第10話 査察と延命
査察当日――。
ギルド本部から派遣された査察官は、思っていたよりずっと疲れた顔をした中年の男だった。
細い目つきと、への字に曲がった口元。人の粗を探すことに慣れている顔だ。
「ローレンツァ支部の状況は、事前報告である程度聞いている」
彼は、かつて乱雑に積まれていた書類の山が整理され、棚に並んでいるのを見て鼻を鳴らした。
「見た目だけ整えても意味はないぞ。中身が伴っていなければな」
意地の悪い口ぶりに、職員たちがびくりと肩を震わせる。
ロアンが一瞬だけ前に出かけて――口を閉じた。
査察官は机を指で二度叩いた。
「まず金庫だ。いま開けろ。ここで数える」
ミーナが鍵束を握りしめ、金庫へ向かう。
錠が外れる乾いた音が、やけに大きく響いた。
「袋ごと出せ」
査察官は手慣れた指で仕分けしていく。
わざとゆっくり、嫌なほど丁寧に。
「……ふん」
最後の一枚をつまんで、ようやく顔を上げた。
「金庫の中身は、帳面と合っている。次」
視線が机上の紙束へ移る。
「依頼受付の記録。報酬支払の記録」
そう言って、査察官は適当に数枚を選ぶ。
依頼書、控え札、支払い札――差し出される紙を、薄い目が行ったり来たりした。
「……薬草採取。報酬、銀貨3枚」
「……街道の荷運び護衛。前金、銀貨2枚。成功報酬、銀貨8枚」
鼻で笑う。
「まぁ、田舎の支部のレベルはこの程度か」
古株の冒険者が不快そうに眉を動かしたが、ロアンが目だけで止めた。
査察官は椅子を鳴らして立ち上がる。
「預かり武具と在庫品。現物を見せろ。――こっちが本番だ」
* * *
倉庫の扉が開く。
査察官の目が、まず棚の並びに止まった。
預かり武具は預かり武具。
在庫は在庫。
整理整頓されている。混ざっていない。
それだけで、嫌な男の口元がわずかに歪む。
「……抜くぞ」
査察官は預かり棚から、適当に剣を一本抜いた。
柄に掛かった木札をつまみ、文字を読む。
「“赤い牙”……持ち主がいるなら、持ち主側の割符を持ってこい」
(そうだ。割符は合わせて初めて意味がある)
古株の冒険者の一人が、渋い顔で腰を上げた。
「それ、俺のだ」
彼が懐から短い木片を出す。
査察官が二つを合わせる――割れ目が、ぴたりと噛み合った。
「……ふん」
悔しそうに言葉が短い。
「次」
査察官は別の札を取った。
「こいつの持ち主は?」
ミーナが顔色を変える。
「……きょ、今日はいないです。討伐に出ていて……」
「なら呼べ。今日戻るのか」
「戻ります。夕方までには」
僕が即答すると、査察官がこちらを見る。
「口だけならいくらでも言える。――戻ったら割符を出させろ」
「承知しました」
査察官は続けて、在庫棚へ移った。
「在庫は?」
「こちらです」
棚卸しのときに、箱や袋には簡易札を付け直した。
品名と数量、そして帳面の該当行が分かるように。
査察官は薬草の束を指で弾く。
「これは?」
「薬草です。数量は札に。帳面ではこの行です」
僕がページを開くと、査察官は眉をひそめた。
「……なんだ、この見やすい表は……」
薄い目が僕に刺さる。
「現物と突き合わせて、棚ごとに揃えました」
「ふん。小細工で誤魔化すなよ」
そう吐き捨てながらも、査察官は帳面を手放さない。
「……ちっ。これじゃ粗も探せん」
査察官は舌打ちしながら、表の行を指で追うしかなかった。
* * *
「次。本部への上納金だ」
ロアンの肩が、わずかに揺れた。
「納入記録を見せろ」
「すでに手続きは済ませています」
僕は封蝋の残る小さな札を机に置いた。
本部の印章と、受領の刻み。
「本部向けの定期便に上納金を預けました。これは受領札です」
査察官はそれを指先でなぞり、舌打ちを噛み殺した。
「……ふん。納入は済んでいる、ということだな」
苛立ちが顔に浮かんだ。
* * *
結局、致命的な誤りはどこにも見つからなかった。
いくつか細かい指摘は飛んだが、「帳面の文字が汚い」といったレベルの話だけ。
夕方、討伐から戻った冒険者が短い割符を差し出し、柄に掛かった長い割符と――ぴたりと噛み合った。
「……ちっ」
最後の帳面を閉じるとき、査察官はまた小さく舌打ちした。
「ローレンツァ支部は危ういと聞いていたが……何もしていないわけではないな」
しぶしぶといった口調でそう言う。
「……支部の存続について本部に良いように進言しておこう。――以上だ」
それはつまり、「粗が見つからなかった」という最大級の賛辞でもあった。
* * *
査察官が去り、人の気配が薄くなったギルドのロビーで、僕はひとり紙束を眺める。
エルドレッサ商会との取引を反映させた最新の【貸借対照表】だ。
【債務超過】はひとまず解消され、ミーナたちの給与も支払われ、なお、現金もギリギリとはいえプラス。
ギルドは、いますぐ潰れることはない。
「アラタ」
背後から声がした。
振り向くと、ロアンが立っていた。
いつものように腕は組んでいるが、どこか気まずそうに視線をそらしている。
「……なんだかんだで、助かった」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は僕の肩をどん、と叩いた。
「礼は言わねぇ。だが、今度ヒマな夜があったら付き合え。
酒ぐらいは奢らせろよ、“帳簿”の魔法使いさんよ」
「……はい。そのときは、遠慮なく」
肩に残る重みが、少しだけ誇らしかった。
「アラタさん!」
今度は、明るい声が背中から飛んできた。
振り返ると、後ろ髪を軽やかに揺らしながら、ミーナが小走りで近づいてくる。
「さっき、セラフィナ様がいらした際に言ってましたよ。“これからが本番ですからね”って」
「……本番?」
「はい」
どこか楽しそうに、ミーナは笑う。
「アラタさん、これからもっと忙しくなりそうですね!」
ミーナの無邪気な笑顔を見て、僕は苦笑する。
(そうだよな)
会計士の仕事は、“危機を一度やり過ごすこと”じゃない。
数字で世界を“見える化”して、問題の根っこを見つけ出すことだ。
査察は通った。在庫は売れた。給料は払えた。
でも、このギルドの根本は何も変わっていない。
これまでやってきたのは“延命”だ。
ギルドを本当に立て直すには、もっと別の何かが要る。
窓の外、夕暮れのローレンツァの屋根が、橙色に染まっていた。
(……どこから手をつければいい)
ローレンツァ冒険者ギルドの“財政状態を見える化する物語”は、ひとつの区切りを迎えた。
だが同時に――。
もっと厄介で、もっと大きな“会計の物語”の幕が、静かに上がり始めていた。




