第37話 一縷
『レオンハルト様、必ず時空石を持って戻りますねっ』
そう言って危険な北欧の森へ向かった、宝石のように美しい翠色の瞳を細め、綺麗過ぎる笑顔を見せた少女の顔が脳裏から離れなくて、レオンハルトは王族にあるまじきだらしない格好でソファーに寝転がり、垂れ下げたしっぽを無意識に左右に振っていた。
少女が城を発ってからすでに数時間。レオンハルトは寝台に横になることもせず、ただ少女のことを思い出していた。
自分のために、いとわず危険な場所へと赴いた少女――ティアナのことを考えると、心を鷲掴みにされたように苦しくて、切なくて、ふいに涙が滲んで来る。
私はどうしたのだろうか――
何かとても大事なことを忘れているような気がするのに――それが何なのか思い出せなくて、心が苦しい……
ティアナ様……に関係があることなのだろうか。
私とティアナ様は一緒に旅をして、舞踏会にも一緒に出たとアウトゥルは言っていた。それはつまり、ティアナ様は私の――
そう考えて頭がずきんと痛み顔を顰め、苦悩に揺れる群青色の瞳で天井を見つめる。その時。
「あの~、レオンハルト様……」
誰もいないと思って気を抜いていたレオンハルトは、がばっと体を起こし声のした方を振り向く。
「アウトゥル……」
眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔でこっちに近づいてくるアウトゥルを不愉快そうに見たレオンハルトは、居住まいを正してソファーに品よく座る。
「何か用なのか……?」
「あぁ……レオンハルト様、どうか心を偽らないで下さい。落ち込みたい時には落ち込んで、泣きたい時には泣いても構わないのですよ……」
その言葉にレオンハルトはぴくりと片眉を上げて、アウトゥルを凝視する。
「私は大国ドルデスハンテの第一王子だ。感情を露わにすることは――許されることではない……例え、私室でもだ」
ソファーで塞ぎ込んでいた姿を見られていたとも知らずに、つんと鼻を天井にそらして威厳に満ちた声を出す。
その様子に、とうとうアウトゥルは泣きだしてしまう。
「うぅ……おいたわしい……レオンハルト様。どうか、これを……」
流れ出る涙をそのままに、両手で大事そうに持っていた小さな箱をレオンハルトの座るソファーの前に置いて、ごしごしと涙を拭う。
「これは――?」
手のひら大の白い箱に淡い桜色のリボンが結びつけられている箱をじぃーっと見つめ、レオンハルトは掠れた声を出す。
「昨日、西の丘に行く前にレオンハルト様がティアナ様へのプレゼントとしてご用意されたものです」
言いながらアウトゥルが箱の蓋を開けると、中にはラピスラズリのネックレスが入っている。
それを見て――ツキンっとレオンハルトの胸が騒ぎ出す。
「ティアナ様にお渡しになられる前に事故にあい――レオンハルト様が倒れられていた場所に落ちていたのを私が拾ってきたのです。これを見ても……何も思い出しませんか?」
ツキンっ――
「ティアナ様のことを――思い出しませんか?」
ツキンっ、ツキンっ!
