久しぶりなんですか?」
「うん、もう4年近くは来てないよ」
「あ~、それじゃ知らないですよね。」
高田さんの買い物に付き合い、どこに行くのかと思えばなぜか百貨店などを見て回っている。今まで知っている高田さんだと、てっきり買い物は古着屋さんだとばかり思っていたが、程無くしてその謎は解けた。
買い物が一通り終える頃には、気忙しい年の瀬の人波も徐々に黄昏時を迎え疎らになっていく。晩景が徐々に紺色を示し始めるころ、僕たちは一杯飲もうかと、高田さんと一緒に居酒屋に入ることにした。
「それじゃ、改めて再会を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
大ジョッキをお互い手にしながら、ゴクゴクと半分程度まで一気に飲み干す。ちょうど二人とも歩き疲れていて喉がカラカラだったせいか、寒いこの季節なのに妙においしく感じられた。
「いや~、美味い!!今日はありがとうな、祥!」
「いいえ。僕も楽しかったですよ。でも、あんなにいろいろ買ってどうするんですか?舞台で結婚式の芝居でもするんですか?」
「はは、やっぱり結婚式ってわかるか?」
「そりゃ、わかります。」
「そりゃ、そうだよな。・・・いや、実は俺の結婚式の為のものなんだよ。」
サラッとそう言う高田さんの言葉には、全くと言っていいほど真実味がないから冗談だとしか聞こえなかった。
「はは、またまた冗談が下手なんだから!」
「・・・・・・・」
押し黙る高田さんの真剣な様子を見て
「はは・・・は・・えっ!?本当なんですか!?」
「だから、そう言ってるじゃん!」
「ええ!!そうなんですか!?」
「だから!そうだって!!」
「う・・うあ、おめでとうございます!」
突然の告白に言葉にならなかった。
「ああ、ありがとう。」
「え、じゃあ芝居はどうするんですか?」
「やっぱりそこだよな、話しが出てくるのは。うん、いろいろ考えたんだよ、俺も。その上で向こうのご両親とも話し合ってさ。お兄ちゃんとの約束もあるし、どうしてもあと少しだけ悔いを残らないようにやらせて下さいって頼みこんで、もう一年くらいは続けれそうにはなったんだけど、さすがにそれで芽が出なければ普通に働くつもりだよ。」
「・・・・・・・」
言葉が出なかった。今までにも志し半ばで役者を諦める人を多々見てきているからである。それは、自分の人生に対して一つの決着をつけたと言っても過言ではないくらいの今生の別れにも似たとても辛い決断ということを充分に理解していた。
人によって役者を諦める理由は様々だった。家庭の事情であり、自分の限界を見限ったり、金銭面だったり、俳優女優区別なく中でも一番多いのが結婚だった。
協力という言葉があるが、あれはなんて理不尽なんだろうと僕はよく思ったものだった。一人では出来ないことが二人だと出来るはずなのに、こと結婚となると守らなければならなくなり、二人になった為に出来なくなってしまう。理屈ではなんとでも言えるが、やはり現実はそんなに甘くないのもよく解っていたからこそ、何も言えなくなってしまう。
周りを見渡せば、僕の先輩や同期と呼べる役者達は、今まさに人生の岐路を選ぶべき年齢に来ているのは確かで、職業選択の自由なんて法律は一概に誰にでもあてはまらないんだと葛藤との戦いを虐げられている。
役者という職業は確かに特殊で、あくせくと働いている人達からすれば、何を夢みたいなこと言っている、何をいつまでもいい年をして遊んでいやがると、よく非難をされる事が多い。しかし、表現者であるからこそ人に伝え人に学ばせ人に尽くせる。表現者である事は、それだけ人に対して影響を与えて世の活力になっていく難しい職業だった。だからこそ、狭き門なのだ。
「おいおい、祥がそんな顔するなよ。まだ、一年は役者を死に物狂いでつづけるんだから!俺は最後まで諦めずに、これで嫁さんを食わして行きたいと思っているんだからさ。」
高田さんの表情は決意に満ちていて、僕が想像していたよりも全くもって晴れやかだった。
「・・・そうですね!とりあえず結婚決まったんですもんね。おめでたいのに僕がこんな顔で祝福したら失礼ですよね。」
「そうそう!ちゃんと祝ってくれよ!」
「はい、すいません。」
