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青い忘れな草

 外に出ると暖かな匂いの告げる風が気持ちよく、見上げると宵の空に金色に光った春の大曲線が夏の準備にいそしんでいる。新しいそれぞれの環境に身を投じる人が多い世の流れの中、ゴールデンウィークが終わる頃にはようやく慣れ始める頃だろう。しかし、世の流れに逆らうように、僕にはゴールデンウィークなんてものは当然の如くなく、アルバイトと稽古のいつもと変わらない往復と、あいも変わらず時間が止まったままの古時計を動かそうともせず過去に停滞したまま彷徨いを繰り返している。

 桜のあの見事な淡紅色も今ではそれぞれの枝に新しい命の芽吹きが育っている。宵の空をじっと眺めてみる。特に5月というこの時期の宵の空はいろいろな顔を持っていて、橙色から褐色に変わる空はオーロラにでも憧れるような虹色の表情を恥ずかしそうに現してくれる。

 宵の空から完全なる星月夜に変わる頃、家に向かおうと井の頭公園を後にする。井の頭公園の古着屋が集まる坂道を一歩ずつ足元を確かめながら登っていく途中、突然の携帯バイブレーションに驚きながら携帯を手にする。

「瀬戸ちゃん?あ~、村中ですけど。」

 着信画面を見るまでもなく、ひょうきんなその声で先生ということがすぐわかる。

「あ、おはようございます!どうしました?」

 そう言って、訊いてはみたものの大体の予想は着いている。

「今、どこいますか?ちょうどご飯でも食べに行こうとしているんですが、一緒にどうですか?」

 村中先生には、稽古がない日でもご飯や飲みに誘って頂ける事がとても多い。独身主義者である村中先生は、自身のプロダクション所属者を本当の息子や娘のように敬愛してくれていて、僕も村中先生を父のように慕っている。

「今は吉祥寺の駅前にいます。いつでも大丈夫ですよ。いつもの西荻窪へ向かえば大丈夫ですか?」

「そうですか、わかりました。それじゃ、30分後に西荻窪の北口で待ってて下さい。」

 村中先生との食事は、決まって西荻窪が多かった。それは、僕への交通に対する負担を軽減する為だろう。そんな先生から伝わってくる無言の優しさや思いやりが、僕にはまた嬉しかった。

 慈愛に満ちた先生へ、僕はいつも感謝の気持ちでいっぱいだった。

 この世の終わりとも言えるような、とても辛いあの決別の別れからずっと過去に縛り付けられている僕が、先生の慈愛に感謝しているのは、僕が生きているんだと自問自答できる手段の一つだった。

 吉祥寺駅からたった一つ隣の駅、当たり前だが30分もかからずに到着した。少し時間があった僕は北口の花屋の前で足を止める。

「忘れな草か…。」

 紫とも青くともとれる、春の豊かで爽快な空にも似たその小さな小さな花の多年草を見つけ心を奪われる。

 混沌と懐かしさの中、理子は僕がよくプレゼントしたこの多年草の忘れな草を大切に大切に育てていたのが鮮明に蘇ってくる。あの頃の子供だった僕を。


「理子?理子?」

 僕の呼びかけに、えっ?と、理子は突然見失っていた何かを発見したかのように我に返った表情をして、な~に?祥?と、一瞬こちらに相槌を打ち、そう言ってまた花を見つめなおす。

 子供だった僕は自分がプレゼントした物だったとはいえ、花に対しても焼餅を抱いてしまう。

「理子、花ばかり見ていないで僕のことも見てかまってくれよ。」

 理子は始めに困った子ねと言わんばかりの表情を覗かせて、すぐにふふと笑い穏やかな優しい聖母にでもなったかのような素顔で僕に歩み寄ってきて、僕の頭を撫でる。

 ふふ、君はおかしい人ね。君がくれた忘れな草に君自身が苦しんでいる。本当に変な人。

 冷静でいる理子の言葉に陥り、不貞腐れる僕へ続けて理子は

 でも、そこが君の魅力で君の良い所。その子供っぽさを私は愛してる。

 不思議な愛情表現をする理子へ、僕はいつでも安堵感を見つけることが出来た。僕のおかしな部分を愛していると告白してくれているこの女性の愛情に、母親のお腹にこれから体が形成されようとしている胎児が、子宮の中の羊水でへその緒一本で繋がっている一体感にも勝る絆のような安堵感。いつでも僕は理子にそれを感じることが出来た。

 いつの頃からだろう、理子と僕が好きではなく愛しているとお互いに表現し始めたのは。いつの頃だったのだろうか?


