第14話 北欧の森
細長い三日月が天中に登る頃、フェルディナントの案内でひっそりと西門から王城を抜け出した一行は、高い城壁沿いに北上し時空の裂け目が現れた西の丘に登る手前を北西に進む。
ティアナはジークベルトと一緒の馬に乗り、フェルディナントの乗る漆黒の馬に続く。
「この先をしばらく進むと、北欧の森です。私はここで引き返しますが……」
馬首を後ろに巡らせ、フェルディナントは語尾を濁す。月明かりだけの薄暗い中でも、今いる場所とフェルディナントの止まった位置よりも先に漂う空気が明らかに違い、重苦しいのが分かる。
「大丈夫ですよ」
妖しい雰囲気に怖気づかないわけではないが、ティアナはそれを隠すように苦笑する。
「ここまで案内して頂ければ十分です、この先は私達だけで行きますから」
ティアナの言葉を受けて、ジークベルトはここまで案内してくれたフェルディナントに対して軽く頭を下げ、手綱を握る手に力を込める。
イーザ国から共に旅をしてきたジークベルトの愛馬である黒鹿毛色の馬はジークベルトの意思を汲んで忠実に走りだす。
しばらく進むと、先程までとは明らかに違う種類の草木が道なき道を囲む。イーザ国では見かけない葉は細く固い針状で、樹皮は白に近い灰色の背の高い木が立ち並ぶ。
夏も間近だというのに冷たい風が吹き付け、ティアナは体をぶるりと震わせマントの前を手繰り寄せて合わせる。
「大丈夫か、ティア?」
「ええ、少し冷えるけれどマントを着ているから大丈夫よ。それよりも、もうここは北欧の森の中なのかしら?」
「さあ、俺には分からないが――」
それから三十分ほど、背の高い木々のその更に上に見える西の連峰を目印に西へと馬を走らせていたが、ふっとジークベルトが馬の手綱を緩め走る速度を落とし、歩くような速さになる。
急に速度を落としたジークベルトに違和感を覚えてティアナは振り返る。
「どうしたの?」
「何だかおかしくないか――?」
「おかしいって何が?」
「聞いた話では、北欧の森には魔物が巣食いっていると言っていたはずだ。それなのにもうかれこれ三十分森を進んでいると言うのに、全く魔の気配すら感じない」
「魔法使いのいた砦の森のように、魔法で姿を偽っているのじゃないかしら?」
「それはない。本当に――少しも魔の気配がないんだ」
考え込むように首を傾げたティアナに、しばらくしてジークベルトがぽつりと問いかける。
「……だったか?」
その声があまりに掠れた小さな声で、ティナは思わず聞き返してしまった。
「えっ?」
「王子に、自分のことを忘れられて……ショックだったか?」
気遣わしげなジークベルトの声に、ティアナは自虐的に浅く微笑む。
「どう、だろう……」
本当は悲しくて切なくて、心臓が壊れそうなほど苦しくて――
だけどほんの一月前までは、面識がなかったのは事実で、今でも友人と言ってもらえても遠い憧れの存在で。
明日には帰ろうと思っていた自分には、かえって良かったのかもしれないと心のどこかで考えたりしていた。
「ふふっ、本当は明日にはイーザに帰るつもりだったのよ。そうしたらレオンハルト王子とはもう会うこともない――だから、忘れられてしまったのは寂しいけど、時空石で元の人間の姿に戻った時に私のことをまだ忘れていたとしても――それでいいと思っているわ」
時空石で時を操り、レオンハルトが魔法にかけられる前に――人間の姿に戻すことが出来る。しかし、人間の姿に戻った時に、記憶もすべて元通りになっているかというと――その保証はどこにもなく、そのことに初めて気づいたジークベルトがはっと息を飲み込み、眉間に皺を寄せる。
ティアナ同様、自分のことも忘れられているジークベルトだが、別段それについては問題はない。ティアナのように、レオンハルトに想いを寄せているわけではないのだから。だけどティアナは――その悲しみは、苦しみは、如何ほどのものなのだろうか。自分の身に置き換えて考えて、ティアナの心痛に思い至った。
「ねえ、ジーク。もうここは北欧の森の中なのかしら?」
一時間程前と同じようなことを言ったティアナを見下ろし、ざわりと背中に感じる気配に馬の歩みを止める。
「さあ、俺には分からないが――そうみたいだな」
言いながら、ジークベルトが鋭い視線で空を睨む。
辺りを風が吹き荒れ、ざわざわと木々を揺らし、どこからともなく不気味な声が響く。
『立ち去れぇ~。神聖な北欧の森に近づく余所者めぇ~。直ちに立ち去らねばぁ……森の怒りに触れるだろぉ~』
「なっ、なに? この声……」
「ティアにも聞こえるのか……」
「ええ……」
強い風が吹き荒れ、顔にかかる髪を掻きわけながらティアナは頷いた。
ザザッ――
また一段と強く風が吹き、不気味な声が森の中に響く。
『立ち去れぇ~。立ち去れぇ~』
ジークベルトは優雅な仕草で馬を降り、愛馬の手綱を馬上のティアナに渡し、注意深く辺りに視線を
向け、神経を研ぎ澄ませる。
ピリッ、ピリッ。
吹き荒れる風に飛ばされてきた葉がジークベルトに触れる直前ではぜ、すっと正面に手をかざす。
「そこかっ!」
呪文なしに手から正面の暗闇に向けて疾風が駆け抜ける。風は正面の木の上へ直撃し、ボテッ、ドテッと何かが落ちる音がする。
ティアナはそこにどんな恐ろしい姿の魔物が現れるのかと身を固くし目を瞑った――
序章に、人物紹介と七夕の番外編をupしました。