第38話 手のひらの想い
ティアナ――っ
懐かしく愛しい人の声に呼ばれ導かれるように――視界が白い靄に包まれる。
次の瞬間、目の前に見覚えのある白い天井が視界いっぱいに広がり、ゆっくりと数回まばたく。
うっすらと明るい室内は馴染んだ自室ではなくドルデスハンテ国の客室だということに、ゆっくり回る頭で思い至ったティアナは、手のひらに固い感触を感じ、はっと目を見開く。
そうだわ! 私は時空石を取りに北欧の森に行って、それから……
「ティアっ! 目が覚めたのか!?」
「ティアナ様ぁ~……」
心配そうな声でジークベルトとイザベルがベッドに駆けより覗きこまれ、天井だけの視界に二人の顔が見え、ふっと安堵の笑みをもらす。
「……ただいま」
すごく長い旅をしてきた様なたった一瞬の出来事だったような不思議な感覚だったが、ティアナはその言葉がしっくりくるように感じてただいまと言った。
「ティアナ様ぁ……心配致しましたぁ……」
上半身を起こしたティアナに、イザベルが泣きながら抱きつく。ティアナはイザベルの肩に両手を回して抱き返しながら、その手の内に確かな感触を確かめる。
「心配かけてごめんなさいね、イザベル。ジークも」
イザベルの肩越しにジークベルトと視線があったティアナは苦笑を漏らす。
ジークベルトは一瞬眉根を寄せ、視線をベッドの横に置かれた椅子へと移す。ティアナもつられて視線を移すと、戸惑った顔の猫――レオンハルトがいて、大きく目を見開く。
「レオンハルト様……」
「ティアナ……様……」
抱きついていたイザベルが離れ、見つめ合ったティアナとレオンハルトの間に沈黙が流れる。
「…………」
時空石の試練で過去に魂を飛ばされ、早送りに歴史を見てきたティアナ。魂の宿ったホードランド国の少女ティルラと自分の関係、自分の誕生を見――強く愛おしい人の顔を思い浮かべ、会いたいと願い、ぐるぐると歪む視界の中、かすかに、だけど確かに自分の名前を呼ばれた気がティアナはした。その声は、レオンハルトの声だった――
「あの……」
沈黙に耐えられず視線をそらして口を開いたティアナは、ずっと握りしめていた手のひらの力を緩め、指を開く。ティアナの小さな手のひらには、瓢箪形をした薄翠色の石がその中に星を宿しているように煌いている。
ジークベルトの側でちらちらと二つの小さな明かりが瞬く。
「それが――時空石ですか?」
「ティア、試練を乗り越えたということなのか……?」
聞かれたティアナは手のひらに視線を落とす。
「えっと、カイロスさん……?」
『なんでしょうか、我が主』
「私は認めてもらえたということでしょうか……あなたの力を借りることは、出来るのかしら……?」
『ひたむきに人を愛す強い志を持ったそなたは、選ばれし我が主。そなたが真に願う時、我の時空を司る力を授けよう』
カイロスの心を洗う美しい声にほっと胸をなでおろしたティアナだったが、周りからの反応がなく見回すと息をつめてこちらを見られていて、首をかしげる。
「ジーク……?」
「どうなんだ? 時空石を使うことはできるのか?」
「ええ、カイロスさんがそう言っていたわ」
「カイロス?」
『我が主、我の声は主であるそなたにしか聞こえない』
「まぁ……そうなの?」
「ティア?」
独り言のように喋るティアナを訝しげに見つめたジークベルトにティアナが説明する。
「えっと、これが時空石です。時空石に宿るカイロスさんが仰るには、時空石の力を貸して頂くことが出来るそうよ」
両方の手のひらの上に乗せた時空石をレオンハルトの方へ差し出し。
「レオンハルト様、これで人間の体に戻せますわ」
