始まりの光陰
季節は移り変わる。
心とともに移り変わる。
つい先日まで緑色豊かな世界観を入道雲の壮大で真っ青な空が見下げているとおもっていたら、金色の風景を映し出す為の段取りを整えるように、どんよりとした陰りをみせる曇天。まだ夏の余熱を残した天地に、徐々に肌寒さが顔を見せ始めては恥ずかしそうに隠れてしまう。
ここ3~4日雨が降り止まない日々が続いていた。
この雨が止む頃には鈴虫の音色が妙に心に響き始め、辺りもすっかり赤や茶色の褐色へ衣替えをしているだろう。
秋の空とはよく言うが、心や愛情が変わりやすいはずの季節に差し掛かっていても、一向に僕は満たされることのない日々を暮らしていた。
毎日決まった時間に起きてアルバイトへ行く準備をする僕だったが、この日は朝から身体のいうことがきかなかった。身体を起こそうとしても全身の気だるさが勝っていて、布団から出ることができない。
「・・・・・弱ったな。」
とりあえず身体に鞭を入れて、体温計を探し左脇下に装着してまた布団へ潜り込み、体温計の知らせを待ちながら、ふふと微笑んでいる自分に気付く。
こうして身体が気だるく熱が明らかにあり、考えるのもおっくうな状態なのに、たった一度だけ風邪をこじらせて倒れた僕を看病して泣きそうになっていた理子の姿がフラッシュバックしてくる。
ちょっと!祥!!こんなに熱があるじゃない!理子は、怒り気味にそう言うとそれでも心配そうな泣き顔に近い表情で僕に向かってそう言った。
「あぁ、ちょっと高めだね・・・。」
もう何も考えが追い付かないくらい、疲弊していた僕は理子に対しても適当な受け答えしかできなかったが、ちょっとどころじゃないよ!!39℃近くあるんだよ!死んでしまったらどうするの!?と、いつも冷静な理子が今にも大粒な雫が瞳からこぼれ落ちそうになりながら、僕の右手をジッと掴んで離さずいつまでたっても寝かしてくれない。それが妙におかしかった。
「大丈夫だよ。ちょっと寝てればすぐに熱は下がるから。」
そのまま理子は僕の布団の上から、十の字になるように顔をうずめながら肩が波打っているのが布団越しにみえて、
「理子、本当に大丈夫だから。あ!そういえば少し寒い気がする。理子も一緒に布団に入って温めてくれる?」
そう言うと、理子は顔を猫みたいにごしごし拭いて少しふくれっ面で、しょうがないな~と、言わんばかりの顔をしながら僕の熱の籠もった布団の右隣の中にススっと身体を寄せて入ってくる。
朝から体調の悪かった僕は、稽古場では平気を装って稽古をしていたが途中で限界が来てしまい倒れてしまった。稽古場では付き合っている事を内緒にしていた僕たちにとって、理子はそこですぐに駆け寄れない事に業を煮やしていたことだろうと考えながら、理子の横顔を少し撫でる。んっ、と少し瞼が腫れた真ん丸な瞳でこちらを向く理子に、思考が低下しているにも関わらずドキッとしながら、ごめんねというと、本当だよ!祥は無理し過ぎ!と一喝して、坂田さんが直ぐに行ってあげなっていろいろ気を使ってくれたの、と付け加えた。
「そっか、お兄ちゃんが・・。今度二人でお礼しないとね。」
うん、とそう言ってまた僕の胸に顔をうずめて、僕を優しい暖かさで包み込んでくれる。
坂田俊樹は、この時の僕と理子の関係をプロダクション内で唯一知っている存在だった。
ピピッ!ピピッ!
