第33話 ローレンツァの最後の砦
セラフィナは、鍵付きの引き出しから取り出した手紙を、静かに広げた。
「……トクおじさまから」
「ルミナ薬工房の?」
セラフィナは頷いて、紙を指で押さえたまま、短く読み上げた。
「『単価は、一度上げてもらった。あれでも助かった。だが、それでも金庫の金が減る一方だ。
忙しく働いて、街のために命を削って、それでも沈んでいくのなら――』」
そこで、彼女は一瞬だけ言葉を切った。端正な口元が、苦く歪む。
「……『いっそ看板を下ろした方がマシかもしれん』、って」
背筋が、冷たくなった。
ルミナ薬工房。冒険者たちが命綱にしている回復薬を、この街で唯一まともに供給できる工房だ。
あそこが止まったら――グラスホークみたいなパーティは、次の月を迎える前に倒れるかもしれない。
「最後に、一文」
セラフィナは、紙の末尾を指でなぞり、低い声で言った。
「――『このままなら、ルミナ薬工房は看板を下ろすほかない』」
僕は思わず、聞き返していた。
「ルミナ薬工房……って、あの“最後の砦”って呼ばれている工房ですよね?
そんな簡単に……」
セラフィナは、答えずに、ただ頷いた。その頷きが、いつもの強さじゃない。
商会長の顔の奥にある、“街の重み”が見えた気がした。
(ギルドの帳簿を整えたくらいで、喜んでる場合じゃない)
僕は、机の上の縦線を引いた紙を見た。
数字は、確かに世界を見せてくれる。でも、見えた世界が“崩れかけている”と分かったとき、次に必要なのは――。
「……セラフィナさん」
口にしてから、あ、と気づく。ここにはミーナもロアンもいない。誤魔化しの笑いもない。
セラフィナは、僕をまっすぐ見た。
「アラタ。お願いがあるの」
彼女の声は静かで、でも逃げ道のない響きだった。
「――一緒に、ルミナ薬工房を助けてくれないかしら」
その瞬間、執務室の片隅の光輪通信が、淡く脈打った。
遠く王都へ伸びる“光の線”が、この街の命を細く、けれど必死に引っ張っているみたいに。
断れるはずがない。だって僕はもう、この街の現実を知っている。
薬が足りないとき、人はあっけなく死ぬ。
冒険者が倒れれば、魔物が溢れ、物流が止まる。
“最後の砦”が落ちたら、街の呼吸そのものが止まってしまう。
僕は小さく息を吸って――頷いた。
「……はい。もちろんです。きっと“何かが起きている”はずです」
セラフィナの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
安堵なのか、覚悟なのか。たぶん両方だろう。
そして隠しきれない疲労が混ざり合ったような、無防備な表情。
いつも完璧な“商会長”の仮面を被っている彼女が、ふと見せた人間らしい弱さに、僕は妙に喉が渇くのを覚えた。




