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枯渇する再生

 芝居の稽古が終わると、村中先生と食事を共にすることが多かった。村中先生は、芝居の稽古をしていただける先生であり、僕の所属するプロダクションの社長でもある。食べながら今日の演技についての、ダメ出しやアドバイスをしてくれる。一所懸命に忠告をしてくれていたかと思えば突然くだらない話や女性についてなど話し始めたりする。こうゆう砕けた気さくなところが僕は好きだった。

 いろいろ話をしていくうちに先生は必ず昔話をしてくれる。流線を描くようにその話は芸能業界というひとつの社会の話しに移り、ウチのプロダクションの看板女優の話しや役者の話しに発展していく。

 楽しそうに満面の笑みで時には熱くいっぱいの感情が僕に降り注がれる。ガヤガヤした雑談の聞こえる店で、麻薬捜査犬が麻薬を当たり前のように嗅ぎ分けるように、先生の言葉だけが不思議と耳に入ってくる。聖人君子がいたらこんな人かな?と思うことさえある。

 僕は先生の話しを聞きながら理子のことをよく考えてしまう。女優の話しをされると、より一層感覚が研ぎ澄まされ、過去を走馬灯のように駆け上る。だが、嫌ではない。むしろその先生の話をきっかけに思い出すのはすごく自然で、苦しくもなく一番素直に純粋な気持ちで、理子のことを思い出せる。先生とよく食事を共にすることを僕が喜んでいる理由はそこにもある。


 理子も同じ社会で時間が流れている人だから。

 理子は女優なのである。


 理子とは前の事務所で一緒だった。

 お互いにはじめの印象は対照的だった。所属オーディションの最終選考に理子は所属者として芝居の手伝いをしにきていた。最終オーディションでガチガチに緊張をしている受講者に顔色一つ変えずに、ライン作業をするかのような淡々とした対応で手伝いをこなしていく。真っ黒よりも少し淡い綺麗な瞳に吸い込まれつつも、その瞳はどこか寂しげにも見えた。でもひとたび演技の手伝いで役者として舞台に立つと今までの冷静さが何かの冗談だったのかのように、理子の綺麗な瞳が輝き美しい光を放ち始めた。目を塞ぎたくなるくらいの眩しく光る姿に憧れすら覚えて、初対面なのに強烈な印象を与えてくれた。

 光り始めた理子に対して、最終オーディションに挑む彼らはただただ無力で、理子の前にみんな蹴落とされてしまう。僕は芝居自体が初めてだったおかげなのか、僕の芝居自体がとても演技と呼べる代物ではないのが分かっていたからなのか、萎縮する事も無く大きな声を荒げて思いっきり演技ではない台詞を口走っていた。

 そんな物を見せられれば、きっと理子じゃなくても印象は悪く映るだろう。理子に後から聞いた事だが、あの時あの場所で一番最低な人は君だったよと、少し意地悪な顔をして、でもあの時あの場所で一番印象に残ったのも君だったよと、悪戯な冷たくも暖かくもある表情で告げられた。

 対照的なインプレッションに理子は、不思議ね、あの時の君はすごく最低だったのにと、それでも平静さを失わずに言い放った一言に更に続けて、君の事を理解していくうちに君に対しての第一印象がどんどん変わっていったよと、話してくれたのをよく覚えている。

「どう変わったの」

 と、僕が更に聞いてみると理子は意味深げに少し厚めの唇を噤んで君は優しいねと、僕の両の二の腕を引き寄せ僕の胸に顔をうずめて暖かな感触を確かめていた。

 

 最初の頃、理子とは僕が所属してから全く話すことがなかった。理子を見つけては何度も話しかけようと努力をしてみるものの、第一印象が正反対だった為かお互いが警戒しあっていてまともに会話を出来ずに数ヶ月経過していった。

 もちろん僕にとっては最初の出会いがとても強烈で、それからどんどん理子の事に魅かれていくいい出会いだったのだが、理子にとっての僕との最初の出会いは決していいものではなかったようだった。


 稽古場に独りでいることの多かった理子はいつも洗礼された冷たさを身に纏っていた。平常心で沈黙を通す女の子、誰にも頼らなく自分を見せない女の子、僕は理子のことをこの時はとても強い女性だと思っていた。


