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皆んなグルになって、トラップを仕掛けていただけ

 1週間がたとうとしている。

 わたしは妻のたくらみに気づくも気づかぬもない顏で、綱渡りを続けている。あの日から、ひとことも顔におくびを出さずに、妻に(なら)って、呼ぶときはこユキと呼んでいる。

 綱渡りを続けているが、妻とは違って呼ばなければならないシチュエーションは極めて少ない。

 こユキがやってきたときだけ構ってやる添え物の身分だから、手の空いた時でもケージに向かって、しじゅう「こユキ、こユキ」と呼んでいる妻とは立場が違う。

 呼ばなければならないのは、妻の手が放せないときだ。

 こユキを、そこに向かわせるか、そこから離すか、必要かつ緊急に迫られたときだ。

 そこに向かわせるのは、じっと立ち止まり、ネコなのに世界情勢なんかの悩ましいことでも考えはじめる顔になったときだ。早くしないとフローリングにウンチの山が出来てしまう。そして、そこから離さななければならないのは、こユキが畳んでいない洗濯ものの近くでその顔になったときの、より緊急度が増したときだ。

 だから、緊急度のレベルがあがったときは、呼ぶどころのさわぎじゃない。ウムを言わせずに持ち上げて、開けっ放しになったケージ横のペットシーツを掛けた楕円ボックスへと一目散だ。

 本当に危ないときの確率は50パーセント。フローリングの危険は回避しても持ち上げたわたしの白Tがウンチまみれにならないように、折りたたんだティッシュは常にポケットに入れている。火曜日、すんでのところでそれで助けられたわたしに、妻は「用意がいいのね」と仕損じたスナイパーのように事務的に言った。

 「いざってとき、どうなるかわからないだろう」が喉まで出そうになったが、飲み込んだ。妻に見つかってはいけない隠し事が見つりそうになったときに使った手垢の匂いが付いた言葉なのを思い出した。

 あぶない、あぶない。こういうときに網を打つトラップは、そこいら(じゅう)に仕掛けられている。

 こユキを介したトラップの三日目は、なんとか凌いだようだった。


 1週間はゆうにたち、もう2週間を終える週末に差し掛かっていた。・・・・・あのひと、1週間のヨーロッパ旅行のはずが、またアイスランドで噴火でも起きて飛行機のチケットとれなくなったの。そんなすぐにニュースでばれちゃう口実じゃなくて、廻った先の何処か日本じゃだれも知らないような街で離れられなくなった事情でもつくったワケ・・・・

 なんで、ひとりっきりの妄想まで、口実とか事情とかのピンを立ててしまうんだろう。そんな、何かひとりじゃいられない、しっとりの体温が匂ってくるような・・・・。

 やっぱり、「こユキ、ずっとウチのネコにすることに決めたんだ」って、正面から尋ねるのがいちばんなんだろう。

 でも、どんなに間をつまんで言っても10秒ももたない短い声に、「ユキ」と「決めた」がくっつき過ぎている。渇いた口からわたしもまだ気づいていないが本当の何かが飛び出てきそう。そもそも、それって、わたしかが言う決め事じゃない。それこそ、妻のつくった正面のトラップに真っ向から乗り込んでいくだけじゃないか。

 こんなとき、いつもわたしはウジウジになる。だからって、のたって、ねじれて、得体のしれない体液でサナギでもつくってそこに終生引きこもるまでの覚悟はない。かけてた保険からポケットに仕舞(しま)えるような手短(てみじか)なものを見つけて、左右それぞれに収まるまで、見かけだけ羽化するフリしている毛虫からずーと抜け出せないままだ。


  アオムシが蝶々に変態するときって、しあわせなんだろうか。それともただ痛いだけなんだろうか。


 サナギの中で節も脚もなかったずんぐりむっくりの身体を溶かし、部品を再構築している時間を想像すると、痛さしか思い浮かばない。寒さばかりでなくお日様まで落ち込んでいく秋の日暮れ、これからの冬の時間を変態して捧げる元アオムシに心からあたまを下げたことがあった。(とし)とってからのことでない。若い時分の老境だ。いま、それを思い出す。

 なんでそんなことをしていたのだろうか、そんなことをいまだになんで覚えているのだろうか。

 いまは、聞かれれば、堂々と話せる、そんな気がする。


 ひと回りウジウジしてたら、こユキが「にゃー」とないた。周りに妻はいない。また便秘にかかったのだろうか。「入ってますよ」のトイレから漏れてる灯りがお籠りをしらせる。

 2倍広く作ったトイレには、トイレ以外の災害用品がすべて揃っているから、半日でも籠っていられる。今日は半日コースかもしれない。

 なんどもトイレでサナギになって羽化ばかりしている妻なら、毛虫が蝶々に変態するときが、しあわせなのか痛いだけなのか、分かっているんだろう。

  

 きっと、聞けば、すぐに「きっと、痛いんじゃない」と返してくれるだろう。でも、そのあと、「毛虫のことは分かんないよ、もしかしたら幸せなのかも」と付けてくるかもしれない。


 半日籠もり出てきた妻は、正面のトラップに掛かり汗腺(かんせん)のすべてを細い糸で釣るされているわたしに向かって、「1週間だけって、約束じゃなかったから」と返すんだろう。カーリーのふたりの姉妹や保護猫ネットワークの事務キョク、ネットや会場までつかった大掛かりなネコの譲渡会、それにネコのこユキと下着売場のユキさんまで、みんな妻に味方してわたしのアオムシを蝶々に羽化させるお手伝いをしてくれた面々(めんめん)は仕掛人のお面を被ってギャラリーのようにわたしを囲んでいる。


 こユキがやってきてから1週間ごとに積みあがっていくものが我が家のリアルだと信じて、わたしは平日の最後の夜の眠りにはいる。


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