電子体温計の音がなり、熱をみてみる。
「38.7℃・・・。こりゃ~だめだな。」
思っていた以上の高熱で、実際に電子数字を目の当たりにして余計に体がだるさを要求しているように思える。測ってしまった事に少し後悔を覚えつつも携帯を手に取りアルバイト先に電話を入れる。
「あっ、店長、すいません。朝から高熱を出してしまいまして・・・。39℃近くまで熱が上がってしまっていて、申し訳ありませんが、今日お休みを頂いて宜しいでしょうか?」
「おいおい、大丈夫?こっちは平気だからゆっくり休みな。独りで大丈夫か?」
「あ、大丈夫です。寝てればすぐに良くなりますから・・・。」
「そうか?ま、やばそうだったらすぐに連絡するんだぞ!」
店長の優しさが風邪で言うことのきかない身体と気持ちの弱っている僕にはすごく暖かく感じた。
熱が一向に下がらず、布団に入っていても熱のせいで眠ることすらままならない。こういう時は不安という魔物が必然的に覆いかぶさってくる。それと同時にいろんなことを考えてしまいがちである。高熱で思考は低下しているはずなのに、頭が冴えてくるおかしな感覚。雨は好きだった僕も、こういう時の雨の滴る音はより一層の不安をあおり、気持ち悪かった。
ふと、気配を感じてドアのほうに目を向けてみる。
「・・・・!?お、お兄ちゃん!?」
今いるはずのない坂田俊樹の姿をみて驚嘆しそうになったが、よく見ると壁のコルク板に貼ってあった一枚の写真がヒラヒラと木の葉舞うようにゆっくりと落ちていく。
写真はちょうど、表面で床に落ち、その写真を眺めると楽しそうに笑っている坂田俊樹と僕、理子、そして理子の同期の高田が上半身UPで狭いフレームの中並んで映っていた。
「お兄ちゃん・・・。」
僕が過去に縛られたまま動けない理由をお兄ちゃんは必死に未来を与えようとしてくれている存在である。しかし、理子とお兄ちゃんの両方はクサビのように僕の陰と陽を結びつかせる。
僕は一年にたった1度だけ、どんなことが起ころうとも毎年必ず中野駅を訪れる。それは例えば、登山家が目の前に山があればあたり前の様に登頂して、なぜ山に登るんだい?と問えば、そこに山があるからさ、と愚問のように答える、僕にとってはそんな至極あたり前の事になっていた。
1月7日…
それはまだ、僕が東京に出て来たばかりのいい加減な気持ちを持って役者を志している頃、何の目的もなくなんとなく有名になりたくただただ売れたいと思っていた頃、その時に知り合った一人の役者の人生に深い繋がりがあった。
決して上京して来る事はないだろうと思っていた。田舎に比べると随分と息苦しくもある無彩色な過密都市は、僕にはあまり良いイメージはなかった。右も左もわからないまだ上京してきたばかりの頃、吉祥寺に田舎とどこか似た感触を持った僕は、掌を返すようにすぐに順応し始める。
田舎から飛び出してくる当日の瞬間は今でも忘れない。地元を離れる事に多少なりとストレスを感じていたはずの僕は、なぜか地元を出発する際の気持ちはすごく清々しく新鮮だったのを良く覚えている。
冷静でいるのに高揚感というか、闇夜から一筋の光が持たされ徐々に茜色の明け方を迎えるような、例えるなら…そう!真冬のマラソン大会だった。
小学校や中学校で走った真冬の北風が吹き荒れるマラソン。スポーツが得意だった僕は全校上げてのイベントをドキドキして、その緊張感を楽しんでいた。教室から一歩足を踏み出した途端、その気温差に身が引き締まり、それが寒いと脳が身体に伝達するよりも先に痛いと感じる程の凍える寒冷さ。
その寒いのを通り越して痛いと感じる状況にもかかわらず、半袖短パンになり運動場に飛び出し全校集会よろしく、生徒たちは整列をする。スタート前の緊迫した緊張と寒さによって思考回路が低下していくのを手に取るように実感する。校長先生の長い挨拶にうんざりし始めた頃、スタート整列の号令がかかる。
いよいよ緊張が頂点に達しようとしていた頃、まわりの生徒たちとのスタートの場所取りの駆け引きが始まる。
ただ純粋にマラソンを迷惑に思っている生徒や興味ない生徒、必死で先頭を取ろうとする生徒と様々だったが、僕は後者の方だった。
なんとか先頭に近い位置をキープして、スタート待ちをする。
パ~ン!
