第35話 机上の金貨20枚
「ルミナ薬工房は、一年前に値上げをしたわ」
セラフィナがカップを置き、話を本題に戻す。
「モンスターが増えたせいもあって、材料が高くなったの。街が大きくなって、職人の生活費も上がった。
だから工房を守るために、通常ポーションの買い取り単価を引き上げた」
買い取り単価。
商会が工房から製品を買い取る値段。ここを上げれば、工房の収入は増える。
その代わり、市場での売値も上がる。当然、誰かが文句を言う。
「冒険者たちは、当然、嫌がったでしょうね」
「ええ。ギルドにも苦情が行ったはず……」
(当たり前だ。命綱の値段が上がるんだから)
僕はアイナが「ポーションが高い」と愚痴っていたのを思い出した。
でも、値上げしたのなら、工房側の“残り”は確実に増えているはずだ。
それでも苦しい。なら、どこかで別の何かが増えている。
「……ざっくりでいいので、数字で考えてみてもいいですか」
「できる範囲なら」
僕は手元の紙を引き寄せ、縦線を一本引いた。
この線があると、頭が整理される。僕の“癖”だ。
「まず、ルミナ薬工房の主力製品は二種類のポーションでしたよね。通常ポーションを商会に卸す価格は?」
「銀貨2枚と銅貨4枚。2,400リル」
「では高級ポーションは?」
「金貨1枚と銀貨6枚。……16,000リルよ」
僕は頷きながら書き込む。
次に、一本作るたびにかかる材料や瓶の費用――“変動費”。
「通常の材料費は……大体で良いので分かりますか?」
「1,400リルくらいね。薬草と触媒と瓶と……魔力薬も少し」
「高級は?」
「大体11,000リルくらいかしら。高い触媒と、封印用の資材が重いの」
僕は、紙の下に“残り”と書いた。
通常:2,400 − 1,400 = 1,000リル
高級:16,000 − 11,000 = 5,000リル
「ここまでだと、普通に高級の方が“残り”が大きいです。一本売るたびに、通常の五倍儲かる」
セラフィナが頷く。そこは彼女も分かっている顔だ。
「高級ポーションの調合にものすごく時間がかかるってことはないですよね?」
「ええ……もちろん高級ポーションの調合の方が時間はかかるはずだけど、五倍もかからないはずよ」
であれば、かかる時間を考えても、高級ポーションの方が儲かるはずだ。
「問題は次です。値上げ後、普通の月に、どれくらい作ってました?」
「通常が、月に450本くらい。高級が60本」
「……なるほど」
紙の上で、頭の中の算盤が弾ける。
通常:1,000リル × 450本 = 450,000リル
高級:5,000リル × 60本 = 300,000リル
合計:750,000リル
「……75万リル。金貨にすると――75枚分」
僕がそう言うと、セラフィナが目を細めた。
「さすが、すぐに計算できるのね」
セラフィナが、くすりと笑う。
(今、笑った。……反則だろ、その笑顔)
僕は咳払いして、次に“固定費”の方――毎月ほぼ変わらない支出を聞き出した。
「工房の家賃、職人の給金、燃料、設備の修理……。大体で良いので、合計はわかりますか?」
「給金が50枚。燃料と修理で4枚。その他の細かい出費で1枚……合計、金貨55枚といったところかしら」
僕は紙に書き、最後に太い線を引いた。
「じゃあ――」
僕は指で合計欄を叩く。
「理屈だけで言うなら、金貨75枚分の“残り”から、固定費が55枚。
……毎月、金貨20枚が手元に残るはずです」
言い終わってから、背筋が少し冷えた。
(残るはず。――でも、実際は残ってない)
セラフィナが、手紙の文面を思い出すように口元を引き結ぶ。
「トクおじさまは、金庫の金が減る一方だって言ったわ」
「……数字どおりなら、おかしい」
僕は紙をじっと見つめた。
紙の上では、工房は“忙しければ儲かる”設計になっている。
値上げも、筋が通っている。計算上は、工房も街も守れるはずだった。
なのに、現実は逆だ。
「きっとどこかで、僕たちが聞いていない“何か”が起きてます」
それは、不正かもしれない。無駄かもしれない。
あるいは――この世界の人たちが信じる“正しいこと”の代償かもしれない。
セラフィナは、黙って頷いた。その沈黙が、さっきより重い。
僕は顔を上げた。
「――実際に、ルミナ薬工房を見に行ってもいいですか?」
セラフィナが瞬きをする。
迷いが一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
「……ええ。確かめましょう」
そして、静かに言った。
「あの工房は、ローレンツァの“最後の砦”なんだから」
部屋の隅で、光輪通信が淡く脈打った。
遠く王都へ、あるいは他の街へと伸びる見えない光の線が、今はやけに頼りなく見える。
(“最後の砦”が沈んだら、この街は――)
僕は書き殴った紙を握りしめた。
これはただの計算結果じゃない。
現場に隠された“おかしさ”を見つけるための、地図だ。
――明日、工房の扉を開けたとき、この紙に書いていない何かが見えるはずだ。