「お~い、祥!!」

 振り返ると基樹が手を振って駆け寄ってくる。いつも、元気な彼は満面の笑みを浮かべて嬉しそうに僕の横まで来る。

「祥も呼ばれてたんだ!よかった~。いや~、先生と二人きりかと思ったよ。」

 少し額に汗を滲ませながら、笑顔で話す基樹はより一層童顔に見えた。

「お疲れ、基樹。基樹も突然呼ばれたの?」

「うん。さっき電話かかってきてちょうど新宿に買い物行って帰ろうとしてたとこだからちょうどよかったよ!花見てたの?」

「ああ、花って奇麗だな~ってね。」

「え、なに、誰かにプレゼントでもしようと思ってたんじゃないの?」

「そんな相手がいたらいいけどな。」

 そう言いながら女性に対してプレゼントしようなんて気持ち、もう何年もないことに気付き、それが自分と理子との決別を物語っていて、妙に生々しい。

「プレゼントじゃなく、たまには自分の部屋にでも飾ろうかなと思ってさ。」

 思い返せば思い返すほど、負の螺旋に巻き取られそうになり、慌ててそう口にしていた。

「え~!!祥の家に!?似合わね~!!」

「うっさい!!」

 基樹と仲がいい理由はここにもある。基樹のどうでもいい会話は、すぐに現実へ戻してくれてありがたい。僕は現在にいるんだと再確認をさせてくれる。

「あっ!祥、先生来たよ~。」

 そう基樹が初めに気付き、基樹の向いている方角を見渡すと村中先生がこっちだと手招きをして、僕たち二人を呼んでいる。行くかっ、と、踵を返して基樹を誘導しながら村中先生の元へ駆け寄る。

「おはようございます。」

 二人揃って挨拶をすると、あ~、おはよう、と挨拶も程無く、何食べたいと、と訊いてきた。二人で迷っていると、大して考える余地もないくらいの刹那の時間に、あ~、わかった、とスタスタと歩いて行ってしまう。僕たちも慌てて、主人の後ろを歩く子犬のように追いかけていく。西荻窪の北口ロータリーを足げに女子大通りを横切り、商店街通りに入る。ほんの少しだけ商店街を歩き、先生が足を止めたのを確認して僕たちも飼い主の後を追う子犬よろしく、先生の真後ろで歩みを止める。

「ここでいいでしょう?ここにしましょう。」

そういって先生が地下へと続く、人が一人ようやく通れるくらいの細い階段を下って行き、僕たちは黙って後をついて行った。

「いらっしゃいませ」

 店の中をみて、すぐに何屋さんなのかは一目瞭然だった。カウンターの上に透明なガラスケースが配列よく整列していて、笹の葉の上の新鮮な魚が今にも動き出そうと主張をしていた。どんなに僕たちにはあまり縁がない場所でも、店の雰囲気、内装創りを活目すればかなり高級な鮨屋というのはすぐにわかった。

「ちょ、村中先生、ここかなり高いんじゃ…」

 と、言いかけるのを制止するように、まぁいいから、と半ば強制的に席のほうを促されて、カウンターに横一線に座らされる。と、同時に女将さん的な少し年上だがきれいな顔立ちの女性におしぼりを渡されて、

「あら、君たちが村中社長のお気に入りの子達ね。」

 と、話してくるのを訊いて村中先生が常連の店なんだとすぐに気づいた。

「村中社長はね、気に入った人しかここへ連れて来ないのよ。」

「こら、中村さん。いらん事を言わないの!」

「あら、怒られちゃった!」

 僕も基樹も村中先生と食事や呑みなどはよく連れて行ってもらっていたが、いつも一見さんのお店ばかりだったので、村中先生のいわゆる行きつけの店に来るのは初めてのことだった。いろんな話を聞いていると、どんどん僕たちの知らない村中先生の姿が明らかになっていって、先生の過去に一喜一憂をしながら、楽しい時間が過ぎていく。お寿司自体は高級店の名に恥じない、今までに食べた事もない新鮮なネタが次々と出てきて、それが更に楽しさを倍増させた。

 ほろ酔い気分になった頃、それまで上機嫌だった村中先生が唐突に真剣な表情をし、僕と基樹に話しをし始めた。

「この前、話しましたが来年に少し大きめな映画が製作されます。製作プロデューサーとも話しをしましたが、来年の夏頃からオーディションを始め、クランクインは再来年早々に撮影に入ります。しかしね、いくら大きいといっても日本の映画マーケットは正直海外に比べ、規模が小さいのはわかりますね?」

