第17話 計算外の急接近
会議室を出ると、廊下の空気がひんやりしていた。
セラフィナは、僕の半歩前を歩く。歩幅を合わせてくれているのに、距離だけは妙に近い。
ふわりと良い香りがして、反射的に背筋が伸びた。
「さっきの話」
彼女が窓辺で足を止める。
「“売上”と“費用”を分けて書いていけば――どの街道が、どの工房が、本当に“元手”を増やしているのか、数字で見えるようになる」
独り言みたいに、けれど声音は鋭い。
「北の街道の儲けが薄いなら、南に馬車と人を回すべきだと一目で判断できる。……いえ、それだけじゃありませんね」
彼女はゆっくり振り向いた。
「私はここにいながら、王都の支店が本当に儲けを残しているかを見抜ける。
わざわざ王都まで出向いて支店長から話を聞いたり、金庫を覗きに行ったりしなくても――彼らがまっとうに商売をしているかが、手元の紙だけで分かってしまう」
「……っ」
(さっきの説明だけで、そこまで行き着くのか……この人、本当に“商会長”なんだな)
セラフィナの思考の速度に、背筋が粟立つ。
彼女が気づいたのは、数字による“遠隔統治”の可能性だ。
勘や噂ではなく、数字という根拠を持って、巨大な組織を御することができる。
「もしこの物差しを、旧来の大商会たちが持たないままだとしたら……」
セラフィナは口元に手を当て、噛み締めるように呟いた。
「正直、自分のところだけでこっそり使って、出し抜きたくもなります」
そして、苦笑する。
「でも……独り占めは、きっと許されませんよね」
「ひ、独り占め……?」
次の瞬間、セラフィナがこちらをまっすぐ見た。
「アラタ。あなたの複式簿記――うちでも導入したい」
直球だった。
「……そんな簡単じゃありません。現場は嫌がりますよ」
「嫌がるでしょうね」
あっさり頷いて、続ける。
「だからこそ、“嫌がる理由”も含めて知りたい。あなたは、どう説得します?」
僕は一瞬言葉に詰まって――思わず笑ってしまった。
「条件があります」
動揺をごまかすように、先に釘を刺す。
「ギルドの立て直しが軌道に乗るまでは、まずこちらが最優先です。手が空いた分でしか、お手伝いできません」
「分かりました。ギルドが先。――それがあなたの筋なんですね」
その受け止め方が、妙に胸に刺さる。
「では、こうしましょう」
彼女は一歩踏み込んだ。
紫の瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。吐息が触れそうな距離。整った顔立ちが視界いっぱいに広がる。
(近い!)
思わず、心臓の鼓動が速くなり、汗が一気に噴き出した。
「ギルドの帳簿が回りはじめて、あなたの手が少し空いたら――エルドレッサ商会に来てください。正式に依頼します」
* * *
僕が返事を探すより早く、階下のホールでロアンの怒鳴り声が響いた。
「おい! 掲示板の赤枠、あれ誰が受けるんだよ!」
「赤枠……?」
セラフィナが眉を上げ、僕も反射的に廊下の先を見た。
掲示板の上段に、赤い枠の紙が貼られている。
『ロックリザード討伐/金貨30/C級以上』
「どうだ、グラスホーク! お前らならいけるだろ。街の顔、見せてやれ!」
ロアンの大声に驚いたのか、セラフィナは慌てて一歩下がった。
冷静沈着な彼女が、珍しく頬を朱に染めて口元を押さえる。
「……僕は、剣は振れませんよ」
思わずそう言ってしまった。
セラフィナが小さく笑う。
「知っています。だからこそ、あなたに来てほしいんです。剣で守れるものには限りがある。――数字で守れるものもあるでしょう?」
――ずるい。そんな言葉、反則だ。
僕は息を吐いて、頷いた。
「分かりました。ギルドの帳簿と、セラフィナさんの商会の帳簿。
ちゃんと“利益”が見えるようになるまで、付き合います」
「頼もしいですね」
セラフィナは柔らかく笑った。
先ほどの情熱的な表情とは違う、穏やかで美しい笑みだった。
(ここから先、“利益”という物差しを、この街の当たり前にしていく)
けれどこのときの僕は、まだ知らなかった。
複式簿記という“最強の武器”が、この街を――いや、この世界をどれだけ変えてしまうのかを。




