前編
自室で、フラスコを見つめながら、扉の開いた音に意識を向けた。
「失礼する。灰被りの君」
律儀にも帽子を取り、胸に当てているシエルは、一瞥もくれないクリミナを気にした様子もなく、部屋に足を踏み入れる。
「偽りの君はどうであった?」
あの後、ドッペルとクリミナは、宣言通り、本来のイザベラが行うべき仕事をこなしていた。
つまりは、あいさつ回りである。
精霊樹が正常化したことで、瘴気は徐々に浄化され始め、世界が元に戻るのも時間の問題だと、説明して回るだけの行為。
「その言葉で安心する者もいるのだ。大切なことであろう」
「目の前の聖女が偽物だとも知らずに?」
「う゛~~む……」
目の前の聖女の言葉が、本当かどうかを、自分で確かめることもせず、ただ与えられる情報を鵜吞みにする。
「希望があるのならば、誰しもそれを信じたいものだ」
誰も、全てが偽物だと、絶望しか存在していないのだと、そう思いたくはない。
「それに、黄金の君が成そうとしていることだろう」
その言葉に、ようやくクリミナは、シエルへ目をやると、嬉しそうに頬を緩めたシエルがそこにいた。
「……光に集まった蛾は焼き殺されるか、群がったなら光を殺すだけだ」
「む゛……ならば、払えばいいだけ」
「その手は汚れるぞ」
「汚れが恐れるならば、最初から払うなどしないさ」
「う゛ーん……」
「ふふ……ご一緒しても?」
勝ち誇ったように、問いかけるシエルに、クリミナは小さくため息をつくと、近くにあった椅子へ腰を下ろした。
「いつもと同じものでいいかな?」
「あぁ。好きに使っていいよ」
慣れた手つきで、棚から茶葉を取り出し、紅茶を入れたシエルは、クリミナの前にも置くと、向かいの椅子に座る。
「それで、昼間の話についてだが」
「言った通りだ」
「うん……」
説明下手というより、説明をめんどくさがるのは、クリミナの悪い癖だ。
すっかりその癖にも慣れてしまっているシエルだが、今回ばかりは、それでは彼女の要望に応えることはできない。
「黄金の君が戻らないことは、妹君の件で聞いていたが、彼のことは聞いていない。手を貸すにも、どこまで踏み込んでいいものかわからなくては、光を掻き消しかねない」
はっきりと問いかければ、クリミナは、ミルクが渦巻く紅茶を口へ運んだ。
「ドッペルに関しては、私も想定外だ。アイツ、とんでもないものを拾いやがって……」
旅に出た後のことは、時々、教会から届く噂程度の情報しか届いていない。
それもこれも、教会が『巡礼中の聖女は手紙を出すことは禁ずる』というルールのせいだ。
何故そんなルールがあるかなど、想像に易い。
「死に向かう旅だからか?」
世間的に、聖女の巡礼は、瘴気に侵された精霊樹を清める儀式だ。
結果的に、多くの聖女が死亡する危険な儀式ではあるが、世界を救うその名誉に、決して泣き言など許されない。
だが、親しい相手に出す手紙くらいは、『死にたくない』と、泣き言を綴るかもしれない。
それすら、聖女には許されないというならば、少し同情してしまう。
「ハッ! 誰が蹲る奴のためにルールを作る。人がルールを作るのなんて、そいつが凶器を持ってる時だ」
いつもより、少し棘の強い言葉。
「精霊樹は瘴気に侵されて狂ったんじゃない。自分の意思で、人間を含む生物を全て殺して、リセットしようとしてるんだ。聖女は、それを説得して時間を稼ぐだけの使い捨ての存在」




