第39話 君を見つける
「そう……か……。ありがとう」
ティアナの膝の上に抱かれていたレオンハルトは静かにそう言った。
とめどなく溢れてくる涙を拭っていたティアナは、ずっと左手に握りしめたままだった時空石を置き、両手で顔を隠すようにする。
レオンハルトにあなたの口から聞きたいと請われ、出会いからビュ=レメンまでの共に旅してきたことを話したティアナは、勢い余って好きだと伝えてしまった自分に焦っていた。
今、想いを伝えてもどうしようもないことは分かっているのに、言わずにはいられなかったティアナ。ティアナの想いを優しく受け止めてくれたレオンハルトに、どうしようもなく泣けてくる。
「この、時空石の力で私が人の姿に戻るとしたら、今の記憶はどうなるのだろうか――?」
目の前に置かれた淡い光を放つ時空石をじぃーと見つめたレオンハルトは素朴な疑問を口にする。
「それは――」
『人の姿――つまり時空の裂け目に触れる以前に時を戻すということは、時空の裂け目に触れてから以降の記憶はすべてないものとなる』
ティアナだけにカイロスの声が聞こえる。いつの間にか青年の姿は消えていて、聞こえた言葉にティアナはぐしゃりと悲愴に顔をゆがませ、わななく口から消えそうな声を絞り出す。
「消えてしまうそうです、時空石に触れてから今までの記憶はすべて……」
「そう……か……」
瞳を落としたレオンハルトは感情の読みとれない静かな声で言う。それから、ティアナを仰ぎ見たレオンハルトは魅惑的な笑みを浮かべて。
「もっとゆっくりと――ティアナ様と共に時を過ごしていたら、私はあなたを好きになりそうだ」
ふふっと笑って思いもよらない言葉を言われたティアナは、大きく翠色の瞳を見開いて膝の上のレオンハルトを見つめる。
かぁーと自分でも分かるくらい顔が赤くなり、隠すように頬を両手で挟む。今が夜で周囲が薄暗いから赤くなった顔には気づかれていないだろうと思いながら視線をそらす。
好きになりそう――その言葉が嬉しくて、でも、レオンハルトの言葉であってレオンハルトの言葉ではない。人の姿に戻った時、今の会話はすべて忘れてしまうのだ。
ティアナは曖昧に笑い返す。
前足を伸ばして起き上がったレオンハルトは、とんっと軽やかにティアナの膝から降りると、ティアナの真正面に向かい合って座る。
「お願いします、ティアナ様。時空石の力で、人の姿に戻して頂きたい」
凛とした口調で言い頭を下げるレオンハルトを正面に見据え、体の左側の地面に置いていた時空石をゆっくりと握りしめる。
「カイロスさん――」
『なんでしょうか、我が主』
「レオンハルト様を人の姿に戻して――時空の裂け目に触れる前に、時を戻して下さい」
『了解した!』
ばちばちっと空気の振動する音が聞こえ、ティアナの手のひらに置かれた時空石から眩い七色の光が漆黒の空を覆い尽くすように広がり、あまりの眩しさにティアナは目を強く瞑った。
※
「では、これは返すわね」
そう言ってティアナは、ふくふくとした猫の様な体の二匹の守護妖精に時空石を渡す。
ドルデスハンテ城の西の跳ね橋から少し北上した場所で、ティアナとその横には愛馬の手綱を握ったジークベルトが不遜な顔つきで妖精を見つめる。
時空石を洞窟に戻す役目をかってくれたヘンリーとメアリアに時空石を渡すため、人目の付かない北欧の森の近くまで来ていた。
「ヘンリー、メアリア、あなた達のお陰で時空石を手に入れることが出来たわ。感謝しています」
「いいんですわぁ、時空石に選ばれたのはティアナですわぁ、そういう宿命でしたのぉ」
メアリアがにこにこと笑みを浮かべて時空石を受け取りながら言う。