一斉にスタートを切る生徒たち、僕も程なくよいスタートを切るが、身体が冷えきってしまっている為、足の裏がジンジンする。しかしそれに耐えるとオイルをさした自転車のようにスムーズに身体が動いてくる。
走っていくうちに段々と身体が温まってくるのが伝わり、気付けば額に汗が滴り落ちている。でも、北風の吹き荒ぶ冬なのだ。身体が温かいと感じているはずなのに身体を覆う冷気によって、暑いのに寒いという摩訶不思議な状態が出来上がる。
この感覚が僕は好きだった。
そう、東京に上京する際、不思議だがこの感覚を味わえたんだ。だから僕の人生をおそらく左右するであろうこの第一歩は、鮮明な記憶として僕の中に残っていた。
東京に出て来る事になったのは、月並みではあるけどあるオーディションの書類選考に通過したからだった。まだオーディション自体に受かった訳でもないのに、ここぞとばかりに書類選考に通過した事を理由に実家を飛び出していた。母親から高校卒業をしてからは家業を継ぎなさいと強く推し進められていた僕には、実家を飛び出すにはその理由で充分だった。
見渡せば地平線まで見えるんじゃないかと思わせるくらいの広大な田園風景の隅っこに、小さな町工場が田んぼに向かって自分の主張を誇示するかのように立っている。隣接する鈍色の瓦が目立つ純和風の一軒家を町工場と繋ぐ通路がまるで手を取り合っているようにも見えた。僕はここで育ち、この町工場を長男として継いで行く。まぁ、それも悪くないか…と、まだ若いにも関わらず諦めにも似た覚悟が働く原動力となっていた。
毎日、働いては真っ黒な姿になる事にも慣れて、日々が黙々と過ぎていき20歳を迎えた年、僕はある一本の映画の一人の役者に魅了される事になる。
それは幼少の頃に失くした大切な宝物をどんなに泣きながら探しても見付からず、ある時ふと偶然的にも発見できた、そんな素敵で輝かしい出会いだった。
ゲーリー・オールドマン。
気付いた時には僕はゲーリーに夢中になっていた。芝居という表現法によって、諦めかけたていた自分の未来に一つの光が照らされて、僕が自然と光源を模索し始めるまでそうは時間がかからなかった。傍観者から表現者へ、この時の僕のくすぶった価値観をゲーリー・オールドマンと芝居が救出してくれた。命の恩人にも近い感情が田舎を飛び出すことを一つずつ選択し決意に変えていく。
僕がこっそりとオーディションの用紙を郵送し、程なくして書類選考通過の通知が返ってきた時、これで第一歩が踏み出せる喜びに母親がブレーキをかけてくるのは当然のことだった。しかしもう前を向いてしまっている僕にはさしたる障害でもなく、ハードルをぴょんと乗り越えるように母親の説得をしていく。そんな中、家業を一番継いで欲しいと思っているはずの僕の父親は、ずっと沈黙を守ったまま静観していた。
職業柄だからだろうか、父親はかなりの筋肉質の持ち主で普段から口数の少ないいわゆる職人気質の人だった。酒豪でギャンブルもやる、そんな父親だったが僕は母親以上に父親の事を尊敬している。だから、高校を卒業してから継ぐということに抵抗はあったものの、継ごうという覚悟に至ったのはこの父親であったからこそ成り立ったものだった。
子供の頃、父親からはよく殴られたものだった。特に嘘という言動には過敏に反応して、僕が万が一にも嘘をつこうものなら漆黒の恐怖で覆われた。そのおかげで僕も人に嘘をつく行為を全くしなくなったし、逆に嘘をつく人は今でも大嫌いだ。暴力的な父親は当時は好きではなかったが、偽りや暴力は人の為には不利益という事を身を持って学ぶことができ、多くのものを授けてくれた不器用で口下手な父親の教えを今ではとても感謝しているし、愛している。
東京に旅立つ前日、東京に行く事にずっと静観したままだった父親が珍しく外に酒でも飲みに行こうと誘ってきた。父親と晩酌する事は一つ屋根の下にいるから珍しくもないことなのだが、外に二人きりで飲みに行くのは初めての事だった。
昔ながらの居酒屋よろしく、家から歩いて15分ほどの慣れ親しんだ朱色の暖簾が印象的な酒処に腰を据える。
「らっしゃい!…お、親子二人で来るなんて珍しいね。」
居酒屋の大将はいつものように温かく僕たちを迎えてくれる。これが地元で最後の晩餐になるんだと思うと少しセンチな気持ちになった。
「久しぶり、大将。」