何かを思い出した訳ではないが、自分が自らの意思で誰かのためにプレゼントを用意することは滅多にない。どんな気持ちでこのネックレスを用意したのかに想いを馳せ――胸に愛おしくも切ない気持が押し寄せ、溢れ出る。
じわり――レオンハルトの群青色の瞳に涙が浮かぶ。
「レオンハルト様がティアナ様のことをどんな気持ちで想っ――」
コンコンと、アウトゥルの悲痛な声に重なり、少し焦りの感じ取れる音が室内に響く。
「はい」
にじんだ瞳を艶やかな毛並みの前足で素早くぬぐったレオンハルトは、返事をしながら開く扉を見つめる。
猫の姿になったことを内密にするため、レオンハルトの私室には限られた人しか近づけないように警備体制をとり、扉の前にはフェルディナントの部下が立っている。
扉から姿を現したのは予想通りフェルディナントで、レオンハルトは気づかれないようにふぅーっと息を吐く。
「どうした?」
つい先ほどまで、ぐるぐると渦巻く感情に翻弄されていたことを微塵も感じさせない冷静な声でフェルディナントに問う。
「はい、先程、西門の見張りに立たせていた者よりティアナ様とジークベルト殿がお戻りになられたとの報告を受けました。それで、時空石のある洞窟まではたどり着いたようなのですが」
「半日もたたずに!? それはすごいですね」
アウトゥルが驚きの声を上げる。
「ええ、ですが時空石を手に入れるために、ティアナ様が――」
そこで言葉を切ったフェルディナントは皺のよる眉間を手で押さえ伏し目がちになる。
「ティアナ様がどうしたのだっ!?」
すかさずレオンハルトが緊迫した声音で先を促し、フェルディナントは渋い口調で言う。
「ティアナ様は昏睡状態に陥っているそうです……」
呼吸を挟んで、フェルディナントは早口で続ける。
「見張りからの報告なので私も詳しいことはまだ分かりません。ジークベルト殿が客室にティアナ様をお連れしたらしいので、詳しい話は――」
最後まで言い終わる前に、レオンハルトは矢のような速さでソファーから飛び降り駆けだす。
フェルディナントが慌てて扉からすり抜けて出ていったレオンハルトを追いかけ、アウトゥルがあたふたと駆けだす。
※
長い通路を駆け抜け、階段を数段飛ばしに駆けおり、回廊を駆け抜ける。
目的の部屋に辿り着いたレオンハルトは後ろ足で立ち上がり、前足で扉を押しあけ、わずかに開いた隙間に滑り込む。
遅れて辿り着いたフェルディナントとアウトゥルが形式的に軽く扉を叩き、返事を待たずに中へと進む。
メインサロンから更に右側の客室のサロンに入ると、奥の扉から顔を出したイザベルが二人に気づき会釈をすると扉を全開にして二人を招き入れてくれた。
ティアナの客室は机の上に置かれたランタンの明かりと白み始めた空の明かりが窓から差し込み、うっすらと明るい。奥のベッドに寝かされたティアナの側に置かれた椅子に座っていたジークベルトは、レオンハルトが来たとこに気づくと立ち上がり椅子を譲る。レオンハルトはぴょんっと椅子に飛び乗り、前足をベッドにかけティアナの顔を覗きこむ。
「ティアナ様……」
美しい翠色の双眸は閉じられ長い睫毛が覆っている。微かな寝息が聞こえ、その表情は穏やかで、ただ眠っているようにしか見えなかった。
すべてを思い出した訳ではない――ただ、ティアナの事を焦がれてやまない激しい感情を心の内に見つけ、焦りと不安と落ち着かない気持ちで、ティアナの部屋まで駆けつけてしまった。
愛おしい――ただ、その感情が胸に溢れる。
「ティアナ様は……?」
レオンハルトの独り言のようにか細い声に、ジークベルトが眉根を寄せる。
「ティアは……王子のため――時空石を手に入れるために試練と立ち向かっているんだ」
「試練――?」
「時空石の隠された洞窟まではすぐに辿り着いたんだが、時空石を手に入れる為には二つの試練を乗り越え、時空石に使い手として認められなければならないらしい。ティアは一つ目の試練を終え、二つ目の試練――魂の強さを試されている最中だ。魂は時空を越え、体は昏睡状態にある、らしい。俺達には、ティアの魂が無事に戻って来ることをただ祈って待つことしかできないんだっ……」
苦しげに横を向いて吐いたジークベルトの言葉に、レオンハルトは胸がぎゅーっと締め付けられる。
自分のためにティアナが危険な目に合っている――
以前にも感じたことのある気持ちに、瞳を瞬きティアナを見つめたレオンハルトの群青色の瞳がきらめく。
ベッドにかけていた前足を、胸の前で組まれたティアナの手に伸ばし、優しくその上に重ねる。
「ティアナ様……」
人のためにひたむきになれる心根の優しい少女。
知らない少女――だけど、私の心は知っている少女。
愛おしくて苦しくて、恋焦がれてやまない存在――
別れ際の、どこか他人行儀で綺麗過ぎる笑顔を思い出す。
知らないけれど知っている――華が綻ぶような楚々とした笑顔を思い浮かべて、さっきよりも強く名前を呼ぶ。
「ティアナ様――」
手に重ねた前足にぎゅっと力を込める。
「ティアナ――っ!」