横でヘンリーは眉間に皺をよせ、ふんっと鼻を鳴らしてジークベルトを睨みつける。
「カイロスさんも力を貸してくれてありがとう」
『我が主――選ばれし者。我は遠く離れようとそなたの宿命を見守ろう。いついかなる時でも我の力を必要とする時があれば、強く心に念じなさい。その時は我の力を授けよう』
「ありがとう」
「ティア、そろそろ城に戻るぞ」
「ええ、ジーク……もう少し待って」
そう言ったティアナは、メアリアとヘンリーにだけ聞こえるような小さな声で囁く。
「ねえ、あなた達は知っていたの? この森で出会った時には私がティルラの子孫――って」
ティアナの言葉に、ヘンリーとメアリアが顔を見合わせる。
「そうですわぁ」
メアリアが苦笑して言う。
「お前とティルラはぁ、よく似ている。その森林を写したような翠の瞳もぉ、銀に揺れる髪もぉ、それに――俺達には分かるのさぁ、時空石の守護者であるホードランドの血が流れていることがぁ」
ぶっきらぼうに言ったヘンリーが最後に目を細めてにぃっと笑う。
「俺達はぁ、北欧の森の守護妖精。その血を受け継ぐ者をぉ、いつでも見守るさぁ――」
その言葉と共に、ヘンリーとメアリアは風のように姿を消していた。
血を受け継ぐ者――
その言葉がじぃーんと胸に沁み渡り、ティアナは胸に抱いた決意を深くして、一人頷いた。
「ジーク、お待たせ。さあ、城に戻りましょう」
※
「えっ、明日、国に戻るのですか? そんな、急に……」
「ごめんなさいね、イザベル。でもね、急じゃないのよ。本当は舞踏会が終わって数日したらすぐに国に戻る予定だったの」
「そうですか……裁縫組合の見学にまた行きたいと思っていましたが、ティアナ様がそうお決めになられたのならば、それに従います」
にこっと屈託のない笑みを浮かべるイザベルに、ティアナは笑い返す。
「帰りはレオンハルト様が馬車を貸して下さるそうだから、あっという間にイーザについてしまうわね」
そう言ってティアナは窓の外、その先に広がるビュ=レメンの城下町に視線を向ける。
本当にここ数日に色々な事が起り過ぎて、ビュ=レメンを離れるのが惜しまれる。
「また、来られたらいいわね」
ティアナが笑うと、イザベルが瞳を輝かせて頷き返す。
「ええ、そうですよ。また来ましょうね、ティアナ様!」
※
翌日の早朝。
コンコン。
「はい」
扉が叩かれる音に、最後の荷造りの確認をしていたティアナは顔を上げて扉を振り向き、横で荷物を詰めていたイザベルが慌てて扉に駆けよる。
サロンから声が聞こえティアナもサロンへと顔を出すと、人の姿に戻ったレオンハルトとアウトゥルが来ていた。
「レオンハルト様、どうしたのですか? こんな朝早くに」
本日のレオンハルトは、レースのふんだんに使われた白いシャツに、白い糸で花柄の刺繍が施されたホライズンブルーの上着とズボンを着、胸元に藍色のリボンを結わいている。少し癖のある銀色の髪は綺麗に整えられ、澄んだ群青色の瞳は煌き、通った鼻筋、高い頬、爽やかな口元、すべてが気品に満ちている。
「出発の前に、ティアナ様のお時間を少し頂けますか?」
ふわりと微笑むレオンハルトに、言葉の意味は分からなかったが何か用事があるのだろうと察して頷く。
イザベルとアウトゥルを残し、ティールームから庭へと出たレオンハルトの後ろをティアナはついて行く。
一昨夜、時空石の力で人間の姿に戻ったレオンハルトは意識を失い、その場に倒れてしまった。ティアナは慌ててレオンハルトの部屋に駆けこみ、事情を聞いたアウトゥルとフェルディナントが部屋へと運び、そのまま約半日眠り続けた。