「はい、知ってます。世界に比べると製作費ひとつとっても大きな差がありますよね。」

 日本映画マーケットは世界の、特にハリウッド映画マーケットに比べると、まだまだ天と地ほどの差があるのは歴然だった。それは、日本映画の輸出は輸入額に対して大幅に赤字をカバーしきれないことからも明らかで、日本映画のビジネス枠が小さいと吐露しているようなものだった。つまり、現段階で何十億とかけて映画を制作するということは、制作側が赤字を覚悟の上での進行となってしまう。となれば、簡単には世界視野を入れての映画製作はプロデューサーにとってはリスクが高すぎるのは言うまでもなかった。

「今回の映画を指揮するプロデューサーの小湊はね、私の古くからの友人なんです。まだ、私が役者をかけだしの時代に知り合いました。彼もその時はかけだしでね、歳が一緒ということもあって、よく朝までいろいろと語り合ったものです。」

 先生は、ひとつひとつ噛み締めるように話しているようにみえる。なにか、悔しさにも似た感情がひしひしと伝わってくるのは気のせいだろうか?少し低い声で、思い出しながら過去を丁寧に話す先生の横顔には、迫力すら感じた。

「昔から日本映画は世界に進出することは難しかったんです。今でこそ、映画は徐々に世界に進出はしているものの、それでもまだまだ世界にはかないません。それは、良い作品、悪い作品とかではなく、マーケットの規模が単純に違うからです。」

 先生の言葉が少し荒げているのに気づき、思いがあるんだとようやく気付き始めた頃、先生は続けてこう言い放った。

「日本には、他の国と違った特殊な文化がいくつもあります。それは、江戸時代や侍などといった外国にとってもわかりやすいものではなく、過去から受け継いだ尊貴な文化。それが今、現在の日本人にも根付いています。たとえば、武士道といった精神は現代日本人にも多く引き継がれており心を形に残すといった素晴らしい精神が根付いています。プロデューサーに昇格したばかりの小湊とプロダクションを設立した私はね、世界を視野に入れた映画を製作しようと血気盛んに東奔西走したことがありました。」

 いつも先生と食事などを共にすると、決まって冗談交じりの話しなどが多かったが、いつもとは様子の違う先生を、僕はじっと真剣に見つめ、一言一句の重みを感じながら聞いていた。その横で、基樹もいつも以上に真剣で難しい表情をしながら先生の話しを聞いている。

「でも、ダメでした。資金集めにどれだけ東奔西走しようと、売れている役者にオファーをかけようとも、まったく相手にもされませんでした。」

「………………………」

「……それは、どうしてですか?」

 何も言えなかった僕の横で、僕の言葉を代弁するかのように基樹が言葉を投げ掛けていた。

「…ん~、そうですね、まずはその企画に賛同してくれて資金を捻出してくれる企業が全くなかった。残念なことにね。」

「え、企画がだめだったんですか?」

 基樹はたまに物凄いことを平気で口にすると横で思いながら、

「いえ。あの企画は面白かったはずです!」

「え、じゃあなぜですか?」

「今ほど、世界に対して売れる為、儲かる為のノウハウや情報、知識がその時代は乏しかったんです。それは、私達も一緒で最後の決め手となる説得材料が思いつかなかった。」

 先生は少し俯きながら、おちょこに入っている日本酒を一気に飲み干した。

「そして、なにより一番大きな弊害となったのが、私達自身でした。」

「…どういうことですか?」

 ずっと押し黙って聞いていた僕だが、たまらずに言葉が出ていた。

「私も小湊も、お互いに製作としての大きな実績もなにもない時でした。役者としてそこそこの実績を残していても、製作としての実績は皆無に等しい。知名度のない私達はそれだけで疎外されてしまったのです。」

「・・・・・・・・」

 言葉がでなかった。先生の気持ちが痛いほど伝わってきて心が打ち潰されそうだった。

「はは、まぁ少ししんみりしちゃいましたね。そういう過去もあってからね、小湊とは一つ誓ったことがあったんです。お互いに結果を残そうとね。そして、ある程度結果を残せたと感じたら、一緒に大きな映画を製作しようとね。」

「そうなんですか…。」

「ずいぶん時間がかかりましたねぇ・・・。」

 先生はそう言うとさっき飲み干したままのおちょこを眺め暫く目を閉じた。少しの沈黙のが続いた後、静かに言葉を発し始めた。

「それで来年に製作する映画に実は私も企画として参加します。」

「えっ!?」

「そうだったんですか?」

 驚いた。先生が企画に参加することもそうだが、過去の話しを先生がしてくれる中で一番衝撃を受けた話しだった。先生のあまり見せたことない一面、先生のこの企画に対する想い、全てが自分の気持ちを高ぶらせる。