 東京の空は僕の田舎から比べるといつも曇っているように感じた。東京に出てきて8回目の寒冷を感じ迎えている今ではもうすっかり慣れてしまっていたが、思春期に修学旅行で東京に来たときには、こんなに空気が悪く高層ビルやネオン灯のせいで星も田舎ほどあまりはっきりと見えない都市には絶対に住むことはないなと思ったものだった。

 人はその環境・状況にどんな状態であれ順応して慣れてしまうものなのだが、僕には順応しきれない過去を芝居で循環して光を求めて光源を探し歩いていた。だから毎週3回行われている稽古は僕にとって貴重な栄養源なのだ。

 その日も朝早くから吉祥寺駅に向かって自転車を走らせていた。東京の空はあまり好きではなかったけど、住んでいる所の印象なのか吉祥寺の空は好感が持てた。吉祥寺といっても僕の住んでいる所は駅からかなり離れていて畑などが並んでいる。夜になると街灯も少なく田舎へスリップさせてくれる場所だったから。その町並みを都会の空気に触れる前に味わえる事を僕は重宝していた。

 吉祥寺駅に着くと、いつものように駐輪場へ自転車を置きに行く。駐輪場はかなり駅から離れていて不便だったが、駐輪場から駅まで向かう裏路地を通るのは好きだった。吉祥寺の線路高架の陸橋下沿いを駅に向かって歩いていくと、駅前の道路を境目に急に人並みが増えてくる。駅から50メートルも離れていないこの場所が吉祥寺の一つの分岐点なのだなといつも思う。

 北口から慌ただしく駅のホームに向かって電車に乗り、新宿で乗り換えて高田馬場へ向かう。


 好きなものに没頭している時は時間を忘れられる事が多々ある。だからもっと日々稽古づけになりたいと望んでいるのが正直な所だ。一つの役を作っていくために時間を掛けて入っていく。集中が高まり集中していること自体を忘れる所まで来ると、自分のくすぶっている感情が浄化されていくのを感じる。でも、決まって自分の再生が施されようと差し掛かると光に照らされた理子のシルエットが浮かび上がってきて、落とし穴の罠にかかったようにまた暗闇に突き落とされる。

 僕は役者として別段、有名になりたいわけではなかった。芝居自体が面白かったし、自分を再構築して取り戻せるのは芝居だけだと僕の本能がそう言っている。就職も考えた時期は確かにあったけど、ここから逃げてしまっては僕の人生には大きな穴が開いてしまう気がしていた。それに家庭を持って家族の為にあくせく働くのはまっぴらだった。だから僕は家庭の為に一生懸命働くサラリーマンをすごく尊敬している。僕には出来ない道だったから。その分、表現者として大袈裟だけど世の中の苦悩の連鎖を解放してあげたいと常々思っている。そういった意味では有名になりたいと思っているし、もっともっと役者として精進したいと焦っている。

 でも、本当は焦っている理由にはもう1つ大きな、とても大きな理由がある。


 僕は芝居で犯罪をなくしたい。


 簡単なことではないし、普通に人に話せば馬鹿にされかねないような理由だけど、それは僕がいい加減な気持ちではなく役者を本気で志そうと決心したとても大きな理由に由来していた。


 決まって中央線に乗ると中野駅と東中野駅を通過するせいか、外の景色によって気持ちが分断される。映写機によってフィルムが一定に刻んでいくのと同じで、窓からいろんな模様がスライドされていく。いつも通過していく見慣れた景色。見慣れたものを当たり前に見ている時、そのいつもと変わらない当たり前の景色が自分と同調して寂しさを膨張させてくる。中野駅の北口から伸びるサンモール商店街と東中野駅にさしかかる桜並木を目にすると、まだ桜が咲いていなくとも心の奥底の方でパキンと音が鳴るのが聞き取れる。

