幕間:聖眼の聖女
「では聖女よ、務めを果たせ」
「はっ、仰せのままに」
よろしい――女神アザノヴァのご加護があらんことを。
数日前、皇国の頂点たる教皇が言ったその言葉は、異国の森の中を歩く聖女の脳内で繰り返し鳴り響いていた。
そよ風に揺れる木々のざわめきは、彼女の胸中と共鳴している。
「聖女様、何か感じ取れることは」
「……いえ、何も。この地に広がっていた審正龍様の波動はどこにもありません」
「残滓も、ですか?」
「それはあります。『いた形跡』とでも言うべき残滓は、あの方の住処の方角から伝わってきます。しかしそれも希薄です」
聖女を囲む四人の護衛のうち、年長の一人が口を開き、それに幼い少女――聖女が答えた。
この五人は皆フードを被っており、護衛は帯剣していることから剣士なのが分かる。彼らの年齢は様々ではあるが、皇国の中でも選りすぐりの実力者。Aランクの冒険者とも対等に渡り合える。
これほどの強者を幼い少女に付ける理由はただ一つ。
それは、聖女が皇国における「癒やしの象徴」であるから。
「……何か、強い魔力を感じたような」
聖女が小さく言葉を零した刹那——鼓膜に突き刺さるような大きな雷鳴が鳴り響いた。大地も全身も、それによって震える。
空は青く澄み渡っていて、雷が降る要素はどこにもない。つまりは、それが自然現象ではないという証明だった。
あまりの衝撃に、皆の足が自然と止まってしまう。
「い、いったい何が……!?」
「ふむ、これほど大きな規模の——恐らく第七位階はあるだろう魔術を使える人間がここにはいる、ということか」
若い男が焦ってキョロキョロと周囲を見回す。だが、年長の男は冷静に状況を分析していた。
「第七位階……我々より一つ上の世界か」
「誰かが魔物と戦っているのか?」
「いや、第七位階ともなれば魔族の可能性もある」
「それにしてはあの邪悪な気配を感じないが」
「確かに、魔力は一つしかないですね」
護衛は皆剣士ではあるが、魔術も使いこなす。
本職の魔術師と比べれば劣るかもしれないが、それでも第六位階まで使えるならば魔術だけでも大抵の相手は倒すことが出来る。
だが、魔力の探知は「聖眼」と呼ばれる異能を持つ聖女の方が得意。
その聖女が「一つしか反応がない」と言っている以上、この森には一人しかいないのは疑いようもない事実だった。
魔術の練習でもしているのか? と疑問が交錯し、思考が煮詰まってきた頃、突如風の刃が周囲に舞い始めた。
ヒュン、という風切り音がいくつも鳴り響き、木々に斬撃の跡が刻まれ、枝が折れ、落ちた葉が空中で細切れになる。
刃はきっと制御されたもの。
もしそれがこちらに襲いかかってくるとしたら——そんな思考が聖女の心に恐怖を刻んだ。
「姿を隠すとは不粋。そう思いませんか?」
刃が彼らの横を掠めた直後、そんな声が聞こえた。
若い少年の声。
きっとそれは、目の前に立つ黒髪の少年から発されたものなのだろう。
聖女は改めて魔力を探る。そして、先程感じた魔力は彼のものであると断定した。
「彼が、あの魔術を行使した本人です」
「なっ……!?」
あの若さで第七位階の魔術を使えるなど、前代未聞と言っていい。
数十年の訓練を経て第六位階に到達した彼らにとっては、十二分に驚くべき事だった。
一方、聖女は恐怖を感じていた。自分と同じくらいの年齢の子どもが、周りにいる大人よりも優れた魔術を扱える――興味を持たないはずがないのだ。
「暗部の調べによれば公爵家には第七位階魔術を使える者はいない。つまり、彼は公爵家の人間ではない」
「それなら安心ですね。では、決めた通りに」
「「了解」」
そう言って、聖女は結界を停止させ、姿を露わにする。
瞬間――少年の目に驚きが浮かんだ。
聖女はその目をよく知っていた。
自慢に思っている訳では無いが、彼女はその美しさをあらゆる人間に褒められてきた。お世辞のもあるだろう事は分かっている。だが、殆どの男は自分を見た途端に興奮した感情が浮かび上がるのだ。
この少年も、同じようなものに違いない。きっと数分後には茶会か何かに誘われるのだ。
「私たちは名もなき商人。魔物が出没する森のため、姿を隠させていただいておりました。ご無礼を深くお詫びさせて頂きたく思います」
冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。そこに焦りはない。結界を看破された場合の対処法については事前に決めてあるからだ。
「商人……ですか」
「えぇ。商人です」
穏やかな笑みを浮かべ、聖女は優しく答えた。
その裏で、次に返ってくる言葉を予想している。
――旅の疲れをうちで癒やしませんか?