「・・・それでな、祥、今日わざわざ会いに来たのは、別に買い物がメインじゃないんだよ。結婚の報告でもないんだ。」
「えっ?」
「うん、どうしようか迷ったんだけど、やっぱり祥に直接渡して、祥自身に決めてもらった方がいいかなと思ってな。これ。」
高田さんが青色の大きなリュックから取り出したのは、結婚式の招待状ハガキだった。
「俺は、祥には是非とも祝って欲しいんだ。だけど・・な・・・うん・・・ほら・・あんなことがあったのを俺は知っているから、それでも・・・どうしても倉田と森田社長はね、プロダクションの関係上あの二人は絶対に外せなかったからさ・・・」
その名前を聞いて一瞬で顔が強張っていく自分が過去を全く決別できていないことを分かっていたことだが改めて思い知らされる。それだけ僕にとっては辛い過去で、僕が僕じゃなくなった日に結びついている。そんな僕と理子の関係は、お兄ちゃんと高田さんしか知らない。
あんなこと・・・・理子・・。
毎年恒例となっていた、12月一週目のプロダクションの忘年会。僕と理子が付き合い始めてもう2回目の忘年会を迎えようとしていた。
忘年会じゃなくても、プロダクションでの飲み会は年中あった。舞台の打ち上げや映画、ドラマ出演者のクランクアップの打ち上げ、もちろんただの飲み会もあった。その都度、打ち上げする場所はまちまちだったが、忘年会は決まってプロダクションの経費持ちで盛大に貸し切って行われていた。
他の出演者祝いなどの打ち上げはあまり出席することはなかったが、プロダクション全体の打ち上げや忘年会は絶対参加になっていたから、僕と理子も渋々参加を余儀なくさせられていた。そんな時は決まって、理子とは打ち上げが終ってからみんなには気づかれないように口裏を合わせてどこかで合流し、一緒に帰っていくのがいつからか自然とお互いのルールになっていた。
この日も同じく、帰り際に待ち合わせて帰るものだと僕自身は勝手にそう思い込んでいたんだ。
夕暮れ時の帰省ラッシュに肩身を狭くしながら電車に乗るサラリーマンを横目に、忘年会の会場に急いだ。会場に着くころには辺りはすっかり闇に覆われていて、オリオンの輝きをより一層強調している。程なくして森田や主要なメンバーが揃うと今年の忘年会も始まった。
毎年そうだが、忘年会にはプロダクションのメンバーだけに留まらず、森田の戦略で必ず局プロデューサーであったり、映画監督であったり、演出家であったり、第一線で活躍されている方をゲストでお呼びすることが多々あった。
決まってそんな時は女性タレントを横に付けるのが常識的な暗黙の了解となっている。綺麗どころを揃えようとなると、当然のように理子は毎回呼ばれてしまう。
幼稚だった僕には耐えがたい光景だったが、毎回お兄ちゃんに慰め悟らされては理性を何とか維持し、理子と毎日のように寝食を共にするようになり、もう誰も僕たちの領域は侵せないだろうという思いが確信に変わった頃からは、なんとか一人でも理性を保てるようになっていた。
本当にあの時の僕はどうしようもない幼稚で未熟な男だった。自分の本質も分からないそんなちっぽけな男に、なぜ理子はついてきてくれていたのだろう?そう思いだしたらきりはなかったが、それでも理子を愛している気持ちは唯一無二で、ここにしかない綿のような柔らかくもあり重くもなるそんな自在な愛だった。
この日も、理子はプロデューサーの処へ行って接待をしなければ行けないんだろうなと思いながら、出来るだけその光景を見ないように僕は仲間達と飲んでいた。理子自身も常日頃、飲み会での接待は本当に嫌、すごく疲れると、理子にしては珍しく愚痴をこぼしていた。
その言葉を聞けただけでも安心は出来たのだが、今日は一向にプロデューサーの処へ行かない様子だった。珍しいなと思いながら飲んでいると、お兄ちゃんが、良かったな、今日は安心して飲めるとね、と、小声でニヤニヤしながら伝えてくる。
暫らくすると、僕とお兄ちゃんと高田さんの飲んでいるところへ理子が近寄ってきて、いきなり僕の隣の少ししかないスペースへ無理矢理に身体を入れて座り、テーブルでちょうど死角になっている位置で僕の左手を握ってきた。
「ちょっ・・り、理子、まずいって!」
