第11話 前金10枚の錯覚
その日のギルドは、いつもより少しだけ浮き足立っていた。
「では、前金として金貨10枚を預けよう」
上等なマントの商人風の男が、じゃらりと音を立てて金貨袋を差し出し、足早に去っていった。
「ありがとうございます!」
ミーナがぱっと笑顔を咲かせ、両手で袋を受け取る。
細い腕にずしりと重みがかかり、思わず「おおっ」と声が漏れた。
「ロアンさん、護衛依頼の前金、こんなに……!」
「よしよし」
カウンターの奥で、ロアンが口の端を上げた。
「こいつは太い客だ。成功報酬もでけえ。さっそく儲かったな」
「ふふ、女神様の“ご利益”かもしれませんね」
ミーナは鍵束を握り、奥の執務室へ。金庫を開け、袋の口をほどく。
澄んだ金属音が響いた瞬間、周りの職員たちの顔がぱっと明るくなる。
「金庫の中が増えるのは、やっぱり嬉しいです」
――その光景を、僕は少し離れたところから見ていた。
(いや、それ、まだ“儲かった”どころか仕事も始まってないんだけどな……)
前金の金貨10枚。確かに金庫の中の金貨は増えた。
けれど、それはギルドにとって、いざとなれば返さないといけない可能性のあるお金だ。
だが、ミーナたちはそれを“儲かった”と無邪気に喜び、同じ金庫の中に混ぜ込んでしまった。
一度混ざると、金貨は全部“同じ顔”をする。
返すべき分まで、つい“使えるお金”に見えてしまう。
(この感覚の違いを、ちゃんと話しておかないと……また同じ綱渡りになる)
査察は乗り切った。債務超過も解消した。
でも――勝ったわけじゃない。“猶予”をもらっただけだ。
金庫の中が増えたといって気が緩めば――また、給金が止まる。
* * *
「ロアンさん。今の10枚、“儲かった”って思わない方がいいです」
「は?」
ロアンが眉を吊り上げる。
ミーナも、鍵を持った手を宙で止めた。
「え、でも……金貨は増えましたよ?」
「増えたのは“預かった”からです。まだ仕事は終わってません」
「終わってねえのは分かってるよ」
ロアンはぶっきらぼうに言って、腕を組む。
「だがな、金庫の中が増えるだけで、こっちは一息つける。そうだろ?」
「一息つけるのは分かります。でも――」
僕は金庫を見つめた。
「これは、失敗したら返さなきゃいけないお金です。
護衛が倒れたり、依頼が流れたりしたら、商人は黙ってません」
「返す……?」
ミーナが小さく息をのむ。
「この10枚は、これから出ていくお金の“種”です。
護衛の冒険者への前払いや、馬車代も必要です。
最終的にギルドの手元に残るのがいくらか――そこが大事です」
ロアンは腕を組んだまま、しばらく黙りこんだ。
「……要するに、後で泣きを見るって話か」
「はい。数字は、見ないふりをしていると、後で必ず痛い目を見ます。
だから今のうちに“分けて”考えましょう」
「痛い目、ねえ……だが、どうやって――」
そのとき、背後から控えめなノックが聞こえた。
「失礼してもよろしいでしょうか?」
扉が開き、金糸のような髪が陽光を受けて揺れた。
紫水晶の瞳が室内を一巡し、僕をとらえて微笑む。
「セラフィナさん……?」
「お約束もせずに申し訳ありません。
先日見せていただいた“帳面”のことが、どうしても気になってしまって」
(本当に来た……)
先日のギルド会議の終わりに口にした言葉――
“いつか、うちの商会でも真似させてくださいね”
――は、社交辞令じゃなかったらしい。
(……やっぱり、絵になる人だな)
場違いな感想を、慌てて喉の奥に押し込む。今は憧れている場合じゃない。
「分かりました。ちょうどいい機会です。
もうすぐお昼休憩ですし、皆さんにお話ししたいと思います」
* * *
ギルドの会議室。
ミーナや受付たち、倉庫番まで集まり、セラフィナが静かに席に着くと、部屋の空気が少しだけ引き締まった。
(……よし。変なところで噛めないな)
僕は紙を一枚取り、机の真ん中に置いた。
「では、“金庫が増えた”ときに、何を考えるべきか――その話をします」
ペン先が止まる。
「結局、みなさんが一番知りたいのは――
このギルドがちゃんと“利益”を出せているかどうか、ですよね」
言い終えた途端、自分の声だけが場の空気から浮いた気がした。
「り……えき?」
ミーナがきょとんと目を瞬かせる。
ロアンも、セラフィナでさえ、わずかに眉をひそめた。
最初に声をあげたのはミーナだ。
「えっと、それって、“ご利益”のことですか?
神殿で『光を枯らす利は慎め』ってお話は聞いたことがありますけど……」
「ご利益……?」
僕も思わず繰り返した。
ご利益。
神様からもらえるおまけみたいな幸運。
たしかに字面は「利」だ。
でも、僕がさっき口にした「利益」とは、どう考えても別物だ。
(……まさか)
儲けはある。商人はいる。セラフィナだって“儲かる”と言っていた。
なのに――“儲けを数字で測る言葉”が、この場の誰にも通じない?
元の世界なら、子どもでも知っている言葉だ。
商売をするなら、息をするように意識するはずの概念。
だが、ミーナの瞳には一点の曇りもなかった。
ロアンも、そしてあの聡明なセラフィナでさえも、「何がおかしいのですか?」という顔で僕を見ている。
(この世界には“利益”という概念が……ないのか……?)
胸の奥で、小さなざわめきだけがじわりと広がっていった。




