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第39話 正論という刃

――昼間の工房。

誰も動かない。釜の音だけが、時を刻んでいる。


僕は息を吐き、最後の行を書く。もっとも残酷な真実だ。


高級:1,800 × 4 ÷ 5 = 1,440リル/時間


「高級は、五時間かけて四本ぶん。だから“稼ぐ速度”――一時間あたりの“残り”は、1,440リル。ざっくり1,500リルです」


板の前に、重たい沈黙が落ちた。

釜の底で液体が泡立つ音だけが、やけに大きく響く。


「……見ての通りです」


僕は声を落とした。けれど、誤魔化さない。


「“稼ぐ速度”で見ると、通常が4,000リル。高級は1,500リル。――逆転します」


しん、と工房が静まり返った。

釜の音は同じなのに、まるで全員が息を止めたみたいだ。


「……待て」


顔に粉をつけた職人が、板を指さした。


「逆転って……高級のほうが、通常より“遅い”ってことか? 一本売れば5,000リルなのに?」


「一本あたりなら、そうです。でも一時間あたりで見ると、高級を作っている時間に通常を作っていたら――」


「倍以上、稼げてた……?」


職人が、愕然と呟いた。

トクレンの拳が、ぎゅっと握りしめられる。


「……高級を作るほど、儲からなくなるって言いてぇのか」


「はい」


言い切った瞬間、工房の空気が一段冷えた。

火は燃えているのに、心だけが冷え込んでいく。


「高級ポーションを作れば作るほど、工房の“稼ぐ速度”は落ちていきます。単価が高いのに、です。――だから、忙しいのに金が減る」


セラフィナが唇を噛んだ。


「値上げしたのに、苦しくなる理由……」


「値上げで上がった分より、段取り替えの時間と、失敗で削れた分の方が大きいんです」


僕は板を指で示した。


「机上の計算は、“まとめて効率よく作った場合”の数字でした。

 でも今は――最近の緊急発注のたびに釜を止めて、洗って、また止めている。

 僕たちは、一番効率の悪い作り方で、一番難しい薬を作っていたんです」


職人の一人が、反発するように声を上げた。


「でもよ、親方! 高い薬を作るほど工房は強くなるって、ずっとそう教わってきたんだぜ?」


「そうだ。安いのばっか作ってりゃ、職人の腕も落ちるし、工房の格も下がる!」


別の職人も続く。


「王都相手に高級を断ったら、どうなるか分かってんのかよ!」


全部、正しい。

正しいのに――このままだと、この工房は潰れる。


僕の喉が、きしんだ。


(……どう言えば、いい)


それでも、頭の中の“理屈”が口を勝手に動かした。事実を告げなければ、解決策は見つからないからだ。


「理屈だけで言えば――今受けている高級ポーションの追加注文を全部断って、今月いっぱい通常ポーションに集中するのが、一番効率がいいです」


自分で言って、自分で殴りたくなった。

全員の視線が、物理的な痛みを持って僕に突き刺さる。


「王都の医師団相手にそんなことしたら、街ごと干されるぞ!」

「ギルドだって困る! “最後の砦”が、薬を出し渋ったって噂が回ったら終わりだ!」


――ですよね。

僕は口を真一文字に閉じた。


トクレンが、とうとう爆発した。


「……机の上の数字で、現場をいじくり回すな」


声は低い。怒鳴っていないのに、煮え立つ釜の音より重かった。


「高級ポーションは“工房の誇り”だ。ワシらは、それで街を救ってきた。灰熱病の冬も、な」


セラフィナの表情が揺れる。

彼女も、その冬のことはよく聞いて知っているのだろう。


「それを減らせ? 断れ? ――簡単に言うな」


トクレンの目が、僕を射抜いた。そこにあるのは、単なる頑固さじゃない。職人としての矜持と、背負ってきた責任の重さだ。


「ワシらは、お前の描いた数字を良くするために薬を作ってるんじゃねえ。……人の命のためだ」


喉が、乾いた。

正論だ。痛いくらい正しい。

数字は嘘をつかない。でも、数字が常に“人の正解”だとは限らない。


僕は、黒い板の前で言葉を失った。


セラフィナが、静かに頭を下げた。


「トクおじさま……今日は、ここまでにしましょう。仕込みを止められないわ」


トクレンは鼻を鳴らし、背を向けた。


「好きにしろ。――釜は待っちゃくれねぇ」


会議は、決裂した形のまま終わった。


* * *


工房を出ると、夕方の風が生ぬるく頬を撫でた。

干し棚の薬草がカサカサと揺れている。さっきまでの熱気が嘘みたいに、外は静かだ。


僕は歩きながら、胸の奥を握り潰すような感覚を噛みしめた。


(まただ)


ギルドでアイナに反発されたときも、同じだった。

“正しいこと”を言ったつもりで、現場の誇りを踏みつけた。相手の生き方を、無神経に切り捨ててしまった。


セラフィナが、ぽつりと言った。


「ねえ、アラタ。数字は、本当に“みんなを救う道具”でいられるのかしら」


その声には、迷いがあった。

商会の主として、儲けと理念の板挟みになっている彼女の、正直な弱音。


僕はすぐに答えられなかった。

板の上の「4,000」と「1,500」という数字が、まぶたの裏でちらつく。

あそこには、確かに真実があった。でも、それだけじゃ誰も救えない。


それでも、口を開く。


「……救えるはずです」


自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「僕が――ちゃんと、使いこなせれば」


少し無理をして笑うと、セラフィナは何か言いかけて、飲み込んだ。

そして、暗くなり始めた工房の灯りを振り返る。


窓の向こうで、まだトクレンたちが働いている影が見える。

効率が悪いと分かっていても、止められない仕事。守らなきゃいけない誇り。


僕も同じ方向を見た。


(“数字さえあれば世界を良くできる”って、僕は信じてる。

 でも今は、その説明の仕方をまだ知らないだけだ)


風が吹き、薬草の匂いが遠ざかった。

手の中にあるのは、冷たい計算結果だけ。


ここからどうやって“第三の道”を探すのか。その答えはまだ、闇の中だ。


――でも。


頭の隅に、昼間の一言が引っかかっている。


『薬液そのものは同じだ。違うのは最後の封だけだ』


手の中の計算用紙を、もう一度握り直していた。

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