「今回のキャスティングですが、実は主演以外はまだ決まっていません。正直言えば、君たち二人をキャスティングしたかったのですが・・・ま、小湊とも話して、主演以外はオーディションで決めることにしました。売れている役者も売れていない役者も、そして素人でも主演以外は一般公募します。」

「でも先生、大きな映画なんですよね?」

「はい、そうですよ。」

「そんな大きな映画なのに主演以外はオーディション選考なんですか?」

「今の業界はね、新しい波が絶対に必要なんです。これは小湊と一緒にずっと考えていた作品だからこそ、新しい製作にしていこうと思います。だからこそ新しい波と一緒に製作をして行くには主演以外はオーディションなんですよ。」

 芝居を教えている時のような真剣な眼差しを僕たちへ向けている先生は、おもちゃで一所懸命に遊ぶ子供のような純粋さが感じ取れる。

「だからこそ君たち二人には、頑張ってオーディションに受かって欲しいんです。出来レースでも何でもない、真剣に選定をするオーディションです。それに向けて、瀬戸ちゃんと基樹の稽古を今後は付けていきます。」

「はい!ありがとうございます!」

「よろしくお願いいたします!」

 深々と僕と基樹は頭を下げながら、こんなにも自分たちのこと考えてくれている先生の心遣いが嬉しかった。

「それでね、瀬戸ちゃん!」

「えっ?何でしょうか?」

 突然口調の変わった先生の言葉にビクッとしながら、先生に顔を向ける。

「瀬戸ちゃんにはね、前から言おうとしてたことが実はあります。」

「………はい。」

「僕はね、瀬戸ちゃんの過去になにがあったかまでは詮索しようとは思っていません。ただね、瀬戸ちゃんの芝居には常に100%をやりきったという真剣味が伝わってこないのは基樹が見ていてもわかるでしょう?悪く言えば手を抜いてるようにしか見えません。」

「え、……いや、そんなことは…」

 ドキッとした。理子との決別があってから、僕は芝居を自分の逃げ道にしていたかもしれない。ただお兄ちゃんのおかげでかろうじて芝居を真剣に想うことはできているのは確かだ。

「いいかい、瀬戸ちゃん。君には基樹にも敵わない芝居の才能があります。この場限りしか言わないからちゃんと聞いてて下さいね。」

 普段、滅多なことでは人を褒めない、いや、正確には基樹に対しては褒めることは多かったが、僕には今までほとんど褒められた記憶がない。そんな先生の言葉に戸惑いを隠しきれないでいる。

「瀬戸ちゃんはいいもの持っているんです。特に君の一番の特徴と言っても過言じゃないのが目力です。これは、稽古や訓練でどうにか身につけるものじゃなく、生まれもった才能なんですよ。瀬戸ちゃんは、今まで目に対する稽古や訓練はしてきたことありますか?」

「・・・いえ、ありませんけど・・・。」

「え・・・、祥って今まで目の稽古してきてなかったの?」

「ん、あぁ・・・、目に対しての特別な稽古はやってないけど・・。」

「うそっ……。」

「そうでしょう。目に力を入れろなんて言葉に出せば簡単ですが、あれは稽古をしてもそうそう簡単かつ自然にできる芝居じゃないんですよ。」

「え・・・、そうなんですか?」

「基樹はね、芝居ができます。それは、私の目からみても天才的な演技力です。でもね、瀬戸ちゃんは瀬戸ちゃんで、誰にも負けない個性を持っているんです。」

 こんなことを村中先生に言われたのは、本当に始めてだった。いや、村中先生に限らず、人生でここまで自分の事を買ってくれる人が今までにいただろうか?こんなにも心が満ちていく感覚はもう随分と懐かしく感じる。理子との愛情に満ちたあの空間にも似た感覚で暖かく優しかった。

「だからこそ、瀬戸ちゃん!今のままの芝居では、大きな役での抜擢は難しいです。瀬戸ちゃんの芝居は本気を出してやっていない。それは、瀬戸ちゃんがウチに来た時からそうでした。それでは君の個性は充分に生きてこないからこそ、そこはちゃんと理解していて下さい。100%を私に見せて下さい。」

 図星だった。未来を模索することの出来ない僕はいつも芝居に救いを求める為に、芝居に甘えていたのは言うまでもない。過去を彷徨っている僕には正直どうにかできる自信も勇気さえもなかった。天照大御神が天岩戸へ隠れてしまい光が封じられてしまったかのように、嬉しいはずなのに僕はただただ、…はい、と返事をするしかなかった。

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