 中野と東中野は僕にとって特別なところである。


 僕と理子の特別な場所。


 でも、もう二度と降り立つことはないと思う。いや、だからこそかな、もう二度と足を踏み入れたくはない。

 電車はあまり好きになれなかった。意味もなく感情の引き出しが開けられてしまうからだ。毎回そういう気持ちになってしまう自分に嫌気をさしながら、慣れるって言葉はなんなのだろうか?と自問自答を繰り返す。東中野駅を通過してから僕はこの感情の修復に時間をとられながら高田馬場に到着する。いつもこの修復には少々手間どう。でも修復をしないと芝居をする時の感情創りが困難なのだ。だから僕は稽古が始まる1時間前には着いているように心がけている。自分が1番下っ端というわけではないのだが、保険みたいなもので修復が間に合わなかった時の為に時間の余裕が欲しかった。

 稽古場は高田馬場駅から10分くらい歩くとほどなく見えてくる。

 誰もいない稽古場に着くと、僕は決まって掃除を始める。壊れた感情が心なしか回復するような気がするんだ。


「おはよ~」

 その声に身体を向ける。同じ所属の吉田基樹がまた昨日も深夜のコンビニバイトのせいだろうか、目を真っ赤にして眠そうに入ってくる。

「おぉ、今日は早いじゃん。昨日はバイト?目の下真っ黒だぞ。」

「えっ、ウソ!目立つ?いや~、最近さバイト忙しくて…ここ2~3日あんまし寝れてないんだよね。」

「おいおい、大丈夫か?今日のシーン基樹からだぞ。」

「ああ、大丈夫大丈夫!」

「そっか。あっ、そうだ!基樹ちょうどいいやっ!もう掃除終わるから本読み付き合ってくれよ!」

「そうそう、俺もそうしようと思って早目に来たんだ~。」

「なんだよ、結局僕頼りかよ。」

「いいじゃん!いつも祥早くきて一人稽古してるんだからさ。」

「んじゃ、もうちっと早くきて掃除手伝えよ~!」

「あはは、ごめ~んして。」

「んな、言い方しても可愛くない!!」

「え~、んじゃ、これは?」

 そう言うと、基樹はヨガの立ち木のポーズみたいな格好をし、なんとも形容し難い格好だが、そのままの格好で、

「うん!ごめんっ!!」

 と、謝っているんだかいないんだか、これまたどちらとも形容し難い強調した口調で叫けんだ。

「??…んっ?なんだ、それっ?」

「陳謝の表現!!」

「……さ、さすが表現者!って、言ってる場合か!」

「だめっ?」

「……はいはい、もう~いいよ~。ほらっ、本読みやるぞ!ふふふ」

「へへへっ!おう!やろうやろう!」

 屈託のない基樹の純粋で子供みたいな仕草や行動が好きだった。

 なにげない会話は心をほっとさせてくれる。基樹は僕の数少ない役者仲間であり親友だ。よく二人で飲みに行ったり、家が近い事もありお互いの家を行き来しては芝居について語り合ったり、稽古以外でも時間を共にする事が多い。

 基樹とは3つ年が離れている。僕がこのプロダクションに所属してからほどなく、社長と一緒に別のあるプロダクションに芝居を教えに行った時に知り合った。

 基樹と知り合ってから3年は経つだろうか、まだ別のプロダクションに所属していた基樹は他の所属者と比べると、郡を抜いて芝居が器用だったのをよく覚えている。

 社長は基樹の才能に心底惚れん込んだ様子で、その頃の話しは基樹の事でいっぱいだった。しかし、そのプロダクションでの基樹の扱いは随分と底辺な扱いで、基樹自身いろいろと悩み考えている時期でもあった様だった。

 その事が切っ掛けで社長は基樹を口説き、基樹は事務所の移籍を真剣に考えたようだった。

 なんでも話せる友人は少なからず誰にでもいるものだろう。僕にもかつて、失ってはならない友人がいた。それ以来、心の殻を破ることの出来ないでいた僕は、人を敬遠し遠ざけては、本当の孤独に自ら閉じこもる事で平静さを保っていた。脱出することが出来るはずもない状況を打破してくれたのが基樹だった。


「瀬戸ちゃん。今日のプロダクションへ教える台本のコピー20部ありますか?」

 そう言って、渋谷にあるオリエントというプロダクションの前に駐車をしながら確認してくる村中先生へ僕はいつもと同じ対応をする。

「大丈夫ですよ。でも、20名くらいという話しだったんで一応25部刷ってきました。」

 村中先生は、大雑把なところがあり20部用意してくれと頼まれて実際にその部数を用意していくと、かなりの確率で部数が足らない事が多く、そんな対応にも慣れてきたところだった。