昔から父親はよくここに入り浸っている常連で、子供の僕をよく連れて飲みに来ていた。小さかった僕は、厨房にまで潜り込んだりして家で見ることのない大きな調理器具などをみては興奮し、よく走り回っていたのが昨日の事のように思い出されて懐かしい。幼少の僕にとってここは大きなおもちゃ箱だった。
思春期になってからは全く顔を出す事もなくなってきたが、ここ最近は友人と飲む時にはちょくちょく使わせてもらっていた。
中央に黒色のコの字に囲んだカウンターの上には煙止めの少し小さめの暖簾がたれていて、焼き鳥の香ばしい匂いが染み付いていて食欲をそそる。そのカウンターの真ん中に親子並んで腰掛ける。
「二人揃ってくるなんて本当にめったにないよな~。いつもの日本酒でいいんだろ?祥ちゃんも同じかい?」
「じゃ、同じので」
「大将、今日は客少ないな。」
「そうなんだよ~!だから二人揃ってきてくれて助かっちゃったよ!」
「ま、たまにはな。」
相変わらず口足らずの父親は、きっと初対面の人には怒っているような印象を与えるだろうが、これが通常の自然体だった。
親子二人、晩酌を酌み合わせているにも関わらず、ここでも東京に行く事、家業の跡継ぎはどうするのかという事については全く会話にもでず、それどころか父親は大将との会話を楽しんでいるようで、時間だけが刻々と波を打っていった。
酒の肴も堪能し、ほろ酔い気分になったあたりで居酒屋を後にした。外に出ると冷たい風が迎えてくれて、ほろ酔い気分をさらって行ってくれるのが心地良い。ずっと静観を保っている父親に、ついに僕が痺れを切らして
「明日、東京に行くよ。」
この年齢にもなって未だに父親の事を恐ろしいと思う所があった僕には決意を持っての一言で、どんな返答が返ってくるのかも大体想像がついていた。ところが長い沈黙の後、父親が発した一言は意外なものだった。
「ああ…お前の人生だ。好きにしろ。」
想像すらしていなかった思いもよらない返答に、驚きと動揺を隠せずにいた僕は父親の背中姿をただ黙って凝視し、気付けば瞳に焼き付けていた。その大きく力強い背中は父親の不器用さをそのまま表わしている様だった。小刻みにリズムよく動く肩、丸太のように太い腕、父親の背中をこんなにもまじまじと観察するのは初めてかもしれない。そう考えていると想像すらしていなかった父親の言葉が、壊れたレコードのように何度も頭の中で木霊し目頭が少し熱くなってくるのを感じた。
父親の後姿をみて、立ち止まっている僕に
「ほら、どうした?帰るぞ!」
と、言ってすたすたと歩いていく。父親の背中をもう暫く見て居たかった僕は、その背中が見える一歩後を金魚の糞のように追いかけて歩いて行った。
その言葉からまた無言を保っていた父親が、家に到着するほんの数メートル手前で、最後にこう告げた。
「…頑張ってこい。」
何百人と申込があったオーディションの書類選考に通った30名余りが一つの空間に集められ、プロダクションの社長である森田の話しを一心に訊いている。このオーディンションは所属者を決める為だけに開催されたようで、一日で終わるものではなく一般に言うワークショップ形式の6日間のオーディションだった。全てが初めての経験でワークショップなんて言葉も当然知らず、僕はまだ役者としては全く無知で分けもわからず受講していた。
初日にそれぞれ台本を渡される。初めての台本、初めての演技、僕は初めてばかりの新鮮な経験に興奮を抑えられずにいた。台本は30分位の実際に使用された舞台の脚本で特に配役など決められずにワークショップは進められていく。それには理由があった。
「君たちには最終日にこの舞台の本番公演をしてもらう。但し、観客はウチの関係者と所属者であるから、そんなに構えなくても大丈夫だ。所属オーディションだが、この舞台公演のワークショップを通して最終日に所属合格者を発表します。」
オーディションというのはこんなものなんだと無知の僕はそう思っていたが、周りの反応をみて通常のオーディションとは少し違うことを容易に想像できた。続けて話した森田の一言に参加者一同にどよめきが走る。
「それから6日間の予定ではあるが、あくまで毎日がオーディションです。毎日落選者が出ると思うので、そのつもりで望んでください。」
緊張と不安の混沌とした空気が一気に会場を覆って行くのを感じた。そんな中、僕は与えられた台本を一生懸命に覚えて必死に演じるしかなかったが、ただ演じること自体初めてで演技がどうゆうことなのかもわからず、まわりの受講者をみようみまねで演じるほかなかった。
