第38話 高級ポーションの罠
釜の匂いが変わっていた。
新たに描かれた魔方陣の線をなぞるように、職人が慎重に触媒を量り入れる。
空気に混じる匂いは、さっきまでの甘苦い薬草の香りとは違う。鼻の奥をきゅっと刺すような、金属的で鋭い刺激臭。
――高級ポーション。
言葉の響きはいい。単価も高い。けれど、この現場においては、それは“面倒”と“緊張”、そして“恐怖”の別名だ。
「……よし。試し炊き、二回で合った。やっと本番だ」
トクレンが吐き捨てるように言い、釜の縁に革手袋のついた手をかけた。
張り詰めていた職人たちの肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
……でも、それは安堵じゃない。次の険しい山を登るために、酸欠の肺に空気を送り込むような、重苦しい間だった。
(今の準備だけで、どれだけの時間が消えたんだろう)
桶に避難させた半端な液体。
釜の焦げ付きを落とす金属音。
魔方陣の描き直しと、高価なインク。
配合の微調整と、捨てられた試し炊きの廃液。
紙の上の「一本あたりの残り」には、この時間は一行も書かれていない。
僕は、昨日セラフィナと書き殴った計算紙を、ポケットの中で強く握りしめた。
――尻尾は見えた。だったら、次は本体を引きずり出す番だ。
「トクレン親方。少しだけ、時間をください」
僕が声を張り上げると、トクレンは眉間の皺をさらに深くして、短く返した。
「今、見りゃ分かるだろ。忙しいんだよ」
「だからです。その“忙しさ”の正体を――数字にします」
トクレンが鼻で笑う。
「数字にしたら、釜が増えるのか? 時間が伸びるのか?」
「増えません。でも、“なぜ釜が死んでいるのか”は見えます」
セラフィナが音もなく一歩踏み出し、僕とトクレンの間に入った。
その紫水晶の瞳が、まっすぐに老職人を見据える。
「トクおじさま。今は仕込みが回り始めたところでしょう? 煮込みの待ち時間に、十分ほどだけ。……板を貸して」
トクレンは舌打ちをしながらも、商会長であり、かつての戦友の娘でもある彼女の頼みを無下にはしなかった。
* * *
工房の片隅――材料棚の横に立てかけてあった大きな木の板が、どんと作業台の上に置かれる。
黒く煤けたその板は、普段は配合や本数を殴り書きするためのものだ。
僕は職人から木炭を借り、板の真ん中に縦線を一本、強く引いた。
左に『通常』。右に『高級』。
――いつもの癖。線を引くと、混沌としていた世界が左右に分かれる。
「まず、確認だけします。商会が工房から買い取る値段。通常ポーションは2,400リル。高級は16,000リル。合ってますね?」
セラフィナが頷く。
「ええ。昨日の通りよ」
「次に材料費。通常が1,400リル。高級が11,000リル」
すかさずセラフィナが補足する。
「11,000リルは“最近の平均”。試し炊きとインク代もここに含めてるわ」
僕は板に書き込み、その下に大きく『残り』と書いた。
通常:2,400 − 1,400 = 1,000リル
高級:16,000 − 11,000 = 5,000リル
「ここまでだと、高級の方が圧倒的に“残り”は大きい。一本売るたびに、通常の五倍の儲けが出る計算です」
トクレンが腕を組み、煤けた顔で睨む。
「当たり前だ。だから作ってんだよ」
「問題はここからです。……その残りを時間で割って見ます。――これが工房の“稼ぐ速度”です」
「速度?」
「はい。親方、通常ポーションなら一時間で、だいたい何本作れますか? 釜が温まっていて、順調に回っているとして」
トクレンは少しだけ考え、顎で職人たちをしゃくった。
「釜が回ってりゃ、一釜で四本分だ。一時間もあれば余裕で上がる。失敗もほぼ出ねぇ。――草の扱いは、全員が身体で覚えてるからな」