「今日の所は女の子が多いから、瀬戸ちゃんには結構頑張ってもらわなきゃいけないと思うからね。」

「はい!稽古多く出来るって事ですよね!?頑張りますよ!」

 村中先生とオリエントの社長とは昔、撮影で一緒になった事を機会にプロデューサーもしていた村中先生に、今後芝居を本格的に教えたいので講師をして欲しいとの依頼があり、今日は初めて教えに行くところだった。

 僕は、女性ばかりだから男女のシーンをする為にお手伝いとして村中先生と一緒に稽古へ向かっていた。

 女性の割合が多いという事はそれだけ稽古回数が多くなるという事で僕は大いに喜んでいた。

「失礼します。」

「あぁ、村中社長!お待ちしておりましたよ。どうぞ、こちらへ。」

「どうもどうも、こちらが生徒さん方ですか。」

 大袈裟に表現しても決して広くない稽古場に20名くらいはいるだろうか、また更に小さく固まった生徒が、まだかまだかと村中先生の登場を目を輝かせながら心待ちにしていた。

 ざっと見てもやはり女性の割合が多く、男性は3人しかいなかった。

「はい、皆さん初めまして。村中と申します。」

 屈託のない笑顔で自己紹介を始めた村中先生の空間が一気にその場をつつみこむ。待ち構えていた生徒達のマリオネットのようにピンと張り詰めていた糸がふっと緩んでいくのが感じ取れる。

 村中先生の緩急自在な不思議な空間。屈託のない笑顔、優しい口調、今初めて対面した生徒たちのはずなのに、いつの間にか村中先生にみんなが魅了されている。

 村中先生の世界が投影された稽古場、初めての稽古場で初めての生徒たちなのに、既に村中ワールドなのだ。いつも僕はこの世界に圧倒された。それと同時に尊敬という言葉では納まりきらない感情でいっぱいになる。

 村中先生に言われて用意してきた題材を生徒達に僕は配り始める。

「はい、今日は皆さんと始めましてなので、稽古に入る前にちょっとした余興をしましょう。今から皆さんに10分間差し上げます。各自隣に座っている人とペアを組んで出来るだけ多くの話しをして、その人の特徴を摑んで下さい。もちろん皆さんは同じ所属なので各自知っている仲とは思いますが、改めて話しをして相手の事を見てあげて下さい。いいですか!?もう一度言いますね。相手の特徴を摑んで下さい。」

 村中先生の稽古は通常、いきなり台本を用いてワンシーンをドラマ現場と同じように進めていくことが多い。

 しかし、今日はいつもと違う稽古から始まり、僕は戸惑っていた。

「瀬戸ちゃん、何しているんですか?君も同じですよ。君も余った人とペア組んで、出来るだけ多くのことを語り合ってください。」

「え、あ、はい。分かりました。」

 僕は訳が分からず、とりあえずみんなのペアが完成するのを待って、あぶれた人とペアを組もうした。

 女性ばかりの稽古場で、ほどなくして最後に余った人に話しかける。

「あっ、どうも初めまして。瀬戸祥と言います。お名前は?」

 我ながら堅苦しい物言いだなと感じながら、相手の反応を待つ。

「あ~、よかったぁ~!!ちゃんと相手がいて。僕、吉田基樹です。よろしくお願いいたします。」

 一目見た印象は僕よりも随分若くみえる。きっと、まだ20歳くらいであろうその青年の屈託のない表情がすごく印象的だった。

 僕自身、相当人見知りをする方なのだが、その青年の好感触に今まで生きてきて生まれて初めての体験に出会っていた。初対面の人に対してこんなにもすんなりと心を受け入れられたのは僕自身、正直驚いていた。

 すぐに打ち解けられた僕達であったが、やはり10分間は短くて、もっといろんな話しをしたかったが、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 しかし村中先生がおっしゃっていたように特徴を摑むようにと考えずとも、自然と10分間でお互いの考えなどが自動翻訳みたいに頭に入ってきていた。

「はい!10分経ちましたね。皆さん、いいですか?それでは、今から皆さんにはペアを組んでいた人の事を紹介してもらいます。いいですか?今からするのは他己紹介です。では、まずは今回芝居の稽古のために連れてきました、瀬戸君からやって貰います。皆さんとしても初めましての人ですから、参考になるでしょう。」