たったひとつだけ気がついたことがあった。その時の僕にはそれしか出来ないと思い、それだけは誰にも負けないようにと望んでいた。声だった。全くの素人でも声だけは感情に関係なく張り上げることが出来たので、芝居を全く出来ない僕には声を出すことでしかアピールするものがなかった。
4日目ともなると、もう人数が半分近く削られていた。4日目に、現所属者の数名が舞台装置や音響などを手伝う為、初めてオーディションの参加者の前に現れた。皆、森田のサポートの為、テキパキと動いている。台詞のチェックや舞台の立ち位置のチェック、音響など、みんな慣れた手付きでこなしていく。その中でも、一際テキパキと動く女性がとても印象的だった。決して笑顔を見せず、かといって、剥れている訳でもない、クールという言葉がよく似合うそんな女性。その女性が動くだけで、とても華があるように感じて僕はすごく気になっていた。
誰よりも声を大きく出して望んでいた僕に、他の参加者達の冷たい視線を感じる。それはそうだろう。感情も演技も関係なく、大袈裟に言えば台詞を大声で叫んでいただけの僕が、日々数名落選者が出ている中で、なぜか落とされる事もなく気がつけば最終日のメンバーに残っているのだから。
書類選考数百名から始まったオーディションは、初日30名余りもいた人数が最終日に残っていたのは7名であった。初めての体験で不安や緊張の連続だった僕も、6日目になると芝居をするのが楽しくてしょうがなかった。初めておもちゃを買い与えられた子供のように僕は新しく初めての気持ちを芝居によって手に入れつつあった。
6日間もあると、人は不思議でライバル同士であるはずなのに周りの人間と自然に打ち解けてくる。同じ目標に向かう戦友のように感じるのだろうか、常に一緒に行動するようになる。相変わらず周りの冷たい視線を感じていた僕はその中に溶け込むことも出来ず、ただ黙々と独りでいた。もともと、人との関わり合いはあまり得意な方ではなかったが、東京に出てきたばかりの僕にとっては少し羨ましくも感じていた。
「それでは配役を発表する。午後から本番の公演をするから、みんな準備を怠らないように。それと7名じゃ一つだけ役が空いてしまうと思うが、足らない役に関しては現所属者に手伝ってもらって公演をします。今、手伝ってもらう者に自己紹介をしてもらうから。おい!倉田。ちょっとこっちにきてくれ。」
舞台の設置などをしていた一人の女性が小走りに森田の横に来て自己紹介をした。その人は僕が4日目に初めてみて、気になっていた女性だった。
「倉田理子です。宜しくお願いします。」
ドキッとした。言葉短くそっけない挨拶をしたその女の子は、少し冷たい真っ黒よりもちょっと希薄の瞳が印象的で綺麗な長い黒髪のツンとした美貌の持ち主だった。僕はこんなにも女性を一目見ただけで興味を魅かれたのは生まれてから初めての事で、なぜこんなにも興味を魅かれたのかは分からないが、彼女の瞳に僕は吸い込まれてしまいそうだった。
午後の本番に併せて昼休憩をとっているみんなを横目に、もうすぐ本番だというのに相変わらず僕は独りでいる。コンビニで買った僕のお気に入りのおにぎりを口に頬張りながら煙草でも吸って落ち着こうと思い表に出た。
上を見上げると水色の澄んだ高い空がまだ寒さを物語っていたが、たまに吹く一陣の風に微かな春の匂いを感じ取れて、僕は少し満足げで煙草に火をつける。
「いよいよ最終日ですね。」
突然声を掛けられ、ビクっとして後ろを振り返ると男性がニコッとしながら立っている。顔立ちは少し老けてはいるが二枚目で少し身長の高いその男性は、そう言うとそのままニコニコしながら僕の隣まできてハイライトの煙草をおもむろにくわえて火をつけた。
「あ、俺、坂田俊樹。なんかずっと一人でいるから気になっちゃってさ。」
「あっ、ども。瀬戸祥です。」
「あははっ、知っとっとよ~。6日間も一緒にいるんだから。芝居で元気が一番よかもんね。」
「いや、芝居はやったことないんで、声出すことしか出来ないですから。」
「うそっ!演技するの初めて?」
「…はい。」
「えっ、本当に初めて?」
「はい…そうですけど…。」
「すごかぁ~!!最終日に残るわけだ!今日は頑張って絶対一緒に所属決めような!よろしく。」
