25
老人が口を閉じると、ながい沈黙が続いた。老人もノルケも思いは遠く暗黒礁域にあった。
それを破ったのは酔客のひとりが誤って落した杯の音で、床に響く甲高い金属音は夢想を覚ます合図になった。老人は眠そうな目を擦り、両手をテーブルに乗せる。
「ゴルフェは、あの暗礁でフゥルフェがどう振るまったのか、それが分かると魂を喪ったようになってしまった。無気力になり、病気休養を申し出、休職した。長い間、世間に背を向けていたのだ」
老人は空の杯にノルケが酒を注ぎ足しても何の反応も示さなかった。ただ機械的に杯の中身を飲んでいる。そんな老人を見ながらノルケが語った。
「あの時の報道を軍のライブラリーで読んだことがあります。皇太子の艦隊はわが軍の極秘部隊により壊滅させられたとありました。また、ストラーも罠に気付いてすごすごと引き返した、とも。どこにもゴルフェやフゥルフェのことなど書いてありませんし、そういう謀略が仕掛けられたことも書かれていなかった。政府と軍を賞賛する記事で溢れていましたね」
老人はただ杯を口に運ぶだけ。ノルケは続ける。
「しかし、カローン側にも真実に感付いていた者がいたはずだ。特にストラーは皇太子の死とそれを報告に来たゴルフェのことを調べればこの秘密を暴露しようと思えば出来たわけだ。カスケーが汚い手を使ったと。ストラーは何故黙っていたんでしょうか?」
老人はふん、と鼻で笑う。
「ストラーは立派な男だと思うよ。話せばそれを仕掛けたゴルフェたちに難がある。例え名前を伏せられ、命令に従っただけとの同情があってもな。それに、謀略に気付きながら引き返したのか、との非難も当然ストラーに降り掛かる。世間にあの緊迫した状況や兵士の心理など理解出来るはずもないからな。結局亡くなるまで黙っているしかなかったのさ。まあ、これもあのモリョフカが考えていた筋書きのひとつだったんだろう」
なんとも後味の悪い無言の時間が流れる。老人は杯を重ね、私服の青年将校は黙ってその杯に酒を注ぐ。やがて問わず語りに老人は話を再開した。
「ゴルフェが軍を退いたのはその二年の後だ。随分と長く掛かったものだ。ほんとうはすぐにでも辞めたかったのだが、有能だった士官がすぐに辞めるのは中々に難しい。記録の上だけの存在とは言え、あれこれと二年の月日が経っていたのだな」
老人はじっと壁を見つめている。ノルケも動かぬまま老人の顔をみつめていた。
「そのくらいの時間ではゴルフェの痛みは癒えなかったが、それでも怒りと無念に苛まれることはなくなっていた。虚しさだけが満ちておった」
老人は自ら樽を取り、のこった酒を最後の滴まで自分の杯に注ぐ。
「それから先は話すほどのものではない。ゴルフェは退官の際、星から与えられたかなりの金で船を買い、それを気ままに動かして彷徨い、漂い、長い、長いときを経て……」
語尾が掠れて黙り込んだので、ノルケは老人が寝てしまったのかと思った。だが、再び老人は顔を上げ、杯をあおってから、
「たまにはフゥルフェ礁にも行った。そこに行くまで何十年も待たねばならなかったが。いや、なに、星はゴルフェがどこに行こうと一切邪魔などしない。彼が真実をベラベラとしゃべり続けるのなら口封じに何かしたかも知れんが……いや、何もしないな。何を言ったところでなにひとつ変わりはしない。彼がフゥルフェ礁に行かなかったのは個人的な理由だ。惨めに生き残った彼は死んだ彼女に合わす顔がない、と考えてふん切りが付かなかったのだよ」
「それで、ゴルフェはフゥルフェ礁で何を見たのです?」
静かな問いに老人は寂しそうな笑いを漏らすと、欠伸をする。
「何か見たか、と?何も見やしないさ。現実は残酷なものだ。そこにあったのは多くの岩クズと難破船の欠片、それだけだ。青い炎などどこにも見えない。だが」
老人はカツンと杯を置くと、こう言った。
「それでもフゥルフェはほんとうにあの星を巡る欠片になっているのだ」
再び沈黙が二人を包む。ノルケはなんともやるせない気持ちで老人を見ていた。
自分が命を賭けて護ると誓った星に隠されていた欺瞞。それは将来を嘱望される士官にとって衝撃以上の何ものでもなかった。
この話を老人の法螺話として片付けてしまうことは出来る。現に上官たちはこのノイ・レ・パウスのことを嘘吐きと断じて黙殺する。きっと彼らも表の伝説だけでなく、この裏話を聞いているはずだ。
