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第31話 エルドレッサ商会へようこそ

エルドレッサ商会――このローレンツァの街でいちばん“金が流れる”場所。

ギルドの裏の埃っぽい物置で木札と格闘していた僕が、次は商会本店に呼ばれるなんて。


「おう、アラタ。行ってこい」


ロアンはそう言って、書類の山から顔も上げずに手を振った。


「ただし、変な契約させられそうになったら、すぐ逃げろ。お前はまだ、うちの“帳簿の魔法使い”だからな」


「魔法じゃないです。……でも、ありがとうございます」


それでも、ギルドの受付カウンターを離れるとき、ミーナが小さく手を振ってくれたのが、妙に心強かった。


* * *


エルドレッサ商会本店は、ローレンツァの街並みの中でも異彩を放っていた。

石造りの三階建て。正面の大扉は分厚く、金属の飾りが控えめに、しかし確かな品質で光っている。

派手さはない。けれど、壁の石はどれも定規で測ったように均一で、窓枠の木材も反りひとつない。


――金があるって、こういうことか。


ギルドは、戦利品の泥と酒の匂いと、人の熱気でできている。

ここは、インクと革と、乾いた紙の匂いがする。


廊下には荷運びの男たちが足音を殺して行き交い、書記らしき若者が帳面を抱えて走り、どこかの部屋からはそろばんに似た硬質な音が小刻みに聞こえた。


受付に名乗ると、係の女性が一瞬だけ僕の服装――くたびれたスーツの襟元とネクタイ――を見て、丁寧に頭を下げた。


「アラタ・トマツ様ですね。商会長がお待ちです。こちらへ」


(“様”か……ギルドだと、万年“雑用係”扱いなんだけどな)


通された応接室は、清潔で、静かで、やけに落ち着かない。

座り心地の良すぎる椅子というのは、かえって人の背筋を緊張させる。


「お待たせしました」


扉が開き、室内の空気がふわりと変わった。

金糸のような髪。紫水晶(アメジスト)みたいな瞳。

深い紫のドレスを纏った女性が、"当主"という言葉そのものみたいな佇まいで、静かに立っていた。


「アラタ。来てくれてありがとう」


名前を呼ばれるだけで、なぜか背筋が伸びる。僕は慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。……ええと、今日は、帳簿の件で」


「ふふ。そう、帳簿の件。――でも、まずは“商会の空気”に慣れて。顔がちょっと硬いわよ」


硬いのは、あなたが綺麗すぎるせいです。

喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込んだ。


「こちらへ。執務室に案内するわ」


* * *


執務室に入って、僕は足を止めた。

部屋の片隅に、机でも棚でもない、“小さな台”が鎮座している。


透明に近い淡青色の結晶が、銀の輪に浮かぶように支えられていて、

輪の表面には細い文様――魔力紋のような線――が何重にも走っていた。

結晶の奥で、淡い光が、ゆっくりと呼吸みたいに揺れている。


「それ……何ですか?」


「『光輪通信(リンクライト)』よ」


セラフィナはさらっと言った。


「本店と王都支店を結ぶ、命綱みたいなもの。短い文章を、遠くまで一瞬で飛ばせるの」


彼女は、指先で空をなぞるように小さく円を描く。


「“世界光”を、ぎゅっと圧縮して――一本の光の糸にして遠くへ飛ばすのよ。届いた先でまたほどいて、文字に戻す」


世界光。――この世界の魔法の源になるエネルギー、らしい。

空気みたいにそこらじゅうに満ちていて、魔法使いはそれを引き寄せて、火を起こしたり水を操ったりするのだという。


僕にはまだ実感がない。

ただ、この街の灯りも、薬の封印も、剣を強くする“強化紋”も、みんなそれで動いていると聞いた。


「――ただし、維持費は目が飛び出るくらい高いわ。純度の高い魔水晶を使ってる上に、定期的な調整が必要なのよ」


セラフィナはそう言いながら、台の上の結晶をさりげなく一瞥した。


「最近たまに“ほどけ”が悪いの。文字が欠けたり、届くのが一拍遅れたりね。調整の手間が増えたわ……前はこんなこと、なかったのに」


その声の端に、ほんの少しだけ気がかりな色が滲んでいた。


(通信が、魔法で……しかも維持費が高い?)


便利なものほど高い。どの世界でも、そこだけは同じらしい。


「ギルドには、そんなものは……」


「私たちは、現場が広いぶん、情報を“繋ぐ”のにお金がかかるのよ」


彼女はそう言って、執務机の上の書類を軽く整えた。

その指先の動きが、無駄なく滑らかで、見惚れてしまいそうになる。


「今日呼んだのは……まずは、弟と、帳簿係の子たちに会ってほしかったから。もうすぐ来るはずよ」


「弟……さんですか」


コンコン、とノックが響いた。


「姉さん、入るよ」


扉が開き、柔らかい声が入ってくる。その声音は穏やかだけれど、空気の端に“警戒”が混じっているのが、素人の僕でも分かった。


レオニスは、一目でセラフィナの弟だとわかる、整った顔立ちの青年だった。上等な服を着ているのに、嫌味がない。けれど、目だけは笑っていない。


その後ろから、もう一人。小柄で、インクの染みた指先を隠すように胸の前で手を組んだ少年が、覗き込むように顔を出した。


「失礼します、商会長。……えっと、あなたが“帳簿の先生”のアラタさんですか?」


「先生ってほどじゃないよ。アラタです。よろしく」


少年の目が、きらきらと光った。


「ぼ、僕、ルカです! 書記見習いをしてます!」


「ルカ。落ち着いて」


セラフィナが苦笑して、レオニスに視線を向ける。


「レオニス。紹介するわ。アラタ。ギルドの帳面を立て直してくれた人よ」


「知ってるよ。噂でね」


レオニスは、礼儀正しく頭を下げた――ように見せて、言葉はまっすぐ刺してきた。


「姉さんはずいぶん入れ込んでるみたいだけど、うちはギルドとは規模が違う。

 帳面の付け方を少し変えただけで、商会がそんなに劇的に変わるわけがないだろう?」


(ああ。これは、最初から試すつもりで来てるな)


僕は苦笑しつつ、反射で言い返すのを飲み込んだ。

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