ハイライトの独特な匂いを体中に身に纏っているのが印象的でちょっと九州訛りの入った言葉の彼はそう言うと、片手を出して強引に僕の右手を受け取り握手をしてきた。人との壁をすぐに取り除ける不思議な感じを持ったこの人は、7人残った受講者の中で素人目にみた僕からでも明らかに芝居が出来る人だった。森田もオーディション中には受講者に対して褒める事はほとんどなかったが、彼だけは絶賛される評価でほぼ間違いなく合格するだろうと他の受講者が前に噂していたのを耳にしていた。オーディションも彼を中心に他の受講者達は囲んでいて、いわゆるリーダー的な存在だった。いや、どちらかというとムードメーカーも兼ねたリーダーって感じだった。
人をひきつける魅力があり底抜けに明るい性格で、この6日間ずっと彼は中心に立っていた感じがする。
「緊張しとっと?え~と、あ、祥って呼んで良い?」
「…は、はい。」
「祥、初めての芝居かもしれないけど、大丈夫!祥はきっと受かるよ。なんたって初めてなのに他の誰よりも羞恥心がないんだから。これはすごい事だよ。祥は声がすごくよく出てるし、しかもよく通る!だから、大丈夫。頑張ろうぜ!」
東京に出てきて、初めて感じた安心感だった。ちょっとの会話だけど彼が話してくれた事によって、少しだけこれからの本番への気持ちの余裕が出来た気がした。そして、なにより初めての客前での自分の芝居に少しだけ自信を与えてくれた。
最終的に残った7名と現所属者1名で本番に臨む。この時の僕は、人前に出る緊張感も確かにあったが、それ以上にすぐ横にいる女性にドキドキしながら、最終のオーデション兼公演に臨んでいた。
今までの6日間と同じく誰よりも声を張り上げて、芝居とはとても言いがたい演技を本番でもこなしていく。僕の初めの場面が終わった頃、入れ替えで舞台に上がる坂田俊樹と倉田理子の場面を見て、脳に直接入ってくる電気信号によって衝撃を受けた。
あんなに無愛想で冷たい目をしていた倉田理子が舞台に上がった途端、別人のような明るい笑顔や、ハキハキとした口調、坂田の存在が小さく見えるほどの圧倒的な存在感、舞台なのに自然に見える芝居、僕は一瞬で目を奪われ、舞台袖で見ているにも関わらず時間を忘れ、見とれていた。
舞台に華がそえられるというのはきっとこういうことをいうのだろう。
「すごい…。」
倉田理子が舞台袖に戻って来た時に、僕は無意識にそう口走っていた。
「ありがと。君、芝居初めてでしょ?ただ声が大きいだけになっているよ。ほら、もうすぐ一緒の場面なんだから、声だけに気をとられないようにね。」
キツイ物言いだけど、倉田理子と交わした会話と目の前で実践した芝居をみてもっと芝居を面白いと感じた僕は落ち込むよりも、逆にドキドキした感情と感動が入り混じって舞台上で何かを手に入れたようにはしゃぎ、気付けば今まで以上に声高に芝居をしていた。
とにかく、楽しかった。舞台に上がるのが嬉しくて楽しくて仕方がなかった。
「では、最終の合格者を発表する。」
舞台が終わり、後片付けを程なく終えた頃、森田からオーディション参加者7名が集められていきなりこう告げられた。7名は今日オーディション結果が出るとは思ってもいなかったから、一同に動揺している。
「合格者は、坂田俊樹と瀬戸祥の2名だ。他のみんなは6日間ご苦労様でした。今呼ばれた2名以外はここで解散です。」
森田から出た言葉に理解を求めていた時、僕の肩が大きな手にぎゅっと抱かれ
「祥!!やったな!受かったぞ!!」
坂田俊樹のその言葉で、僕は受かったんだとようやく理解した。
「はは、言ったろ?絶対に大丈夫だって!」
「…うん、ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんのおかげだよ」
「お兄ちゃん?…なんだそれ?」
「いや、僕には兄っていないけど、東京出てきて初めて安心出来る言葉をかけてもらって、あぁ、何かこれがお兄ちゃんかな?って思ったから、坂田さんはお兄ちゃん。」
「あはは、ふ~ん、そっか!んじゃ、弟だな。やったな祥!!」
「うん!」
坂田と喜びを確かめ合っている僕は、まだ舞台の興奮と合格の興奮、そして倉田理子への興奮が冷めないまま森田の説明を聞いている。どうしてもどこかで倉田理子を気にしている自分に気がつくと、なおさら興奮が目を覚ましていつまでもドキドキが止まらなかった。
「倉田も今日はご苦労さん。もう今日は帰っていいぞ。」
「はい。失礼します。」
足早に去っていく倉田理子を横目に追いながら僕はどうしてももう一度会話がしたくて去っていく倉田理子に
「あの、今日はありがとうございました!これから宜しくお願いします。」
そう伝えたが、倉田理子の返答は相変わらず素っ気無く心無い物で
「いいえ、ちゃんと芝居覚えてね。」