と、最小限に周りへ聞こえない小声で伝えると、すぐに戻らなきゃ行けないからもうちょっとだけ祥の隣にいさせて、と、よく意味が分からない返答が返ってきた。
言葉通り、理子は暫くすると元いた席へ戻って行った。
「どうしたんだろう?」
そう心配していると、お兄ちゃんが離れていてちょっと寂しくなったんじゃない?と、相変わらずニヤニヤしながらからかってきた。そうかもね、と対して深くも考えず僕たちはまた飲み始めた。
宴もたけなわになった頃、どこで待ち合わせをしようかと理子にメールを送ってみる。が、いっこうに返信はなく、いよいよ忘年会も一本締めで終了というころ、理子に直接話した方が早いと探してみるが理子の姿がどこにも見当たらなかった。
ここ最近での2,3回の飲み会と同じだった。いつもは、理子から自然とここで待ってるねと場所を指定することが多かったが、ここ最近の飲み会では帰りに全く連絡が取れず、電話を直接して繋がっても、ごめん祥!今日は疲れちゃったからもう先に帰っちゃった。と、今まで一緒に帰っていたのが嘘だったかのようにタイミングが合わなくなっていた。
少し酔っていた僕は、今日こそは理子と帰りたいと思い足早に忘年会の会場をあとにする。酔いが回ってくると急に寂しさと愛おしさが強まり、理子に電話をしてみる。すぐに理子が出て、あ、祥?ごめん!なんか今日の飲み会疲れちゃって、先に帰ってきちゃった。ごめんね。と、何事もなくそう言う理子へ、
「そっか・・。うん、わかった。おやすみね。」
そう返すと、うん、ごめんね、祥。また明日連絡するね。おやすみ。愛してるよ。と、優しい言葉が返ってきたのが安心感を補って嬉しい。
でもちょっとがっかりもしたのは確かだった。お酒が入っているせいか少し小腹もすいている事に気がつくと、何か食べてから帰ろうかと思い近くにある店をぐるりと一望してみては物色する。結局、一番目に入った牛丼に惹かれここでいいやと牛丼屋に入り、並を頼んでご飯を一粒も残さずキレイに平らげる。お腹がすいていたはずなのに、並を一杯食べただけでものすごい満腹感になり、満足気にお腹も満たされた僕が外に出る頃、僕のちょうど頭上にオリオン座が輝いて見えて、しばらく眺めてみる。
今日の夜空は東京では珍しいほどくっきりと充分な星を眺める事が出来て、寒さの苦手な僕でも冬の純粋に澄んだ星月夜にくぎ付けになった。
さて、帰路に立とうと駅への道を進む一歩を踏み出した瞬間、信じられない光景を目の当たりにしてしまった。
「り・・・り・こ・・・!?」
自分で言葉を発しているのかいないのか、わからなかった。
理子が歩いている。
手をつないで歩いている。
何が何だか分からず、一気に酔いは醒め変りにパニックで目の前が漆黒の闇に覆われた。
隣で手を繋いでいるのは・・・
森田であった。
僕はなにも考えられず、純粋な興味本位でも何でもなく、思考は停止したままなのに身体はなぜか自然と二人の後を尾行する形でついて行った・・・
頭の中がぐるぐる回る。
あれ?理子は帰ってなかったの?森田と打ち合わせ?森田って奥さんと双子の子供いたよね?あれ、理子がいる。理子はやっぱり待っていてくれたのかな?手はつなぐもの?森田がなぜ?理子はなぜ?どうして二人でいるの?あ、ご飯でも食べに行くのかな?理子って疲れて帰ったよね?森田から手をつないだ?いや、そんなことは問題ない?森田の奥さんは?あれ、理子がなにしているんだろう?双子の子供は?どうして森田が?ご飯かな?あっ、プロデューサー呼んでの二次会?どこにいくの?この話しってさ?これは現実?あれ?あれ?ここはどこなんだっけ?森田は奥さんは?理子は奥さんじゃないよ?んっ?なに言っているんだろう?二人はなに?あ、遊びに行くだけだ?もうこんな時間?いや、まだこんな時間?何しているんだろう?理子?森田?ん?理子がいる?あれはそもそも理子?いや、あれはそもそも森田?え?なに言っているの?あれ?なんだ?ふたりともにせもの?いや、なんでここにいるんだろう?あ、ドッキリ?森田の手?理子の手?いやいやいや?あ、空がさっきキレイだったんだ。オリオン座?もう酔っ払っている?酔い過ぎた?森田はなにしている?あ、理子は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なにも考えられないで漆黒の中にいる。なのに、ごちゃごちゃと頭の中は整理がつかず、思考は停止し目の前は真っ暗になっているにも関わらず、二人の姿が鮮明にはっきりと輪郭まで描けるように双眼鏡ででも覗いているようなくっきりとした形の情報が目の奥の方の網膜に刷版のように焼き付けられてくる。
