第2話 査察の通達
ロアンの執務室は、酒と紙とインクの匂いが混ざっていた。
壁には巨大な獣の頭骨と大剣。
机の上には書類と木札と酒瓶が無造作に積まれ、隅には口の開いた金庫と、半端に積まれた布袋が置きっぱなしになっている。
鍵もかかっていない。
――本当に、中身は空なのだろう。
ロアンは、乱暴に破った封筒から、厚手の羊皮紙を引きずり出した。
「……ちっ」
短い舌打ちが、妙に耳に残る。
「ろ、ロアンさん、なんて……?」
ミーナがおそるおそる尋ねる。
「決まってらぁ」
ロアンは紙を指で弾き、ぶっきらぼうに読み上げた。
「『ローレンツァ支部に対し、ギルド本部査察局は十日後、定期査察を実施する。
依頼受付の記録、報酬支払の記録、本部への上納金の納入記録、預かり武具・在庫品に関する記録および現物を提示せよ。
必要に応じて支部運営の一時停止、支部長の更迭その他の措置を取り得る』──だとよ」
十日後。
その一言だけで、背筋がすっと冷えた。
「そんなに、すぐなんですか?」
思わず漏れた言葉に、ロアンがじろりと僕を睨む。
「“そんなに”じゃねえ。あいつらが来るのは、何年かに一度だ。
前に来たのは七年前……だったか」
「そのときは?」
「依頼の紙と倉庫の中身、冒険者に渡した札を突き合わせて終わり。形だけの見回りよ」
そう言った直後、ロアンは羊皮紙をぐしゃりと握り潰した。
「……だが、そのあとで別の支部がやらかした。
預かってる武具をこっそり横流ししてたらしい。札の中身を書き換えて、現物をごっそり抜いた。
ギルドの在庫も一緒くたにして売り飛ばしたんだとよ」
「えっ……」
ミーナが青ざめる。
「預かりものまで、ですか……?」
「ああ。預けた剣が別の奴の腰についてたり、売った覚えのねぇ素材が市場に出回ってたりな。
査察でそれがバレて、ギルドマスターは首。支部は閉鎖。
関わったやつらは、まとめてギルド追放だ」
ロアンは、ぐいと首を鳴らした。
「そんなんがあったもんでな。書いてあることと現物がひとつでも合わなきゃ、『お前も同じ穴のムジナだ』って疑われるわけだ」
「……もし、合わなかったら?」
僕が問うと、ロアンは肩をすくめる。
「まず預かりの受け入れ停止。依頼も制限。
ギルドマスターは“説明”のために王都送り。弁明できなきゃそのまま首。
ひでぇ場合は、支部ごと潰される」
ミーナが、ぎゅっと拳を握りしめた。
「で、でも、うちはちゃんと……!」
「“ちゃんと”やれてりゃ、給金を延ばしたりしねぇんだよ」
自嘲気味な一言が、重く部屋に落ちる。
これは単に「偉い人が来る」なんてイベントじゃない。
ミーナの給金どころか、このギルドの存続そのものが――十日間のカウントダウンに入ったという宣告だ。
ここで数字が合わなければ、最悪そこで終わる。
(……放っておけば、潰される)
剣も魔法も使えない僕を拾ってくれた――水をくれて、「大丈夫」と笑ってくれたミーナの居場所を、失わせるわけにはいかない。
* * *
僕は息を吸い、なるべく落ち着いた声で言った。
「ロアンさん。このギルドには――お金の出入りや貸し借りを、まとめて残している帳面はありますか?」
「……まとめた帳面?」
ミーナが首を傾げる。
ロアンも怪訝な顔で僕を見返した。
嫌な汗が背中を流れる。
「依頼の控え、支払いの控え、在庫の一覧……“まとまっている”形の記録です」
「そんなもんはねぇ」
ロアンは即答した。
「必要なときにモノを探して、その場で数える。それで回してきた」
(……回してきた、か)
僕は言葉を選びながら、もう一歩だけ踏み込む。
「じゃあ……“会計”とか、“簿記”って言葉を聞いたことは?」
「……かいけい? ぼき?」
ミーナがきょとんとして聞き返す。
ロアンは鼻で笑った。
――ない。
言葉がないってことは、概念がない。
「……いつも、どうやって“記録”を残してるんですか」
「これだ」
ロアンが顎で示したのは、刻み目の入った細長い木の板の山と、日付と金額だけが雑に書かれたメモ用紙の束だった。
「金を貸すときは板を割って“割符”を渡す。返ってきたら合わせる。
あとは、思い出したときに紙に書く。……何が不満だ?」
“割符”や、帳面に書き殴られた“記録”はある。
けれど、繋がっていない。
誰にいくら貸しているのか。
誰にいくら払う必要があるのか。
今、金庫にいくらあるのか。
本部への上納金は、どこまで滞っているのか。
――一つの図として“見える形”になっていない。
全体像を一枚で示す“帳簿”を作る仕組みが、この世界にはない。
ミーナが、すがるような目で僕を見上げた。
「……アラタさん。私たち、どうしたら……」
僕は深く息を吐いた。
剣も魔法も使えない自分に、ここで何ができる?
――いや。できることがある。
地球上では、ルネサンス期に【複式簿記】が生まれてから、ざっと五百年以上。
人類が磨き続けてきた会計の技がある。
この世界にはまだない。
だが、現代の日本の会計士である僕の頭の中には、五百年間磨かれた“武器”がある。
僕は木札の山から目を離さず、短く言った。
「……やれます」
ロアンが顔を上げた。
「……どうする気だ?」
「今から、倉庫を開けてください」
「倉庫だぁ?」
僕は迷わず続けた。
「このギルドが、いま何を持っていて、何を返さなきゃいけないのか。それを“一枚”で示します」
査察官がまず見るのは、記録と現物の一致だ。
でも、査察を乗り切るためだけじゃない。
給金が遅れている原因を根っこから突き止めて、解決するためにも不可欠だ。
僕は、この世界にはまだ存在しないであろう言葉を、はっきり口にした。
「――【貸借対照表】を作ります」