昨夕、レオンハルトが目を覚ましたと聞いたが、国に帰ると決め荷造りをしていたティアナは、翌日に国に帰ることだけを伝言してもらい、直接会っていなかった。
一日ぶり――レオンハルトは時空石の裂け目に触れ猫になっていた間の記憶は消えているはずだから、二日ぶりの対面になる。
ティアナは何と声をかけていいか分からなくて、レオンハルトも黙っているから、黙って歩いた。
しばらく進むと庭園の奥に池が広がり、池にかけられた桟橋の中ほどでレオンハルトが立ち止まる。
ティアナは桟橋の欄干から池を覗きこみ、朝日に照らされてキラキラと光る水面を見つめる。
「アウトゥルからすべて聞きました」
そう言ってレオンハルトが話を切りだす。
「部屋で目覚める前の私の記憶は、ティアナ様と行った西の丘で時空の裂け目に触れようとしたティアナ様を引き止め、崖から落ちていく時に見た暮れかかる夜空でした。でも――その後すぐに目覚めた私は猫の姿でティアナ様のことを知る二ヵ月前に記憶が戻って、それでまたティアナ様に助けられたそうですね」
憂いを帯びた瞳を和ませ、レオンハルトが横に立ち振り仰いだティアナを見つめる。
「いいえ……元々、レオンハルト様が時空の裂け目に触れてしまったのは私のせいなのですから、当然の事をしたまでです」
「…………」
見つめ合ったまま沈黙が流れる中、鳥のさえずりと風に揺れた水音がやけに大きく聞こえる。
「ティアナ様と旅をした日々は昨日の事のように鮮やかに覚えています。ティアナ様がエルが私だと知らなかった時、レオンハルト王子が憧れで初恋だと言ってくれたこと――とても嬉しかった」
ふっと群青色の瞳に甘やかな輝きを宿して横目でティアナを見る。ティアナはその表情にぎゅっと胸が締め付けられ、視線をそらしたかったけどそらせずにレオンハルトを見つめ返す。
「だけどそれと同時に、本当の自分を知られたら幻滅されるのではいないかという不安がどんどん募ってきた。初めて私を王子という肩書を抜きに見てくれたあなただから――怖かった。そのうえ、私のせいであなたの美しい髪を代価にとられ、あまつさえ契約の刻印まで……危険な北欧の森に踏み込ませ、時空石を手に入れるため命の危機にさらされる試練まで受けさせ――私はあなたに不運ばかりをもたらしている存在だ」
そこで言葉を切ったレオンハルトは体の向きを変え、欄干に寄りかかるように腰をかけ透き通る青空を見上げる。
「だから本当は、こんなことを言う資格がないことは分かっています」
空からティアナに視線を向けたレオンハルトはティアナの前に片膝をつき、ティアナの右手を取り、大きく逞しい手でそっと包みこむ。
「どうか――王子という肩書越しに私を見ないで下さい。王子を取り繕った私ではなく、本当の私をあなたには見てほしい。私はずっとあなたを待っていたのです。あなたを見つけるために私はこの世に生を受けたのです」
ふわりと薫るような甘い微笑みを浮かべて握りしめたティアナの手をすっと引き寄せ指先に指先を絡め、そこに口づけを落とす。
「イーザ国までの帰途が無事であることを祈っています。今度は私が――ティアナ様、あなたに会いに行きます」
口づけたまま上目づかいにティアナを見上げたレオンハルトが艶やかな光を瞳に宿し微笑む。
「……っ」
あまりにも美しい笑みを向けられ、ティアナは何も言えないではにかみ、けぶる睫毛に視線を落とし頬を染める。
そんなティアナを見、くすりと笑って立ち上がったレオンハルトがしっかりと握った手を引き、歩きだす。
「そろそろ、部屋に戻りましょうか。アウトゥル達が首を長くして待っているだろうから」