どのくらい尾行を続けていたのだろうか?数秒のような気もするし、数時間のような気もする。気がつけば、大通りをひとつ外れた裏路地に入っており、二人が止まるのが見えて、僕も止まる。
声が出ない。言葉が出ない。人は信じられない光景や恐怖、絶品のグルメなど、自分の創造にも及ばないような出来事と遭遇すると声が出ないと聞いたことがあるが、今がまさにそうだった。一言声を掛ければ、姿を見せれば止められるかもしれないのに、誤解が解けるかもしれないのに、僕は声も出せずにただただそこに留まっている。
止まっていた二人が再び動き出した時・・・二人はお互いに熱いキスをして目の前にあるラブホテルへと消えて行った・・・
目から赤いドロッとした液体が流れ落ちているような錯覚に陥って、僕の前頭葉のさらに奥の方で何かが壊れるような音がして全てが崩れ去って行った・・・
この日の一段と輝くオリオン座のベテルギウスとリゲルの対照的な紅白色が、僕と理子との時間を止めるのを告げているようだった。
目が覚めると右側の窓から冬らしい澄んだ薄い藍色の空がすぐ目に飛び込んできた。壁一面が真っ白で見慣れない部屋だと気付き、自分の部屋じゃないと認知し起き上がろうとした時に、あ、あ~!!!よかった!!祥、わかるか?祥?と、お兄ちゃんの少し泣きじゃくった声に驚いた。
必死にお兄ちゃんは、祥~!!よかった!!と、言って僕の手を強く握っている。その横で高田さんが、先生、意識が戻りました!と意味不明な言葉を言っていた。
お兄ちゃんと高田さんが必死に話しかけてくれているのがよくわかった。でも、なぜか頭は脳が溶けてしまったかのようにぼーとしていた。
暫くして、まっ白な服を着た男性が慌てて駆けつけてきて僕に話しかけてくるのを聞いて、ようやく事態が掴めてきた。
ここは、病院だった。そう理解をした時に残酷な現実が蘇り、全部本当のことだったのかと苦しみが湧き上がってきて、白衣の先生の前でみっともないほどに慟哭した。
あの青天の霹靂に襲われてから、どうやって家に帰ったのかも覚えてなかったが、家に着いてすぐにお兄ちゃんに電話をしたことだけは覚えている。
なんと伝えたのかまでは分からなかったが、お兄ちゃんによると何を言っているのか分からない程、子供が泣くようにむせび泣きながら、りこ、りこが・・・と理子の名前を連呼していたようだった。
理子の名前しか言わなくむせび泣いていた僕を異常だと感じたお兄ちゃんは、夜も更けていたにも関わらず僕の家まですぐに駆け付けてくれたみたいだった。
漆黒の闇が訪れる。失意の僕はお兄ちゃんの電話を切ったすぐあとに・・・
そうか・・そうだった・・・僕は電話を切ったあと・・・・
僕は自殺を図った・・・
もともと偏頭痛持ちだった僕は、家に薬がたくさん常備されていた。無意識で瓶や箱に入っている大量の薬を飲みほし胃の中へ押し込んだ。
徐々に、しかし確実と世の中に映る景色がまどろみの中に薄れて行き、僕の意識を奪っていった・・・
先生の話しによると、服用した大量の薬は胃の洗浄を繰り返しなんとか一命を取り留めたようだが、致死量ギリギリのところだったようだ。通常の市販薬で致死量ギリギリまで服用するにはかなりの量を飲まないとここまでにはならないと驚いていた。当然2~3日の入院を余儀なくされた。
お兄ちゃんと高田さんから何があったと、質問がとめどなく続いた。それはそうだろう。もう少しで僕はこの世からいなくなってしまうかもしれない存在だったのだから。まだ、頭も正常に作動していない状態で、一から順を追って説明をしてみる。説明をし始めるとあの二人が歩いていきホテルの前でキスをして消えるまでの見たくもない映像が鮮明に蘇り、DVD録画を繰り返し見ているかのように記憶がフラッシュバックしてくる。
今でも信じられない。あれがすべて現実で真実だったのだろうか・・・?
