第1話 給金遅配の通知
「……え?」
ミーナの手が、ぴたりと止まった。
朝のローレンツァ冒険者ギルドは、いつも通り騒がしい。
受付カウンターには昨夜の討伐報告の残務。
書類とスタンプとインク壺が山のように積まれ、職員の声と冒険者の怒号が飛び交っていた。
依頼掲示板の前では新米冒険者たちが押し合いへし合いしている。
掲示板の上段――赤枠の新しい依頼書が一枚。
『ロックリザード討伐/金貨30/C級以上』
「へえ、30枚か。景気がいいな」
誰かが笑う。
――その金貨30枚。
遠征の出費を差し引いたら、手元に何枚残るんだろう?
僕――戸松新は、金額を見るたびについそう計算してしまう。
元の世界では監査法人の会計士だった。数字の裏を読むのが、体に染みついた癖だ。
「おいアラタ! 何ぼーっと突っ立ってやがる!」
背後から荒々しい声が飛ぶ。
「モップ掛けが終わったら、裏の木箱を倉庫に運んどけ!」
ギルドマスター、ロアン・バルガス。
大柄な体格に、傷だらけの顔。
元・一流冒険者らしい威圧感は健在で、初めて会ったときは正直、心臓に悪かった。
「すみません、すぐやります!」
僕は慌てて濡れたモップを動かした。
「まったく……剣も振れねえ、魔法も使えねえ。
お前ができるのは雑用くらいなんだから、手ぇ抜くんじゃねえぞ。
飯代くらいはちゃんと稼げ!」
周囲の冒険者たちが面白がって、見下したような目線でニヤつく。
――その空気を、ロアンがひと睨みで黙らせた。
「笑ってる暇があるなら依頼取ってこい! 口だけの奴から死ぬぞ」
いつも不愛想で、声はでかい。
けれど、行き場のなかった僕を「とりあえず雑用として」拾ってくれた人でもある。
(乱暴だけど……筋は通す人だ)
モップをバケツに突っ込んで、僕は受付カウンターへ近づいた。
「どうかしたの、ミーナさん?」
横から覗き込むと、ミーナはびくっと肩を揺らした。
慌てて笑おうとして、笑えていない。
肩までの栗色の髪を幅広のカチューシャでまとめた、小柄な受付嬢。
生成りのブラウスにえんじ色のエプロンドレスという家庭的な服装が、よく似合っている。
そして――今から一週間前、この世界に放り出された僕を、最初に助けてくれた命の恩人でもある。
路地裏で倒れていた僕に水をくれて、「大丈夫ですか」と笑ってくれた。
あれがなければ、僕は今ここにいない。
だからこそ。
僕は彼女の手の中の紙から目を離せなかった。
「ミーナさん、その紙……」
「えっと……はい。ロアンさんから、職員みんなに渡すようにって……」
彼女が震える指で握りしめていた羊皮紙。
乱暴な筆跡で短い通知が書かれていた。
『今月の給金の支払いは、来月十五日以降にまとめて行う。
理由:金庫が一時的に空っぽだから。以上。』
「えっ……」
給与の遅配。
元いた世界の感覚で言えば、それは「ちょっとした遅れ」ではない。
会社の――いや、組織の“血”が止まりかけているサインだ。
現金が足りない。
お金の出入りが、どこかでおかしくなっている。
それを「一時的だ」と片づけてしまうのが、一番危ない。
二度目の“一時的”が来た組織が、自力で立ち直ったところを――僕は、ほとんど見たことがない。
「ミーナさん、この前も遅れたって言ってたよね?」
「え? あ、はい……」
ミーナは困ったように笑って、カウンターの下で履き古したブーツのつま先を、こっそり隠すように足を引いた。
「昔は、ちゃんと月に一回きっちり払われてたんですけど……最近は、二、三ヶ月に一度くらい、こういうことがあって。
そのぶん、次の月にまとめて多めにくださるので……。その、まぁ、そういうものかなぁって」
その笑顔が、かえって痛かった。
“今までは大丈夫だった”から、今回も大丈夫。
元いた世界で会計士をしていた僕からすると、あまりにも聞きなれたフレーズだ。
そして、そのあとに続く言葉も知っている。
――「まさか、こんなことになるとは思わなかった」
* * *
「おい、そこで何こそこそやってる」
振り向くと、受付に戻ってきたロアンが、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「ろ、ロアンさん。これ、その……」
ミーナが慌てて羊皮紙を隠そうとして、かえってぐしゃぐしゃにしてしまう。
ロアンは大股で近づき、彼女の手から紙をひったくった。
「何もやましいことは書いちゃいねぇだろ。どうせそのうち皆の耳に入る」
そう言いながら、カウンターの上に紙をべしっと叩きつけた。
周りにいた受付の同僚たちが、びくっとそろって振り向く。
「今月の給料は、ちょっとだけ待ってもらう。金庫がスッカラカンだからな」
ロアンは悪びれもせずに言い放った。
場の空気が、一瞬で凍りつく。
「え、またですか……?」
「だ、大丈夫なんですか、ギルド……」
そのざわめきを、ロアンは手を振って押しとどめた。
「うるせぇな。心配すんな、もうじきでかい依頼の前金が入る」
「でも……」
「今は一時的にカネがねぇだけだ。
冒険者どもの前で変な噂を立てられたくなきゃ、職員がまずどっしり構えとけ!」
言い方は乱暴だけど、職員たちを落ち着かせようとしているのは分かる。
ミーナも、ぎゅっと拳を握って、無理に笑顔を作っていた。
僕は思わず一歩前に出た。
「ロアンさん。確認させてください」
ロアンが眉をひそめる。
「何だ」
「“でかい依頼の前金”は、確定ですか?」
一瞬、ロアンの目が泳いだ。
「……話は進んでる。大丈夫だ」
(大丈夫、じゃない)
ロアンは、ふんと鼻を鳴らした。
「数字のことばっか気にしてどうする?
商売なんてのはな、勢いと度胸と、最後は根性だ」
「はぁ……」
返す言葉が見つからず、曖昧な相槌が漏れる。
「ったく、朝っぱらから暗ぇ顔しやがって」
ぼやきながら、ロアンが踵を返して奥の執務室へ戻ろうとした――そのときだった。
「ろ、ロアンさん!」
伝令の職員が息を切らして飛び込んできた。
手には、赤い蝋で封をされた厚手の封筒。
「急ぎの文が……ギルド本部から届きました!」
「本部だと?」
ロアンの顔色が変わる。
「間違いないのか」
「はい。“ギルド本部査察局”からの文だと……」
査察。
この世界の言葉なのに、聞いた瞬間、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
どの世界でも、「上から来る連中が帳簿をひっくり返しに来る」って話は、ロクなもんじゃない。
金庫が空っぽのまま走り続けている冒険者ギルドに、査察が来る。
ロアンの指が、赤い蝋封にかかる。
――ぱきり、と乾いた音がした。
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