と、冷たい瞳で一言だけ告げて去って行った。でも、あの冷たいのに寂しげで印象的な瞳がいつまでも忘れられずにずっと僕の心に留まっていた。
この日の澄んだ水色の高い空は、僕を東京に迎え入れてくれて素敵な出会いをもたらしいつまでも高く澄んでいた。
『ブブブー、ブブブー』
携帯電話の着信バイブ音で目が覚める。高熱のせいでうなされてなかなか寝付くことが出来なかったが、いつの間にか眠りについていたようだ。
電話は尾澤沙織からだった。どうしたのだろうと慌てて携帯を手に取り通話ボタンを押す。今、少し動いてみてわかったが、寝たお蔭だろうか、熱も引いているのがすぐわかりずいぶん体調は回復したようだった。
「あ、もしもし?瀬戸君?よかった~!!何回も電話したんだよ。」
そう言われて、掛け時計を見上げてみると、もう夜の9時近くだった。
「え、ごめん。寝てたみたい。」
「ううん。寝てたんならいいんだ。電話に出ないから死んじゃったのかと思って心配したんだよ!はは。」
笑えない。尾澤さんの裏表のない性格なのだろうが、高熱で苦しんでいた僕にはあまり笑えない冗談だった。
「あ、それでどうしたの?」
「うん、店長から今日は瀬戸君高熱で休みって聞いて、珍しいな~って思ってさ。ちょっと電話してみたの。独り暮らしだからさ、孤独死なんて困るじゃん。ね~!」
やっぱり笑えない。
「はは・・・、あ、もう大丈夫そうだよ。一日寝てたからかな?熱も下がったようだしすこぶるいいよ。」
「あ、まだ駄目だよ!ちゃんと寝てないと。熱ずいぶんあったんでしょ?」
自分自身が大丈夫と実感して話しているのに、おかしなことをいう娘だな~と思いながら心配してくれている心遣いはありがたかった。
「本当にもう大丈夫そうだよ。それより、今日はごめんね。アルバイト急に休んじゃって。朝は本当に動けなくってさ。大丈夫だった?仕事?」
「全~然!今日は暇だったし大丈夫だったよ!」
「そっか。よかった。本当にごめんね。」
「ううん。それより、お腹すいてない?」
「え・・・、そういえば一日中寝ていて何も食べてないな~。」
「でしょ~!!そう思って材料買ってきたんだ!今、たぶん瀬戸君の家の近くにいるんだけど、家までわかんなくて・・・。お邪魔していい?」
「・・・えっ!?うそっ!?家の近くにいるの?」
「うん、たぶん近く。店長に住所聞いてお見舞いがてらご飯でも作ろうかと思ってさ。」
正直に尾澤さんの行動には驚かされる。でもただ単純に嬉しかったが、同時に戸惑いも生まれて混乱を招いていた。
「今どこ!?すぐに迎えに行くよ。」
家の近くまで僕のお見舞いにわざわざ来てくれているのに、そのまま帰すわけにも行かずとりあえず早々に着替えて、尾澤さんを迎えに家を出た。
外に出ると4日程度降り続き今朝まで曇天でシトシトしていた雨は、すっかり止んでいて、少し肌寒いくらいの澄んだ空気が僕を迎えてくれた。
尾崎さんは家から歩いて2~3分のところで待っていて僕を見つけるとすぐに、お~いと笑顔でこちらに手を振った。合流して、家に向かう途中に
「ごめんね。いきなり来ちゃって。迷惑だった?」
と、今更ながらに謝ってきたが
「全然大丈夫だよ!むしろお腹ペコペコだから助かったよ。」
と、内心戸惑っていたことを隠して明るく振る舞ってみせた。
家に到着して早々に尾澤さんが、すぐ作るね~と台所に行き、慣れた手付きで料理をし始めた。料理をしている間に僕は少し汚れてた部屋を掃除する。たまにチラッと料理する尾崎さんを見て、理子とは本当に真逆だな~と感じてしまう。
理子は全く料理が出来なかった。苦手なんだと自分でも言っていたのをよく覚えている。僕にとってはすごく意外なことだった。普段から冷静でいる理子は、僕の中では何でも出来てしまう才色兼備な女性と思っていたからこそ、少し安心もしたし、料理は決まって僕が作っていた。
「何ニヤけてるの?」
「え、いや・・・ちょっと思い出し笑い」
「え~、何それ~?な~んかヤラシイ。」
「い、いや、そんなことないよ。あ、もうできそう?」
「うん、もうちょっとで出来るから待っててね。」
「うん、ありがとう。」
思い返せば女性に手料理なんて作ってもらうのなんて初めてかもしれない。そう思うと素直に嬉しかったのに、なぜか少し照れくさくもあり遠慮も混在した気持ちになる。
こうして、女性と二人きりで家でいることに不思議と抵抗がない自分に驚きを感じながら、少しは理子を忘れることができたのかと淡い期待を持ってはみる。
期待を持つ?