ふわりと屈託なく顔をほころばせるティアナから、レオンハルトはふいっと視線をそらす。
「……いいえ、時空石の力は借りません」
思いがけないレオンハルトの言葉に、ティアナはぎゅっと唇をかみしめる。
「いまはまだ――」
「えっ――?」
「ティアナ様、私のために時空石を手に入れて頂いたことには感謝します。今はあなたもお疲れでしょう。ひとまずゆっくりと体を休め、その話はまた後日致しましょう」
そう言ってレオンハルトは椅子から降り部屋を出ていき、フェルディナントとアウトゥルもお辞儀をしてその後に続き退室して行く。
ティアナはその後ろ姿を呆然と見送り、ため息とともに噛みしめていた唇から小さな声を漏らす。
「私は――余計なことをしてしまったのかしら……」
その言葉に、扉の方に視線を向けていたジークベルトが振り返り、じぃーとティアナを見つめ、眉間に手を当てながら言う。
「そうじゃないと思うけどな……」
「えっ?」
「王子にも色々と事情があるんだろ。まっ、とにかく休め。俺も部屋で少し休むから」
「ええ……」
納得がいかない様に言って俯いたティアナは、ぱっと顔を上げて部屋を出ていこうとするジークベルトの後ろ姿に声をかける。
「あのっ――」
扉に手をかけメインサロンで出かかっていたジークベルトは、顔だけを振り向かせる。
「一緒に北欧の森に行ってくれてありがとう、ジーク」
ジークベルトはその言葉に目を見張り、ふっと不敵に微笑みながら部屋を出ていく。
「――ああ、おやすみ」
そう言ったジークベルトの後ろ姿が完全に扉の外に消え。
「ええ、おやすみ」
ジークベルトにはもう聞こえていないと分かりながらも、ティアナはぽつりと言った。
「さあ、ティアナ様ももう一度横になってお休みになって下さい」
イザベルに支えられながら再びベッドに横になり、布団を整えて使用人部屋に下がっていくイザベルを見送り、ティアナはゆっくりと瞳を閉じる。
※
ぱちっと瞳を開けたティアナは、薄暗い室内に目が慣れるのを待ってから静かにベッドを抜け出す。客室のサロンとメインサロンを抜け、ティールームから続くバルコニー、その先に広がる夜の庭園に足を踏み入れる。
しばらく、花を眺めるでもなくふらふらと歩き、庭に腰を下ろす。
昼間、一度目を覚ましたティアナは、ジークベルトから洞窟で自分が昏睡状態に陥り王宮まで運んだこと、それから数時間しか経っていないことを聞き、自分が飛ばされた過去で起きたことや時空石の試練の話をかいつまんで話した。
ジークベルトは、本物の時空石だったから結果的には良かったものの、勝手に石に触れてしまったティアナを叱り、そして強く抱きしめ。
心配した――と、いつも余裕たっぷりのジークベルトが、聞いたこともない掠れた声で言った。
その姿が泣いているようで痛ましくて、ティアナはぎゅっと抱き返し、ごめんなさいと言う。
それから軽く食事を取り、また誘われるように眠りに落ちた。
最初に目覚めた時は、体が思うように動かなく鉛を背負ったように重かった。今はたっぷりと眠って体の疲れも取れたが、丸一日眠っていたティアナは夜中だというのに目が冴えてしまって、ゆっくりと考え事をするために庭園と出てきていた。
暖かく心地よい夜風は甘い夏の花の香りを運んできて、ティアナは空を仰ぐ。
レオンハルト様――
時空石の力は借りないと言ったレオンハルトの真意が掴めなくて、ティアナは誰もいないのに、気付かれない様な小さなため息を漏らす。
私はどうしたらいいのかしら――
訳も無く泣きそうになってぎゅっと手を握りしめたティアナは、握った指の隙間からきらきらと輝く光に気づいて、手のひらを開く。そこには薄翠色の石――無意識に眠っている間もずっと握りしめ、今も持ちだしてしまった時空石があった。
