第32話 誓約紋より安い武器
「帳面の付け方を少し変えただけで、商会がそんなに劇的に変わるわけがないだろう?」
(うわ、初手でいきなりそれか)
この手のタイプは、正面から反論すると余計に殻に閉じこもる。
セラフィナが椅子に腰を下ろし、僕にも目で促した。
「じゃあ、短くでいいわ。アラタ、今日は“何ができるようになるのか”だけ、二人に教えてあげて」
「……分かりました」
僕は机の上の紙を一枚引き寄せ、いつものように縦線を一本引いた。
「まず、前提です。誓約紋――契約を破ったら痕が出る、あの魔法。あれは確かに強いです。嘘をつきにくいし、逃げ得も難しい」
「なら、誓約紋があれば十分だろう」
レオニスが顎を上げた。言いたいことが顔に書いてある。魔法という確実な保証があるのに、なぜわざわざ面倒なことをするのか、と。
セラフィナが先に口を開いた。
「大口の取引なら、ね。でも、街の小さな取引まで全部誓約紋で縛ったら、魔導士の賃金だけで傾くわ。手間も、段取りも、増えすぎる」
ルカがこくこくと頷く。
「僕も見ました。誓約紋付きの契約書、作るだけで半日仕事です。あれを毎日なんて……」
「だからこそ、帳簿なんです」
僕は紙を指で叩いた。
「誓約紋ほど強力じゃない。でも、圧倒的に安い。紙とペンだけで、どこにでも広がる。
正しい帳簿をつけていれば、誰かが不正をしたとき、必ずどこかに綻びが出ます」
レオニスが腕を組む。
「綻び? そんな曖昧なものに頼るのか」
「もう一つ、もっと大事な理由があります」
僕は少し息を整えて、レオニスの目をまっすぐ見た。
「誓約紋は、“相手の裏切り”は防げます。でも――“自分たちの判断ミス”は防げません」
ルカが目を丸くした。
「判断ミス……?」
「はい。たとえば、忙しいのに、なぜか金貨が減っていく。
そういう“おかしさ”は、魔法じゃ分からない。数字を並べて、初めて見えるんです」
その言葉に、セラフィナが静かに頷いた。
「ギルドの件で、本当に実感したの。数字を知らないまま走るのは……目隠しをして馬車を飛ばすくらい怖いことだって」
レオニスは黙った。不満げではある。
けれど、姉の言葉を真正面から否定できない顔だ。
一方、ルカは耐えきれないみたいに身を乗り出してきた。
「じゃ、じゃあ! その帳簿を作ったら、支店ごとの“増え方”とか、工房ごとの“減り方”も――」
「できるようになります。ただし」
僕はルカの期待を一度だけ手で止めた。
「いきなり“全部の答え”は出ません。まずは、取引の書き方を揃える。
それと……帳簿の形を作って、現場に根付かせるのは、僕じゃなくて――あなたたちの仕事ですよ」
ルカが瞬きをして、次の瞬間、顔を輝かせた。
「……僕、やります。僕、自分で帳簿の形を作って、ちゃんと回るところまで持っていきたい。
それで……いつか、この新しいやり方を本にまとめたいんです。僕みたいに、数字の扱いでずっとモヤモヤしてた人のために」
そのまっすぐな宣言に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(この世界で、“会計”が根付くとしたら――こういう人が必要なんだ)
レオニスが、ふっと息を吐いた。
「熱いのは勝手だけど、仕事は増やしすぎるなよ。商会は遊びじゃない」
「遊びじゃないからこそ、です!」
ルカが食い下がる。
セラフィナが笑って、二人の間に入った。
「はいはい。まずは、ここから。ルカ、あなたは実務の形を作る。
レオニス、あなたは“現場が回る範囲”を一緒に決める。
……アラタは、最初の道筋だけお願いできるかしら」
(完全に、僕を“顧問”みたいに扱ってるな、この人)
でも、不思議と嫌じゃなかった。
誰かが本気で受け取ってくれるなら、知識は“武器”になる。
一段落すると、レオニスは仕事に戻ると言って席を立ち、ルカも名残惜しそうに頭を下げて出ていった。
執務室に残ったのは、僕とセラフィナだけ。さっきまでの熱が引いたぶん、静けさが際立って、逆に落ち着かない。
セラフィナは、ふと視線を落とした。
そして、執務机の奥――鍵付きの引き出しに、静かに手を伸ばした。
「……アラタ。もう少しだけ、時間をもらえる?」
取り出した手紙の角が、荒っぽく折られていた。
その紙が、どこか“現場の匂い”をまとっていた。