僕は板の左側に書く。
通常:4本/1時間(失敗ほぼなし)
「じゃあ、高級は?」
トクレンの眉が、さらに険しく寄った。
「……さっき見ただろ。釜を洗って、魔方陣を引き直して、試し炊きして……あれ込みでか?」
「込みでいいです。込みで“何時間で何本分”ですか」
親方の横で、顔に煤をつけた若い職人がぼそりと言った。
「四本仕込むのに、準備から片付けまで入れて……だいたい五時間っすね。うまくいけば、だけど」
トクレンがぎろりと睨む。
「口が滑ってんぞ」
「だって事実だろ、親方。魔方陣描くだけで一時間かかるんだから」
空気が少しだけ刺々しくなる。僕はその事実を逃さず、板の右側へ書いた。
高級:4本/5時間(段取り込み)
「……それから、“失敗”は?」
僕が問うと、職人たちが一瞬、気まずそうに目を逸らした。
沈黙が答えだ。
セラフィナが小さく息を吸って、代わりに告げる。
「……五回に一回くらい。うまく封印が乗らないときは、調合失敗と判断して、ロットごと捨てるって。この前も、一釜ぶんを裏庭に捨てたって聞いたわ」
トクレンが、ぎり、と奥歯を噛んだ。
「……その話を、簡単にするな。捨てたくて捨ててるわけじゃねぇ。魔力の波長が合わなきゃ、毒にもなるんだよ」
「分かってます」
僕は、板の端を炭で汚れた指で叩いた。
「でも、数字に入れないと“捨てた分”は永遠に見えません」
――ここからが、本題だ。
「通常ポーションは簡単です。一本あたりの残りが1,000リル。で、一時間に四本。つまり」
僕は板の下に、太い線で計算式を書いた。
通常:1,000 × 4 = 4,000リル/時間
「“稼ぐ速度”は、一時間あたり4,000リル。釜を動かせば、一時間ごとに銀貨4枚分の“残り”が確実に積み上がります」
職人の一人が、思わず口笛を吹いた。
「おお……そう言われると、結構でけぇな」
「次。高級は……失敗があります」
僕は一度、言葉を選んだ。
“失敗”と言うと、現場の腕を責めることになる。だから、できるだけ事実だけを淡々と置く。
「五回に一回、売れる瓶がゼロになる。でも、材料の11,000リルは消える。……そうですね?」
トクレンは黙って頷いた。顔色が、炭の汚れよりも暗い。
「じゃあ、平均で見ます。成功率八割で、一回仕込むときに期待できる、一本あたりの売上は――」
板に書く。
16,000 × 0.8 = 12,800リル
「ここから、必ずかかる材料費11,000リルを引くと……」
12,800 − 11,000 = 1,800リル
「高級ポーションは、“一本ぶん仕込むたびの実質の残り”が、1,800リルしかありません」
セラフィナが眉をひそめた。美しい顔に、戸惑いが浮かぶ。
「……5,000リルじゃなかったの? 売れば16,000リルでしょう?」
「さっきの5,000リルは、“成功した一本”だけを見た数字です。でも実際には、成功した一本が、失敗した一本の材料費も背負わなきゃいけない。そうすると――」
僕は、板の上の数字を叩いた。
「実質は、1,800リルになります。
……通常ポーション一本の“残り”は1,000リル。一本あたりで見れば、高級のほうが上です」
トクレンが、低く呻いた。
「でも――まだこれで終わりじゃありません」
僕は炭を持ち直した。
「工房が本当に"稼ぐ"のは、一本ずつじゃない。時間ごとに、です」
トクレンの目が細くなった。
何かを察したような、それでいて信じたくないような、複雑な色が浮かぶ。
「一時間あたりで見たとき――高級と通常、どちらが上になるか」
職人たちの手が、いつの間にか止まっていた。
釜の音だけが、やけに大きく聞こえる。




