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第36話 忙しすぎる工房

ルミナ薬工房に向かう馬車の中で、僕は何度も手元の紙を見直していた。


前の日に、セラフィナと一緒に書き殴った数字。一本の縦線。太い合計線。そして、『残るはず』と弾き出された金貨20枚という結果。


紙の上では、工房は健全に呼吸をしている。現実だけが、なぜか息切れしている。


「そんなに見つめても、紙は答えてくれないわよ」


向かいの席で、セラフィナが小さく笑った。


今日はいつもの執務用のドレスではなく、動きやすい丈の短い外出用の外套を羽織っている。

豊かな金髪も後ろでしっかりとまとめられ、まるで別人みたいに“現場の顔”になっていた。


「……癖です。数字を見てると、落ち着くので」


「落ち着く?」


「はい。怖いときほど、線を引きたくなるんです。――どこが左で、どこが右か。どこまでが現実で、どこからが思い込みか。

 線を引いて分けると、パニックにならずに済みますから」


セラフィナはふっと目を細めた。

それは、褒められているのか、呆れられているのか、あるいは心配されているのか分からない、不思議な顔だった。


「トクおじさまはね。口は悪いけど、悪い人じゃないわ」


彼女は窓の外へ視線を移しながら、独り言のように言った。


「ええ、分かります。……セラフィナさんが“おじさま”って呼ぶ時点で」


「そこ、変なところで推理しないの」


軽く膝を叩かれ、僕は苦笑した。


馬車は舗装された商会区画を抜け、倉庫街の方へ向かった。


車窓の景色が変わるにつれ、空気の匂いも変わっていく。香辛料と、なめした革と、汗の匂い。荷車のきしむ音。遠くで鍛冶屋の金槌が鳴るリズム。


――ギルドとも商会とも違う、この街の“働く音”の中心だ。


やがて、道の両脇に干し棚が増えていく。

乾かされた薬草の束が、初夏の風に揺れていた。


「……ここよ」


セラフィナが窓の外を指さす。


煤けた石造りの建物。扉の上には、白い月と光輪をかたどった古い看板が掲げられている。


その前には、山盛りの薬草籠を抱えた少年、空き瓶の木箱を慎重に運ぶ職人、集荷に来た商会の荷車が行き交っていた。

見た目だけなら、繁盛している優良工房にしか見えない。


(これだけ繁盛してるのに、潰れる……?)


その矛盾が、喉の奥をざらつかせた。


* * *


扉を開けた瞬間、鼻を刺す濃厚な匂いが押し寄せた。

甘苦い薬草の香り。釜から立ち上る熱い蒸気。焦げた布の匂い。――それから、どこか金属的な刺激臭のする“魔力の匂い”。


工房の中は、外から見るよりもずっと狭く感じられた。

狭い空間に、大きな釜が二つ、作業台が三つ、壁際まで棚がぎっしり。人が行き交うたびに肩がぶつかりそうだ。


「おい! そっちじゃねぇ、乾燥棚にあるやつを持ってこい!」

「瓶! 瓶が足りねぇぞ!」

「親方、二番釜の火が……!」


怒鳴り声が飛び交い、笑い声も混ざる。

活気。――それは確かに、圧倒的な熱量を持った活気だった。


その熱の中心に、ひとりだけ動かない男がいた。


岩のような大きな背中。腕は丸太のように太く、背丈は高くないが存在感がある。

白髪混じりの髭を蓄え、薬草の汁で染みた革の前掛けをしている。


「トクおじさま!」


セラフィナが声をかけると、その男は一瞬だけ肩を揺らし、のっそりと振り向いた。


「……おお。セラか」


ぶっきらぼうな声だ。だが、その目尻には隠しきれない柔らかな色が浮かんでいる。

次の瞬間、その太い眉が吊り上がった。


「また顔色悪ぃな。寝てねぇだろ。商会長が倒れたら、うちは誰に文句言やいいんだ」


「うるさいわね。ちゃんと寝てるわよ」


「嘘つけ。お前の“ちゃんと”は信用ならねぇ。親父そっくりになりやがって」


言い合いの距離が近い。

家族みたいだ。いや、家族よりも遠慮がない“戦友”のような空気がある。


トクレンと呼ばれたその男は、ふと僕に視線を移した。

そこで初めて、その目が鋭い“値踏み”の色になる。


「……で、そっちのひ弱そうな兄ちゃんが、噂の計算役か」


「アラタです。ギルドで帳面の整理をさせていただいてます」


「剣も魔法も使えなさそうだな」


即断即決。挨拶代わりの一刺しだ。


「ええ、使えません。……なので、別の方法で戦っています」


「別の方法で、うちの釜を回すってか?」


トクレンの口元が、わずかに歪んだ。

笑っているのか、試しているのか。


セラフィナが一歩前に出て、僕を庇うように言った。


「トクおじさま。これは“お願い”よ。工房の金が減る理由を、一緒に探させてほしいの」


「……理由なら、ひとつだ」


トクレンが吐き捨てるように言い、湯気を上げる釜を顎でしゃくった。


「忙しすぎる。それだけだ」


それだけで十分だ、と言わんばかりの口調だった。


でも僕には、その“それだけ”の中に、答えが隠れている気がした。

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