「え、ちょ、僕達からですか?」

「はい、お願いしますよ。」

 村中先生からの突然のご指名はよくある事だった。僕は始めの頃には突然言われて頭が真っ白になる事が多かったが、そんなことにも、もうすっかり慣れていた。

 この突然指されるという事に慣れたおかげで、随分と度胸がつきアドリブにも対応できるようになっていた。村中先生は日々の稽古に演技力の向上だけを目的としているのではなく、こういった本人が知りえない所で基礎を築き上げれるように考えて稽古をしている事に気付いたのは、それから随分あとになってからのことだった。

 この時点で、今さっき知り合ったばかりの基樹の事を紹介するのには、10分間という時間は非常に短いと思っていたが、すぐに打ち解ける事が出来た事や、考えが方がすごく共感を持てた事によって、すらすらと言葉が出てきた。不思議な感覚だった。

 基樹も同じで、すらすらと紹介をこなしていく。

 それは、お互いに失い欠けていたパズルピースが見つかりやっとはまったような、酷く安堵感に満ちた初めての感覚だった。


『時が人を育んで光を生むんじゃない、人の中で時が育まれ光が生まれるんだよ。』


 村中先生がよく口にする言葉を、僕はこの時に初めて少しだけ理解出来た気がしていた。

 ただ過去との決別を未だに出来ない僕にとって大変重みがある言葉だったし、理解が出来ても整理が出来ない自分に苛立ちを覚えていたが、この言葉の本当の意味を理解するのはもっと後になってからだった。


『時が人を育んで光を生むんじゃない、人の中で時が育まれ光が生まれるんだよ。』


 ただただ重く圧し掛かる言葉、でも僕はこの言葉が好きだった。


 他己紹介が一通り終わると、芝居の稽古に早速移った。用意してきたエチュード用のプリントをみんなマジマジとみている。

 村中先生の稽古は通常ドラマの台本を題材に進めていく事が多い。1つの台本を終了させるのにどんなに早くても3ヶ月くらい時間を要する。現場さながらのような稽古の時間の流れ。1クールとゆう期間を本番と同調させて進んでいく。

 ただ、他の所へ稽古を教えに来るときはエチュードを用意してくる事が多かった。

 エチュードはいわゆる即興芝居で、人物と状況、目的や背景などだけを決めて芝居をすることが普通で、前もってそのシーンの為に役作りすることがほとんどない。しかし先生はオリジナルの台本を作って台詞があるエチュードを稽古に使用する。

 もともとエチュードというのは、楽器などの演奏を向上する為の練習用の曲であったり、絵画などの下絵という意味から来ている。

 芝居にとっても同じで、演技の下地として稽古することが多い。例えば、舞台やドラマなどで役柄が決定している場合でも、エチュードを使って稽古をする人も少なくない。

 その役の台詞にない部分の情感を得る為にエチュードが理にかなっているからだ。ドラマや映画、舞台は即興とは違いその役の台詞や状況が台本にある。その台詞を口に出す為には役作りが不可欠だが、そもそも役を作るという発想自体が少し過ちで、その役に自分が近付くのではなく役と自分を近付けるといった方がより分かり易い。その役を自分に近付け、自分もその役になる為に近付くときに、台詞のない所まで稽古をする事がある。その時にエチュードが活躍する。役柄の人物で台本の場面にはない状況や目的などを決めて稽古をすることで人物像が自分の中で明確になっていくのがわかる。僕も現場に出る前に役柄のエチュードをよくやる事が多かった。

 いわゆるエチュードは演技にとって発声練習と並ぶ基礎練習なのだ。


 稽古を始めて、すぐに一つの事に気がついた。

 ここの事務所のタレントは演技というよりもタレントそのものを育成する事に力を入れている為か、みんなぎこちなかった。普段はアイドルと称して事務所主催のトークライブやイベントなどを月に何回かやっているみたいで、みんな舞台度胸や話す事には慣れているようだった。でも人当たりはいいがエチュードをやると全て上辺だけなのが浮き彫りになってしまう。

