老婆の災難
突然現れた不審な男は自分を遍歴の騎士だと言ったが、名前はついに名乗らなかった。
怪しいにも程があるのだが、いわゆる中世的な世界においては、「遍歴の騎士」の肩書はカードゲームにおけるジョーカーのようなもので、これを出されてしまうとああそうですか遍歴ですか、と納得するほかはないのである。
なぜかというと、特に貴婦人たちが熱狂していた騎士物語の主人公がたいていこの遍歴の騎士だったからだ。
この物語の舞台であるなんちゃって中世にも、遍歴の騎士というのは実在した。
彼らが行ったさまざまな冒険譚は、吟遊詩人によって歌われ、広められた。
ただ問題は、この歌は事実に思いっきり盛った代物であった、ということだった。
旅する遍歴の騎士が、道端のヤブから出てきたヘビを踏んづけたら、吟遊詩人はそれを荘厳なドラゴン退治の話にまとめあげる。
農家で一夜の宿を借りた際、農夫の嫁さんにムラっときて過ちを犯してしまった、などということがあった場合、絶世の美人である貴婦人とのお涙ちょうだいな不倫恋愛悲劇が広められてしまうのである。
この場合、宿を貸した農夫はどこぞの国王となり、農夫の妻は愛のない結婚を強いられる隣国の姫となる。その姫を故国から送り届けてきた騎士が、姫とともに誤って愛の秘薬を飲んでしまい……とこんな感じだ。
ちなみに、吟遊詩人は針ほどの事実をドラゴン殺しぐらいにまで誇張してしまう生き物だ、とうことを公爵はある程度知っている。
なにしろ自分がやったちょっとした親切行為を類稀なる名君の恩寵、といったレベルまで盛られて歌われているのだから。
ただ、当事者であるがゆえに自分がやった善行をいささか過大評価する傾向があるため、公爵は吟遊詩人を「話をちょっとだけ盛る連中」だとしか思っていない。
せいぜいが、一を五ぐらいに誇張するとしか考えてないのだ。実際は一を二百五十六ぐらいにしてしまうにも関わらず。
ある程度人生経験を積んだ公爵ですらこうであるから、深層のご令嬢であった超箱入りの公女に至っては、吟遊詩人の歌はすべて真実だ、と信じ込んでいる。
というか、公女は基本的に、人間とは嘘をつく生き物だ、ということを学んでいない。
なので目前のどう考えても怪しい男が「遍歴の騎士だ」と名乗ったことを疑いもしないし、心の底から騎士らしい武勇と信仰と貴婦人に対する無限の愛を持った存在だと思いこんでしまったのだ。
それはともかく。
「姫、その倒れている老婆の周りをよくごらんください」
「何かあるのでしょうか」
素直な公女は老婆の身体の周りをじいっと見つめた。
「なにか……粘液の乾いたようなものがあちこちにこびりついておりますわ。よく見るとお婆さんの身体のあちこちにも」
「ええ。魔法生物『服だけ溶かすスライム』の成れの果てです」
「それに……お部屋のあちこちに空瓶が」
「それには『服だけ溶かす薬』が入っていたのでしょう」
「ということは、お婆さんはこれらのモンスターをけしかけられ、なおかつ薬を頭からかけられたとか?」
「その通りです公女殿下」
隣で聞いていた公爵は、「誰がなんでそんなまねをするのだろう」とごく真っ当な疑問を感じた。
よほどねじ曲がった性癖の持ち主でもなければ、わざわざそんなことをしようとは思わないだろう。
少なくとも公爵本人はついさっきまでそういう性癖の世界があるのだということを想像もしていなかった。
公爵自身は、「遍歴の騎士」よりは老婆との年齢差が少ないと思われたにもかかわらず、である。
「それほどまでに犯人はこのお婆さんの裸をごらんになりたかったのでしょうか?」
娘の言葉に公爵は息を飲んだ。
自分の想像が幻であって欲しい、と。
もしも枯れ木のような老婆の裸体に欲情する変態が実在するというのなら、わしは今夜それを夢に見てしまいそうだ。神よこれが夢幻冗談の類であるとおっしゃってください。
「いえ違います」
「では何が目的だったのでしょう」
公爵は娘の背後で安堵の息を吐いた。
「わたしはさる筋から、この老婆が『服だけ溶かすスライム』を養殖し、『服だけ溶かす薬』の大量生産を試みている、ということを聞いていました」
「まあ」
「ここに侵入した賊は、老婆の育てたスライムや薬を奪おうとしたのでしょう。そして老婆とつかみ合いになり、老婆は大量のスライムや薬を浴びてこのような姿になった」
「なんということ……」
「旦那旦那。そろそろ起きて服を着てもいいじゃろうか」
「えっ、お婆さんがいきなり話し始めましたわ。お亡くなりになったのではなかったのですね!」
公女は見知らぬ老婆の無事を知り、無邪気に喜ぶ。
一方、公爵は生きていたのかならさっさと起きて服を着ろ。できるだけ部屋の隅の方でな、と思っていた。