――我が家の特産品を買っていかれませんか?
聖職者でない皇国の人間はそうだった。きっとこの国の人間もそうだ。
さて、どんなお誘いが来るのだろう――そう思った刹那、少年は確信を持って告げた。
「なぜ隣国の領地に貴女がいらっしゃるのか、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか——聖女様?」
「「「——ッ!?」」」
全く、意味が分からなかった。
予想していたどれでもなく、それどころか的確に正体を見抜いた。
なんとか頭を動かし、ようやく出来た言葉をすぐに投げかける。
「な、なぜ私が聖女様だと? 私はただの商人で——」
「隙ありじゃああ!」
刹那、目にも止まらぬ速度で何かが飛んできた。
それは少年へと襲いかかり、互いに木剣で鍔迫り合いを繰り広げている。その迫力は、精鋭の騎士たちにも劣らない。
一つ違和感を覚えるのは、その少女から神聖な気配がすること。それはまるで、自分たちが追い求めていた存在のような――
「ルコ! 危ないでしょう……!」
「お主がそんなのに構っておるのが悪い!」
迷惑そうな顔で少年が呟くと、白い少女は声を荒らげた。
そんな、ただの会話は、聖女に数え切れないほどの情報をもたらしてしまった。
ルコ……ホルコス。
咄嗟の閃きだったが、戯言と切って捨てることが出来るほどの否定材料はない。気づけば、全てがパズルのように組み合わさっていく。
数秒後、ついに完成した仮説の一欠片がつい口からこぼれ落ちる。
「ホルコス……さま……?」
「なっ!?」
「どこですか! どこに審正龍様が!?」
「せいじ……お嬢様! 答えてください!」
もはやこの場において冷静な者などいなかった。
聖女は混乱し、護衛は困惑している。二人の少年少女も戦いを繰り広げている。
少年が戦いの空白をなんとか作り、何かの魔術で逃げ出した。
そしてホルコスが大きな声で叫ぶ。
「逃げるなこの浮気者ぉ!」
「うわ、き……!?」
「あぁ聖女様お気を確かに!」
情報に情報を重ねられてしまっては、11歳の脳で処理は出来ない。信仰している相手が「浮気」と言うだなんて誰が予想できただろうか。
「!」
慌てふためく彼らの周囲に、大きな水の塊が十数個生成された。
込められた魔力の量は、明らかに美しいだけの魔術ではないことを示している。
聖女が呆然としていると、それを見かねたのか魔術師の少年がこちらへ戻ってきた。一度逃げたのに、わざわざ引き返してきて守るなど、果たしてどれほどの人間が同じ行いができるだろうか。
それは、彼が勇気に満ち溢れた勇敢な者であることの証左と言える。
「なぜこちらに!?」
「聖女様を傷つける訳にはいかないでしょう! 〈絶壁〉!」
目の前に、真っ黒な壁が一瞬にして出来上がる。
物々しく、触れようとは思えない雰囲気を放つそれは、五人ともが見たこともない魔術だった。
それに気を取られている間に、水泡は破裂していく。
壁には水飛沫がぶつかり、鈍い音で地面を揺らす。
「な、なんて威力だ……!」
「枢機卿閣下ですらこの魔力を平然と扱えないだろう! いったいあれは何なんだ!」
「聖女様! あの白い少女は魔の者でありましょうか!?」
「いや魔族以外だとしたら何だよ! 聖龍様だとでも言うつもりか!?」
護衛たちが言い争っている。
どうにかしなければという思いが聖女の中で渦巻き、大きく息を吸って必死に声を出した。
「すぅ——ホルコス様っ! どうか! お話をお聞きください!」
瞬間、喧騒の全てが止まり、静寂が支配した。
そこに一つ、威厳ある少女の声が響く。
「我が声が聞こえるか、聖道に連なる者よ」
黒い壁が消えると、空中に浮いた状態でその姿を露わにした。
見た目こそ違うが、紛れもなくその身に宿す力は審正龍ホルコスそのものであった。
「ホルコス様……!」
あぁ――やっと会えた!