・・・・・・・・
全て話し終える頃には二人とも言葉も表情もすっかりなくなってしまっており、沈黙が続く中、僕の嗚咽にも似た泣き声がシーンと静まり返った病室にいつまでも鳴り響いていた。
長い、とても長い沈黙がどのくらい続いただろうか?二人とも自分の身が同じ体験をしてきたかのようにぐったりしている。倉田さんに俺、今朝がた電話したよ。そう言い、初めに一声を解いたのはお兄ちゃんだった。えっ?と、驚いている僕に続けて、だからだったのか。電話をして、祥が大変な事になっているって伝えたかったとよ。倒れたと言いよったら電話越しでもわかるくらい慌てとって、でも俺は祥が倒れる前に俺に電話してきて尋常じゃなかった様子が気になっててな、そのことを伝えた上で倉田さんに昨日の夜なにかあったと?と、訊いたら突然電話が切れてしまいよった。どうしたんだろう?と思っていたけどこれで納得がいったと、俯きながらポツリと話した。
お兄ちゃんが言い終わるか終らないかくらいにかぶせて、続けて高田さんが、
「俺にも、午前中に倉田から連絡があったよ。当然、祥の事を心配して連絡がかかってきたから、早く来い!って、そう言って病院の場所と病室は教えたんだが、なんか釈然としない態度にちょっと苛立ちを覚えてさ、死んでしまうかもしれないんだぞ!って、話したら電話の向こうでかすかに啜り泣いているのが聞こえてきたよ。それからは何を言っても無言だったから、とにかく早く来いとは伝えたけど、倉田自身もきっと、お兄ちゃんから聞いた話しで、祥がこんなになってしまった理由に気付いたんだろうな・・・。」
「・・・・・・・・」
「・・・でもな、祥!お前がしようとしたことは、絶対に間違ってるぞ!!自ら命を断とうなんて・・・絶対に違う!!お前は昨日、自分の命を弄んだんだぞ!?・・・死んでしまってどうするんだよ!残された奴らがどんなに・・・どんなに悲しむか考えたか!?・・倉田のな・・・倉田の味方になるわけじゃないけど・・残された倉田はお前の影を一生償って生きていくことになる・・・。お前がそれを望んだ復讐って言うなら、俺はお前を一生許さねーぞ!!」
途中から僕の胸ぐらをつかみ憤慨していた高田さんを、お兄ちゃんが抑制してくれていた。そして、高田さんを落ち着かせながらお兄ちゃんは静かに話し始めた。
祥…?高田の言ってることも当然とよ。でもな、俺は倉田さんも祥も本当に素敵な恋人同士だとこんなことがあって不謹慎だけど、今でも思っとっとよ。人にはいろいろな事が起こるだろうし、いろいろな選択も自由に出来る。倉田さんにも事情があるかもしれないし、祥だって死のうとしたのは事情があるからこうなってる。祥…?どう選択するかは祥の自由だ。だからこそ、これからの祥が暗い選択なんてせんように、ちゃんと俺が光の未来を照らしてやるから…。だから…、もう死ぬなんて考えるな!