軍と政体にとってこの話は悪意の塊だった。だからこそゴルフェとフゥルフェの話はタブーとされているのだ。
だがしかし、この話が嘘というのであれば、なぜそう否定して老人を捕まえないのだろう?そうしないのは……話に真実が含まれているからに相違ない。
真実は弾圧すればするほどいつか明るみに出る。それは隠蔽が必ず暴露の危険を伴うからで、隠せば隠すほど真実は輝き生き延びるからだ。
そう、だからこそ軍も政体も老人とその話を野放しにして、法螺吹きと一笑にふすのだ。そうしておいて、やがて話に尾ひれが付き、真実とはかけ離れたほんものの法螺に近付くように放って置くのだ。
誰もが自分の仕える星の悪口など好まない。話は都合の良い所ばかりが残り、それは本当にあった話ではなく美しいおとぎ話に、伝説になる。そう、だからこそフゥルフェの名前は残されたのだ。真実として輝くのではなく、伝説として名前だけが残るように。
それでもわたしは、幻滅してはいけない。わたしはあの星の士官であり護り手のひとりなのだから……
ノルケは深酒のせいばかりでなく、何かの病気にかかったかのように気分が悪くなっていた。それをなんとか押し殺すと、口を開いた。
「しかしパウスさん。あなたは二人の話を、なぜ見てきたように……」
なぜ見てきたように話せるのか。なぜ、真実をぼかしておとぎ話のように話すのか。
ノルケはそう尋ねたかった。が、果たせなかった。
老人は既に眠りの底に沈んでいて、軽くいびきをかいている。軽く溜息を吐いたノルケが、老人の肩に自分の上着を掛けた。そこであるものに目が留まり、動きを止める。
すやすやと眠る老人の皺だらけの顔は穏やかそのものだった。
半分酒の残った杯に掛かった左手。その第三指が外れかかっている。よく出来た古い義指だった。我に返ったノルケは、そっと老人の左手を掴んで指を元通り嵌め直した。そこで老人の掌に何か文字が彫られていることに気付く。
もちろん、そうだろうとも。もしやと思い、それを確かめに接近したのだ。予感は当たった。
だが、それが現実だったと知ったいま、この底知れぬ虚脱感をどうしたらいいのだろう。
結局のところ、老人は未だにカスケーに忠実なのだろう。真実を話しても虚しいだけでなく、カローン側を利するだけと心得ているのだ。それでもこの老人、真実をぼかし美しく飾った昔話をしないではいられなかった。長いながい時、老人にとっては贖罪の旅の間、機会あるごとに……
ノルケはその心情を思い浮かべた傍から振り払おうと、杯に残った甘ったるい酒を飲み干す。
そして思った――我らの星カスケーが、どんな計略で今日に至ろうと、どんなにそれを恥じて隠そうと、この老人やフゥルフェが英雄であったことを消し去ることは出来ない。それに、我々は葬り去られた彼と彼女に大いなる借りがあるはずだ。
ノルケはさっと立ち上がるや、最高司令官に対してのみ行う、カスケー式最上級礼をきちりと決める。
敬礼を受けた人物は正体なく眠っていた。
その掌にはカスケー語で「フゥルフェよ 永遠に光あれ」と刻まれていた。
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太陽帆について
拙作ではあたかも恒星風を受けて宇宙船が進むような印象で書きました。 実際の原理もそうであると誤解されそうなので、あとがきの代わりに少々太陽帆について書かせて頂きます。
太陽(恒星)からの太陽(恒星)風によって推進するのであれば夢があっていいのですが、実際は光子がセイルに反射するときに発生する反作用を利用する推進方法です。
1919年ロシアの科学者フリードリッヒ・ツァンダーやコンスタンチン・ツィオルコフスキーらが研究成果を発表、24年にツァンダーが理論を確立しましたが、実際に宇宙という過酷な環境に適応する帆の素材が難しく、初めてソーラーセイルで光子加速に成功したのは日本のJAXAのIKAROSで2010年のことでした。
SF作品ではアーサー・C・クラークの「太陽からの風」やコードウェイナー・スミスのThe Lady Who Sailed The Soul が有名です。
出版問題で話題を呼んだ堀晃の「太陽風交点」での太陽風ヨットも印象に残りますね。