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怪我を押してひとりで連絡艇を扱うのは骨が折れた。意地でも弱みを見せまいと失血のために朦朧とする意識の中、誰の助けも借りず連絡艇に乗り、操縦席に座る。ひとり連絡艇を操りながらなんとかストラーの旗艦から離脱し、方向を自分の戦隊に向けると、自動操縦に移し、ようやく一息入れる。途端に膝から力が抜け、思わず前のめりに崩れそうになるのを不思議な思いで見ている。こんなに疲労感を覚えることは宙軍の幼年学校に入った初年生の頃以来だった。
「指の一本くらいなんでもない」
ゴルフェは独り言を呟くことで意識が混濁に陥ることを防ごうとしていた。
「私の身体は航宙軍に入ったときからカスケーのものだ。星のためなら腕の一本くらい」
ゴルフェは揺らぐ視線をモニターに据え、痛みに耐える。
「そして、それは」
堪えるのは指の痛みだけではなかった。
「指などより大切な私の信義も、だ」
我知らず、目尻に涙が湧き出ていた。
「カスケーは私のつまらない虚栄の数千倍素晴らしい存在だ!」
ゴルフェはひとり子供のように泣き出した。
二日の後、暗黒礁域航路のカスケー側入り口を扼する前進砦に帰着したゴルフェの戦隊は、そこにいた多くの艦船から歓呼の声で迎えられた。左手を袋で覆ったゴルフェが艦を降り立つと直ぐにひとりの士官が寄って来て声を掛ける。
「上級統率官。こちらへ」
イクレンドが続こうとすると、
「貴官たちは別の者が案内する」
それを合図にばらばらと兵が十数人やって来て、イクレンドたちとゴルフェの間に壁を作った。見ると接岸ドックの周囲にもいつの間にか武器を手にした兵が大勢配置されており、その一部は停まったばかりの艦に乗り込んで行く。
「どういうことだ?」
士官の所属を徽章から知ったゴルフェが厳しい声で問い質す。
「我らは何か嫌疑を掛けられているのか?」
「そうではありません」
総司令部直轄憲兵隊の士官が答える。
「ただ、第四十四特別戦隊はこの先の停泊域で追って指示があるまで待機せよ、とのことです」
「隔離だな」
「再編の間、待機するだけです」
ゴルフェはもういい、と憲兵士官を黙らせると、素振りで離れた場所へ誘って、
「事情は理解している。だが、あの者たちは何も知らん。私のこの怪我にも大騒ぎをしたくらいだからな。調べるのは結構だが、正式な命令書にも作戦内容は記されていないのだから、副官や参謀を始め戦隊の誰も仔細を知らない。どうか早めに開放してやってくれ」
しかし憲兵はにべもなく被りを振って、
「それは調べてから判断致します。どうぞこちらへ」
ゴルフェは憲兵に案内された別室で待っていた、司令部からやって来ていた参謀に仔細を教えられた。
いわく、ゴルフェの戦隊は暗黒礁域で「司令部作成による奇襲作戦」を実施、敵の先鋒艦隊に大打撃を与えたことにされていること。その際、戦闘を陣頭指揮していたゴルフェが負傷したことになっていること。ストラーに対し行った策略は一切秘密とされること。戦隊全体に緘口令が敷かれ、十日ほど監視の下隔離が行なわれること……
ゴルフェは重い表情でその部屋を出た。待っていた先程の憲兵士官が、
「では、こちらへ」
そして小声で、
「これから基地司令官にお会いしますが、誰も、司令ですら事情を知りませんのでそのつもりで。うまく口裏を合わせてください。いいですね?」
もう二度と、自分は明るい日向を歩くことは出来ないだろう。嘘に塗れた人生、薄汚れた陰を歩くことだけが待つ未来。
軍を辞めるしかない。ゴルフェはそう思いながら、ただ、ただ静かに頷くだけだった。
「ゴルフェ!よくやった!」
前進砦の司令官は満面の笑みでゴルフェを迎え、親しげにその肩を叩いた。
「これで我らの勝ちだ」
しかしゴルフェは憂鬱そうに首を振り、
「カローンは強大です。安心するのはまだ早い、と思いますが」
それに私はこの後、辞任する……すると司令官はにんまりと笑みを深くする。自分だけが知っていて相手が知らない手品の種を暴くのはいつでも楽しいものだ。
「そうか、貴官はまだ知らないのだな」
「この二日間、他に何か進展があったのですか?」
「おおありだ。つい数時間前、司令部より通達があった。暗黒礁域へ強行偵察に出していたホーミネロがアンシュレ砦に帰還して報告したそうだ」
突撃艦ホーミネロの艦長はゴルフェと同期だったはず。アンシュレ砦はこのルージ砦に次ぐ大きさの前進砦で、ここから二日の距離にある。指揮官は少しの間ゴルフェの訝しげな表情を楽しんだ後で、
「カローン皇太子アルフェルの艦隊が暗黒陥穽に捉まり、大損害を受けたそうだ」
「え!」
「場所は暗黒礁左翼、ナンダバル礁域だ。アルフェルの艦隊は暗黒礁域を強行突破しようとしていたらしく、わが精鋭の特殊作戦班が仕掛けた罠にまんまとはまって、暗黒陥穽多発宙域に迷い込んだという。艦隊の半数が陥穽に飲まれ、逃げ帰った艦も岩礁に砕かれ大破遭難する艦が続出、結局百隻近い艦隊は二十隻程度しかアーケガルにたどり着かなかったそうだ」