 その為に今回村中先生が演技指導に呼ばれたわけだが、正直に僕の目から見てもひどいものだった。村中先生の用意してきているエチュードの台本には、人物と状況と台詞まで描かれていた、いわゆる通常の台本に近い形のものを更に情感やト書きを多めに足して描いてあり、人物像を導き易いようにしてある。

 しかし、人物像の演技指導をする前に停止してしまう。それは、そこに行く前に村中先生が止めてしまうからだが、例えば人を見つける芝居をする時にその後の「久しぶり!」という台詞を言う前に止めてしまうのだ。

 人を見つけるという芝居をする事が出来ない人が多かった。さすがに村中先生も少し頭を抱えていた。エチュードでの人物情感を稽古テーマにする予定だったが、いつしか人を見つける為の演技稽古になっていった。

 7人か8人くらい終わった頃だろうか、初めて男性が稽古に登場した。僕は見つけられる役をやっていて、次の稽古相手が基樹だとすぐに気付いた。

 初めての感覚を見つけてくれたこの青年には、芝居にも驚かされた。演技なのに演技じゃない、自然な立ち振る舞いに面食らい、僕が芝居を止めてしまった。

「こらっ!!瀬戸ちゃん!何やってるんだよ!!」

 村中先生から叱咤がくるのは至極、当然であった。僕があまりにも驚いて、見つける前に今までは止められていた芝居が、そのまま進んでしまったので台詞が飛んでしまったのだ。いや、素直に進んだことで台詞が飛んだわけではなく、基樹の自然な芝居に魅入ってしまったという表現の方が正しかった。

「ほらー!駄目でしょ!!瀬戸ちゃん。もう一度初めから!」

「あ…、はいっ!!すいません。よろしくお願いいたします。」

 僕よりあきらかに若いこの青年の演技に引っ張られて、何事も無かった様に一つのエチュードが結末まで進んでいく。

 演技は一人では成立しないことは十二分に理解していたが、基樹と一緒に演技をするのはとても居心地がよく、気持ちよかった。演技はよく、自己満足や自慰になってしまう事が多く、そうなってしまった演技は観ているほうは面白味もなにもなく、とても観れたものではない。しかし、演者はそれがベストだと妙な勘違いをしてしまいがちなのである。基樹と同じ板につき、芝居を共有してみると、彼の次の行動や芝居がどんな事になるのかとドキドキしてたまらなかった。自然な演技には自然な演技で引っ張られていく。まさに同調だった。当然のように村中先生も随分と驚いていたように見えた。

 終わった後、村中先生は驚きを隠しつつ、

「君、名前をもう一度教えてもらっていいかな?」

「あっ、はい!吉田基樹です!」

 彼は少しうわずった声でそう答えて名乗った。


 結局、稽古を終えてみてエチュードを完結できたのは基樹だけだった。基樹の芝居を見てなのか、年は違うが背丈格好がほとんど一緒で共感を持ったせいなのか分からないが、なぜか僕は基樹ともっと話しをしたくて仕方が無かった。稽古が終わってすぐに、いつの間にか基樹と雑談をしていた僕は、基樹の家が僕の家の近所だという事を知り、通常なら村中先生と一緒に帰るところを基樹と一緒に帰ることにした。

 僕にとってはこんな事は今までありえない出来事だった。今日会ったばかりのよく知りもしない相手と一緒に帰るなんて、現在の世の中に携帯電話を持っていないくらい不自然な出来事だったが、もっと不自然な事は初対面なのに話しが途絶えることなく盛り上がり心の底から笑いあえてしまった事だった。

 初めから不思議と波長が合った。今まで生きてきてこんなにはじめから自然と打ち解けたやつは初めてだった。


 この日を境に僕と基樹の関わりが深くなっていった。親友と呼べる彼との出会いは僕にとって嬉しいはずの出来事なのに、この時の僕は素直に喜ぶ事が出来ない奇妙な感覚までも一緒に獲得していた。複雑に絡み合った巨大迷路を自分で更に道を増やして、より複雑にしていく気分だった。

 そう、『死と再生』の象徴であるウロボロスが永続的であるように、自分で自分の尻尾を食べ、始まりから終わりを繰り返す。僕には親友も恋人も欲しくてたまらないはずなのに、作りたくも無い矛盾のウロボロスの『死と再生』が常についてまわっていた。



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