第30話 黒字の祝杯
小部屋を出た瞬間、ロビーが妙にざわついているのに気づいた。
受付の方から、聞き覚えのある怒鳴り声が響く。
「だから! 次の赤枠が入れば返せるって言ってんだろ!」
ブレイズウルフのディーンだった。
顔色は悪く、腕には包帯。盾は半分割れたまま――修理すら間に合っていない。
カウンターの前には鍛冶屋の親父まで腕を組んで立っていた。
「修理代、今日こそ払えって言ったよな?」
「……今は無理だ。先に金を回さねえと、次の依頼に出られねえ!」
ディーンの声が裏返る。
“回す金”がないから、次に出られない。次に出られないから、払えない。
悪循環が、その場の空気に滲んでいた。
ミーナは怯えず、淡々と木札を差し出す。
「これ以上の前借りは金貨2枚までです。控えはこちら。
“感謝の上乗せ”も、いつも通り付きます」
「……ちっ」
ディーンは歯ぎしりしながら署名し、木札を割った。
ぱきん、と割れ目が走る音が、やけに大きく聞こえた。
その横を、アイナが迷いなく進む。
「ミーナ。前借り分、返すわよ」
ミーナが目を丸くする。
「あ、ありがとうございます! 追加の前借りは――」
「いらない」
アイナは即答した。
カウンターに置かれた金貨3枚が、かちりと鳴る。
その横に、銀貨が9枚。――“感謝の上乗せ”の分まできっちりだ。
ディーンの目が、その金属の光に吸い寄せられた。
返済――それも“感謝の上乗せ”込み。彼の顔が、一瞬だけ引きつる。
「なっ……あんな地味な依頼ばかり受けてたくせに……なんで俺たちより金を持ってんだ……?」
「コイツのアドバイスのおかげでね」
アイナが、親指で僕を指す。
「報酬じゃなく、“残り”を見たからです」
僕は静かにそれだけ言った。
「……へっ。金を返したくらいで偉そうにすんなよ」
吐き捨てる声は乾いていた。その腕の包帯が、少し赤く滲んでいる。
アイナが、わざとミーナの木札に目を落とす。
「返せないよりは、ずっとマシでしょ?」
「……っ」
ディーンは言い返せない。
代わりに、握った控えの木札が、ぎしりと鳴った。
「さ、アラタ。今日は祝杯よ」
アイナが振り向きざまに笑う。
僕はディーンに静かに告げた。
「数字は、見ないふりをすると手痛い形で返ってきます。
もし本気で立て直したいなら――今度、話を聞きます」
「ぐ……ぬぬ……」
うめき声が背中に刺さる。
僕はそれ以上何も言わず、アイナたちの後ろに続いた。
* * *
その夜。酒場でささやかな打ち上げをした。
「ここまでは使っていい、ってラインは守ってくださいね」
僕は一応念押しした。
「分かってる分かってる! 今日は、一番高いエールで!」
バルグが嬉々として叫ぶ。
「今月“残った分”からだ。たまにはいいだろ!」
「ほんっと、すぐ全部使い切ろうとするんだから」
メリスが呆れつつも、ジョッキを受け取った。
ジョッキが打ち鳴らされ、泡立つ麦酒の匂いが広がる。
少し酔いの回ったアイナが、ふらりと僕の隣に座る。
「……ねえ、アラタ」
「はい」
「あんたの“お金の数え方”、どうやら本物だったみたいね」
彼女は、ジョッキの縁を指でなぞりながら言う。
「派手な一か八かじゃなくて、“来月も戦えるだけの余裕”を残してくれる武器。
そういうのも、悪くないわ」
「ありがとうございます」
照れくさくて、僕は視線を落とす。
「僕は剣も魔法も使えません。でも、みなさんが“来月も戦えるかどうか”を確かめることなら、これからも手伝えます」
「……じゃあ、うちらの財布と命の守り、これからも頼んだわよ」
そう言ってから、彼女は少しだけ、僕の方へ体を寄せた。
「……あんたがいれば、次はもっと上に行ける気がする。B級だって、夢じゃなくなるかもしれない」
熱っぽい瞳で見つめられて、僕は思わず目を逸らした。
アイナも誤魔化すように、ぐいっとジョッキを突き出す。
僕もジョッキをぶつけた。
「乾杯」
「乾杯!」
泡が弾ける音が、店の喧騒に紛れて消えていった。
* * *
数日後。
ギルド裏で書類整理をしていると、ロアンに呼び止められた。
「おい、アラタ。お前宛てに、こんなもんが届いてる」
差し出されたのは、上等な紙の封筒。
封蝋には、見覚えのある紋章──エルドレッサ商会の印章。
便箋を開くと、端正な筆跡が目に飛び込んできた。
『このたび、エルドレッサ商会では、あなたが教えてくださった、両側に数字を並べる帳簿――「複式簿記」を正式に導入することにいたしました。
つきましては、本店で帳簿を預かる者たち──弟レオニスや若い帳簿係たちにも、あなたから直接、教えを授けていただけないでしょうか。
お忙しいとは存じますが、ぜひ一度、商会本店までお越しください。
あなたの知恵の一端を、エルドレッサ商会にも分けていただけることを願っています』
『――セラフィナ・エルドレッサ』
「なになに、手紙?」
背後からアイナが覗き込む。
「……へぇ。“エルドレッサの薔薇”から、ね?」
ほんの少しだけ、不機嫌そうな声。
(そういえば、……アイナさんは、エルドレッサ商会が“ぼったくってる”って言ってたな)
ギルドと商会、その間で動く金の流れは、ずっと気になっていた。
(でも、セラフィナさんが、そんな雑なやり方をするとは思えない)
ギルドの帳簿。グラスホークの財布。
そして次は──。
便箋の最後に記されている流麗な署名。その名前を見つめながら、僕は思わず息をのむ。
冒険者パーティの「お財布改革」は、ひとまず小さな成果を見せた。
次は──商会の帳簿だ。
ギルドの片隅で帳簿を抱えた会計士は、いつのまにか商業の中心へと、足を踏み出そうとしていた。