『我が主、我が力になれることならなんなりと――』
初めて言葉を交わした時に姿を見せた切れ長の瞳の美青年が姿を現し、無表情でティアナを見つめている。しかし、その声は思いやりが籠っていて、ティアナは苦笑して頬を綻ばせる。
「……ええ、その時はお願いするわ」
いまはまだ――レオンハルトはそう言っていた。それならば、いつかは自分が役に立てる時もあるのだろう、その時を待とう――そう考えると、さっきまで胸に引っ掛かっていたわだかまりがすうーっと消え、ティアナは心が軽くなり、ふわりと微笑む。
「ティアナ様――?」
ガサガサと、背後で草の揺れる音がして振り返ると、真夜中でも光り輝く艶やかな銀色の毛並みの猫が顔を出した。
「レオンハルト様……どうしてここに……?」
「私の部屋はすぐそこなのですよ」
言いながらレオンハルトは振り返り、庭園の脇に細長く伸びる建物の上階を指し示す。
「ティアナ様の姿が見えたので……隣に座ってもよろしいですか?」
「あっ、はい。どうぞ」
レオンハルトの穏やかな声に、ティアナは緊張しながらスカートの裾を整える。
二人の間に優しい沈黙が流れ、ふふっとレオンハルトの笑う声が聞こえて、ティアナは横目でレオンハルトを覗き見る。
「不思議ですね」
「えっ――?」
「あなたとはずっと前にも、こうして夜空を見上げたことがあるような気がする。私にそんな記憶はないのに、心が――懐かしいと叫んでいるのです」
涼しげな目元にきらっと光を反射して、レオンハルトは魅惑的な微笑みを浮かべる。
一緒に夜空を見上げた――それは旅を初めてすぐの頃、そしてバノーファの街でのこと。
何度となく、エルがレオンハルトとは知らずに一緒に夜空を見上げたことを思い出し、ティアナの胸に激しい感情が押し寄せてくる。
一緒に夜空を見上げたことがあります――そう言おうとティアナが口を開いた時。
「目覚めた時、私の記憶にないことをあれこれ言われ、正直戸惑っていました。あなたが誰なのかも私は分からないのに――そんな私のために危険な森に行くと言ったあなたは勇ましくて――あなたに比べて私は何と不甲斐ないのでしょう」
少し皮肉気に笑みを浮かべたレオンハルトが続ける。
「迂闊にも魔法使いに魔法をかけられて猫にされ、母上には内緒で花嫁探しの舞踏会を決行され、せっかく人の姿に戻ったのにうっかり時空の裂け目触れてまた猫の姿に逆戻り。あげく、あなたを何度も危険な目に合わせてしまった――」
ティアナは小さくすすり泣きながら、精一杯、首を横に振る。
「それなのに、私はただ周りに何かしてもらうのを待つだけ――そんなのは……嫌なんです。だから人の姿に戻る前に、ちゃんとあなたと話がしたかった。私達がどんなふうに出会い、共に旅をしたのか。アウトゥルからではなく、あなたから聞きたかった――」
ふっと目元を和ませティアナを仰ぎ見るレオンハルトを、ティアナは優しく抱き上げ、膝に乗せる。
ふいの出来事に最初は身を捩って抵抗したレオンハルトだったが、ティアナの膝の心地よさに、思わず体を預けてしまう。
「私とレオンハルト様が出会ったのは、イーザ国の塔の中でした。あなたは猫の姿で、ドルデスハンテ国のレオンハルト様とは知らずに出会い、共に旅をして――途中で私は気がつきました、エルが――ずっと憧れていたレオンハルト様なのではないかと――」
銀色のさらさらの毛並みを優しく梳きながら、ティアナは泣きそうな声で話す。
「大好きなのです、レオンハルト様のことが。大好きだから、私はあなたのためなら、どんな事も厭わず出来るのです――」




