第34話 街を守る商会
レオニスとルカが去ったあとの執務室は、やけに広く感じられた。
部屋の隅に置かれた魔道具『光輪通信』の結晶だけが、淡い脈動を繰り返し、静かに呼吸している。
セラフィナは机の上の手紙を丁寧に畳み、封のないそれを封筒に戻した。
そして、今度は小さな銀の鈴を鳴らす。ほどなくして入ってきた使用人に、短く指示を出した。
「お茶を。あと、地図を持ってきて――あの、大きいのを」
使用人が一礼して下がると、セラフィナは僕に向き直った。
「……驚かせてごめんなさい。いきなり“助けて”なんて」
「いえ。驚いたというより……」
僕は適切な言葉を探した。
“怖い”、だ。あの手紙の一文が、あまりにも現実的で、切迫していたから。
「……本当に、看板を下ろす寸前なんですかね」
セラフィナは一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げると、いつもの商会長の顔に戻って頷いた。
「トクおじさまがあそこまで書くのは、よほどのことよ」
(トクおじさま、か)
“おじさま”なんて呼び方が自然に出る相手は、ただの取引先じゃない。
先代、あるいはそれより前から続く、深い絆があるということだろうか。
お茶が運ばれてきた。
陶器のカップから、あたたかな湯気と共に薬草に似た香りが立つ。
セラフィナは自分のカップを取るより先に、僕の前にそれを滑らせた。
白磁のような指先の所作があまりに滑らかで、僕は変に見惚れてしまう。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。で――」
セラフィナが、少しだけ口元を緩めた。
「アラタ。さっき、“何かが起きている”って言ってたでしょう?」
「はい」
「それ、私も同じことを考えてる。
値上げもした。材料も手配してる。職人も増やした。……打てる手は打ったはずなのに、苦しくなる一方だなんて」
“値上げ”という言葉に、僕の頭の中の歯車が回り始めた。
(値上げしたのに、苦しくなる……?)
普通は逆だ。単価を上げれば利益率は改善する。
少なくとも、机の上の理屈ではそうなるはずだ。
それが通じないなら、前提条件がどこかで狂っている。
そういうときは、数字じゃなく“目的”から確認する。
行き詰まった現場ほど、まず大きな地図を描き直さないといけない。
「……セラフィナさん。少し、変な質問をしてもいいですか」
「ええ」
僕は、いったんカップに口をつけて熱い茶を喉に流し込み、意を決して聞いた。
「セラフィナさんは……エルドレッサ商会を、どんな商会にしたいんですか?」
言った瞬間、心の中で自分に突っ込みを入れる。
これでは完全に、企業理解のための経営者へのインタビューのノリだ。
けれどセラフィナは笑わなかった。
驚きもせず、むしろ少し嬉しそうに目を細めた。
「……いい質問ね」
彼女は背筋を伸ばし、窓の外――ローレンツァの街並みへと視線を向けた。
「いつか、三大商会の側に立って、“街を守れる側”になりたい」
三大商会。
その言葉の響きだけで、ここが商売という名の“戦場”だと分かる。
「でもね」
セラフィナはゆっくりと僕に視線を戻した。
その瞳には、紫水晶のような硬質な光が宿っていた。
「工房や街を搾り潰してまで辿り着く頂点なら、そんな場所はいらないわ。
商会は、街の信頼を守るもの。――父が、そうやって育てたから」
父。
その言葉が出た瞬間、部屋の隅にある光輪通信の淡い光が、なぜか少し冷たく見えた。
* * *
使用人が運んできた大きな地図が、壁に掛けられる。
西から東へ一本の幹線が伸び、分岐した北の道が描かれていた。
アルメリア王国の物流の大動脈だ。
セラフィナが、地図の東端――幹線の終点を指で押さえる。
「まず、ここ。王都オルドリア。王宮があるだけじゃない。
税も、荷も、情報も――いったん全部ここに集まる。商会にとっては“首都”というより“心臓”よ。
週に一度、王都支店向けにうちの隊商が出てるわ」
彼女の指先が、その“心臓”から逆向きに、幹線をなぞっていく。
「で、その心臓に血を送ってるのが、三つの都市」
「カリメラ。西の港湾都市。海運の大商会――マリシア商会が支配しているわ。
ドラヴェナ。北の鉱山都市。武具と鉱石の牙城――フェルミナ鉱業会。
そして――トレヴィア。東の街道都市。物流の中心。カルサナ交易所が“数字”を握ってる」
「“数字”を握る……」
「ええ。あそこは、物流で私たちの首根っこを押さえているわ」
セラフィナが地図の一点――トレヴィアを、白魚のような指で叩く。
(港、鉱山、街道。三つの都市に、それぞれ専門特化した巨大な組織がいる。まるで業界ごと抑えた寡占状態だ)
セラフィナは地図から目を離さないまま、続けた。
「ローレンツァは、新街道が整備されて、ここ数十年で伸びた新興商都。大きくなったとはいえ、王都はもちろん、三大都市にもまだ及ばない。
だからこそ、三大商会に飲み込まれないためには、こちらも“守れる側”にならないといけない」
言葉は柔らかいのに、芯が硬い。
この人は、たぶん“怖い”のだ。自分が弱ければ、商会ごと街が潰される未来を、あまりにも具体的に想像できてしまうから。
「……でも、守るためには、資金が要りますよね」
僕がそう言うと、セラフィナは小さく頷いた。
「もちろん。だから私は――資金を“増やす”必要がある」
その言い方が、どこか慎重だった。
僕は、前にギルドでミーナに袖を引かれた場面を思い出していた。
“利子”という単語を口にしただけで、空気が凍りついたあの瞬間を。
「……この世界だと、“時間で増えるお金”の話は、嫌われますよね」
セラフィナは苦笑した。諦めにも似た、乾いた笑みだった。
「ええ。日々の支払いや回収くらいは、誰だって数えてるわ。
でも“利子”とか、“時間で増えるお金”なんて口走ったら――
『働かずに儲ける気か』って顔をされる。信心深い人ほど、ね」
「光輪教……ですね」
「そう。宗教というより、もはや生活習慣に近いけど」
セラフィナはカップを持ち上げ、少しだけ声を落とした。
「古い教義では、“富は女神が与えた手触りのある恵み”だと考えるの。
だから、それを数字だけで増やそうとするのは……“恵みを弄ぶ”みたいに見えるのよ」
(なるほど。だから“利子”も、いや“利益”でさえも、言葉の匂いだけで嫌がられる)
そして、その価値観が根強く残っているのに、商会は商会で巨大になっていく。
矛盾だ。矛盾の上で、この社会は回っている。
「じゃあ、資金を増やす方法も……言い方を間違えると、火傷しますね」
「そういうこと」
セラフィナは、少しだけ皮肉っぽく笑った。
「だから私は、せめて“正しい増やし方”がしたい。
誰かの首を絞めて増やすんじゃなくて、街が回るようにして増やす」
その言葉が、手紙の重さと繋がった。
“正しい増やし方”――それを、あの工房は今できていない。だから潰れかけている。
セラフィナはしばらく窓の外を見ていた。
「……少し、工房の話をしてもいいかしら」