普段から滅多に怒ることのなかった温厚な高田さんが、両方の瞳いっぱいに涙を溜めながら怒りをあらわにしているのに驚き、そしてお兄ちゃんも同じく二つの瞳から決壊したダムのように涙を止められずに、それでも優しく語りかけてくれるのを僕は体感して、同時にとんでもないことをしてしまったのだと恐怖にも似た自責に駆られ、今更ながらにガタガタ震え始めて、自分が自分の人生を終わらせようと自殺を図ったことを実感した・・・。
そして最後に・・・
「・・・・ごめんなさい。」
と、今にも消え入りそうな声だったけど、二人に謝った。
一人でいるといろいろと考えてしまう。考えまい考えまいようにしようと、思えば思うほど見たくもない映像が鮮明に浮かんできて、地獄の業火にでも焼かれているような永遠とも思える苦しさと悲しさが押し寄せてきて僕を押し潰す。しかし、そんな心情とは裏腹に、入院二日目で体調はすこぶる回復していてもう明日には退院が出来そうだと医者から言われていた。そんな自分の身体の丈夫さを疎ましくも忌々しくも思えた。
さすがにご飯自体はまだ喉には通らなかったが、それはきっと身体のせいではなく、心のせいだという事を十分に分かっていた。それでも頑張って食べたら確実にリバースしてしまうだろう。
今日は稽古日のはずだったから、お兄ちゃんも高田さんも来ない。昨日、二人の帰り際に稽古場には内緒にしておいてと頼んでおいた。それは、やはり自分のとった行動が恥じるべき行動だったとちゃんと理解をしていたから、出来るだけ人には知られたくなかった。
考えたくもないことがぐるぐる頭の中を彷徨っていて、視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚も全ての五感がリアルに感じられるくらいの映像がチラついて頭から離れず、気持ち悪い。
身体の回復が無駄に早く健康になってきている分、元気になればなるほど精神的な苦痛がどんどん増してくるのにおかしな理不尽さを覚える。
相変わらず外は快晴だったがすごく寒そうで、窓一面に附着した大量な結露が内と外の温度差を物語っている。僕はなにをしているんだろうと思っていた刹那、稽古に出ているはずの人が入口に立っていて驚きを隠せないでいた。
今、一番逢いたくないと思っていた理子が顔面蒼白な状態で入口付近から固まったまま、眼を真っ赤に腫らしてこちらを見つめていた。
「・・・・・・。」
理子を直視できない僕は、理子の存在に気付いていながらもすぐに真逆の明後日の方へそっぽを向いて毛布をかぶった。理子も何も言わずにただただ立ち尽くしていた。
何分くらい沈黙があっただろうか?ずっと張り詰めていた空気が動き出し、一歩、また一歩と理子の近づいてく気配が感じられる。
聴力が異常なほど発達してしまったのかと勘違いするほど、足音だけではなく理子の鼓動までも聞こえてきそうなくらいはっきりと理子が近づいてくるのが伝わってくる。
僕のベッドの傍まで来て止まったのがわかった。
「あ・・、あのね、祥・・・、森・。」
そこまで言葉が出かかったところで、僕はその言葉を遮り
「聞きたくない。理子と森田のことなんて、聞きたくない!!」
と、なにか言いかけようとしていた理子を一喝した。
「・・そう・・・・そうよね、貴方には関係ないものね。これは私の問題だものね!」
いつもの冷静さを身にまとった理子は、少し涙声になりながらもそう冷たく言い放った言葉に、僕は苦しみと怒りと憎しみの入り混じった感情が込み上げてきて、もう抑えることが出来なかった。
「もう・・・君を信じられない。許せない・・・僕は理子を許せない。出て行けよ!!」
「・・・・・・・」
無言で踵をかえして足早に去って行く理子の背中が強烈な印象を残し、僕の苦しみを倍増させる最後の一枚として沈痛のフォトアルバムに追加された。
高田さんを吉祥寺駅まで送った帰りの空は、あの日の宇宙まで届きそうな澄みきった雲ひとつない空と一緒で、あの病室から感じた内と外を強調するかのように凍てついた寒さが、あの日僕と理子の最後の別れを告げた。