そんな馬鹿な!それじゃ今までの5年もの歳月はなんだったんだ。
そんな簡単なことなら悩みもしないはずなのに・・・。
「おまたせ~。お腹すいたでしょう?」
そう言って、尾澤さんが鍋を抱えてテーブルに置いてくれた料理は、僕の体調の事を考えてくれたからこそのものだろう。真っ白なお粥の中に希薄色の黄がマーブル状に混ざり合っている卵粥だった。
尾澤さんのその心遣いが嬉しくて、少し胸をうたれた。
「・・・いただきます。」
「は~い、どうぞ召し上がれ。」
おいしかった。なにも食べてないのもあったのかもしれないけど、ひどくおいしく感じた。ちょうど良い塩加減で、卵の甘味が優しかった。このちょっとした味付けを食べただけでも尾澤さんが料理に慣れていることが伝わってくる。
「どう?味付けちょっと薄かったかな?」
「ううん、おいしい。おいしいよ。塩加減もちょうどいいよ。」
「ホント?良かった。」
本当に嬉しそうに喜ぶ尾澤さんを見ていると、心が落ち着くのはなぜだろう?
「本当は、もっといろいろ腕によりをかけて作ろうかと思ったんだけど、瀬戸君風邪ひいてるじゃない?胃に優しいものがいいかなって。風邪が良くなったら、今度はもっともっと手の込んだもの作るね。」
あー、こういうのもいいなと思う反面、こんなことをしている場合じゃないだろと表裏が争いをしながら、僕は嬉しさと遠慮の狭間にいた。
「すごいね、尾澤さんって日頃料理するんだね?実家だったよね?お母さんのお手伝いとかしながら覚えたの?」
話題を変えられて、少しふくれっ面になっているのがわかったがそのまま続けた。
「僕も一人暮らしだから、東京に出てきてから料理は覚えたんだ。ま、上手くないけどね。」
「瀬戸君も料理作るんだ。私はね、子供のころからママが花嫁修業だって言って、いつも台所に立たされてたの。今じゃ、アルバイトがない日は決まって私が作ることになっちゃった。」
「へ~、いいお母さんだね。」
「でしょ~、私の誇り~。」
そんな一面もあるんだと素直に思った。アルバイト先の人気者だった尾澤さんは、僕よりずいぶん年下だし、吉祥寺で育った彼女はどこか垢ぬけて見えたからこそ、そんな一面があるとはおくびにも思っていなかった。
理子も東京生まれ東京育ちだったが、理子は実家からは離れて一人暮らしをしていた。過去をあまり語らない理子の家族のことは、今にして思えば僕は何も知らなかった。かたくなに過去を隠す彼女と過去をプラスに未来へつなげる尾澤さんとは、何もかもが対照的に思えた。
「今度はもっとちゃんとしたの作りに来るからね。」
相変わらず、少し強引なところがある尾澤さんだったが、混沌の中を彷徨っている僕には幾分か気持ちを和らげてくれる存在に間違えはないように思えた。
雨が止み、訪れる鈴虫の音色が秋の夜長の到来を演奏で告げていた。