そんな喜びと共に、すぐさま礼拝を始める。
信仰する存在が目の前にいるならば当然の行動だ。
「本当に……あの少女が……!?」
「いいから膝をつけっ!」
呆然と驚く一人が、年長の男に叱られた。それによって他の護衛たちも聖女に倣い、膝をついて俯き手を合わせる。
「聖女よ、我を探しに来たのであろう?」
「は、はい! 教皇猊下の命により、聖者の結界を用いてホルコス様の動向を調査していたのです」
隠すことでもないため、聖女は正直に告げた。
だが、その返答が問題だったのである。
「その件にいては何一つ問題はない。ただ、そこの少年——ノア・エレヴァトリスと身命の契約で結ばれただけじゃからの」
「……はぇ?」
「挨拶が遅れて申し訳ない。ご紹介に預かった通り、私はノア・エレヴァトリスという。以後お見知りおきを」
格好良く、紳士的にその少年、ノアは名を告げた。
邪な感情が一切ない無垢な瞳と姿は聖人と言うに相応しい。そう皆が感じていた。
「こ、こちらこそ挨拶が遅れて申し訳ございませんっ。ハシース皇国聖教会聖女、アトラ=ルミナティアと申します。この度はご無礼を……」
慌てて立ち上がり、青ざめた顔を隠すように深々とお辞儀をして聖女は言った。
その行動は当然のこと。
要するに、彼女は今、不法侵入した家の主に見つかっているのと同じ状況なのだから。
皇国側の「情報を拡散したくない」という思惑が、ここに来て裏目に出てしまっているというわけだ。
「いえ、私としては一切気にしていません。この事を誰かに言うつもりも全くない。それどころか、私は貴女と出会えた事を嬉しく思っていますよ」
「っ……!」
守ってくれて、優しい笑顔で「気にしてないよ」と言われ、その上「出会えて嬉しい」と来れば、恋愛経験ゼロの聖女は一発で恋に落ちる。
十数分前までの色眼鏡は、既に跡形もなく消え去っていた。
「そ、そのっ、いずれ必ずお礼をさせていただきたいのですが……大丈夫ですか?」
「もちろん。貴女のお誘いならば、是非」
「きゅう……」
貴女のお誘いなら――都合の良い脳は、「貴女が特別」と解釈をした。
いよいよ耐えきれなくなった聖女の身体はオーバーヒートし、そのままスリープモードへと落ちていく。
次に聖女が目を覚ましたのは、馬車の中だった。
「ノ、ノア様は……?」
「結果的に万事問題なく遂行できましたので、我々は現在本国へ帰投している最中でございます」
絶望だった。王子様から、刻一刻と離れていくなど、あってはならない。
「……うぅ」
奇妙な声を上げ、聖女はふて寝することを選択した。
夢の中で、王子様と再開することを夢見て。