昼は、デパートの下着売り場にいます
「ゆきってどこの女」
少しウトウトした記憶はある。それから間を挟まないように揺り起こされた。ニコニコしながら妻はもう一度、寝ぼけまなこのわたしにこれ以上ないくくらい顔を近づけて、繰り返した。「怒らないから本当のことを言って。ねぇ、ゆきってどこの女。どういう関係の女なの」
先に寝ていた妻を起こさないように、追い焚きしない残り湯だけで身体を洗って、髪が乾いたのを確かめ布団に入ったのは零時を回って1時近くだったと思う。「髪の毛乾かさずにお布団に入っちゃダメだよ。四十過ぎたんだから、すぐに禿げてきちゃうよ」の言いつけは守っている。土曜の夜は家と職場の往復をリセットするため、結婚当初から独り身の習慣を変えない習慣を妻には納得している、はずだった。
この土曜も、「わたし、下戸だから」と妻は今日の予定の店を並べようとするわたしの口を遮り、送り出してくれた。この習慣も10年になる。店は幾つか変わっていったけど、バーだけは就職したときのセンスのいい先輩連れて行ってもらったここだけと、変わっていない。本格派の重厚さでもカフェの賑やかでもない、それぞれから半歩離れたちょうどのさじ加減が、いくら腰を置いても時間の長さを感じさせない居心地の良さをキープして呉れる。
「いつも暇してるよ」が口癖のマスターも土曜の10時は無口になる。7席しかないカウンターをひとりで切りまわすのだ。お客のグチに付き合う暇はなくなる。つれあいがいる客はそのスイッチを感じないだろうが、ひとりでやってきたわたしのような客はバータイムに変わった証明の明かりのようにグラス越しのひとり客との距離が縮まっていく。顔を覚えたての相手なら時候のはなしから始まり、何度もの相手なら離れた対角線でも向こうの巻いた種を拾っていける。
わたしがゆきさんと居合わせたのは、その夜が3度目だった。
先にわたしが始めていて、彼女は30分ほどのちに階段を上がってきた。その時分には空いたカウンター席は予約札で埋まっていて、彼女は自然とわたしの横に座らざるを得なくなった。
「土曜の混んでる晩だって、この店が満席になるの、初めてじゃない」わたしは少し浮足立った硬くて高い声でマスターに話す素振りで彼女に話しかける。彼女はその輪の中に自分が入っているのを静かに感じて微笑み返し、マスターに飲み物とおつまみを一緒に注文した。いつものように甘いバーボン系のハイボールとプレーンのオムレツだ。
しばらく顔見なかったけど、忙しかった。ううん少し体調を崩したの、だからお酒飲むのは本当に久しぶり。じゅあ、薄めの多めにしておく。ありがとう。
わたしは話には入らず頬杖だけついて耳をダンボに大きく膨らます。左耳だけ膨らんでるダンボの耳に彼女が早く気づいてほしいと、何度も胸のうちで囁く。
あとから入ってきた予約客は、四十男と三十路前の連れ合いを覗き見しながらそれぞれの席に座っていく。背中から刺さるそうした視線は、彼女にも刺さっていると思うと、ウイスキーとは別のフレーバーが加わり、心地いい。
ゆきさんのバーボンは、薄くて多めから切り替えた3杯目だ。相手を務めなくなったマスターの代わりをいいことににわたしは半身まで傾けて、狭めた距離よりも高いトーンで相槌のように彼女の話を繰り返す。
「・・・・・それじゃ、この先のデパートの3階にいるんだ。でも、売り場が女性下着じゃ、昼間会いに行っても気が引けるなぁ」
「けっこう、いらっしゃいますよ。男性の一人客。恋人や奥様へのプレゼントって感じで、全然違和感なんてありませんから」
「でも、カミさんのサイズ、我が家ではトップシークレットだからなぁ」
「でも、長年連れ添っておいでなら、感覚だけで大丈夫。あまり失敗はありませんよ。わたし、83センチのCカップですけど、それと比べてどうです」
そう言って、言葉ばかりでなく、ゆきさんはぐっと胸を近づけてきた。わたしは彼女の言うままにそこを凝視する。少し多めのハイボールを飲み込んだの、気づかれてしまったカな。ゆきさんは昼間のデパートの3階と同様の滑らかな感じのまま営業トークモードを続ける。名前よりほか繋がりのない女性から胸のかたちを告げられ、見るように促され、わたしは年下の後輩のように黙ってただ見続けるだけで、そのあとの言葉を見つけられずにいた。
「・・・どうですか。わたし、いまの日本の三十代女性の標準サイズなんです。下着売り場に配属になったのもそのせいなんです」
一流デパートが、女性社員のサイズを人事のプロフィールに書かせるとは思わなかったが、男の一人客の目を自分の胸にとどまらすのには平坦な言いようだと思った。
「ゆきさんよりも少し小さいのかなぁ、・・・・・ジャマになるほど持ち合わていないんで、うちにいるときは付けてないことの方が多いんだ・・・・・身体つきは瘦せてる方だから、服のサイズは多分同じだと思うよ」
わたしは少し噓をついた。いや、飾りを脚色しただけ。やっと、ここは午下がりのデパートなんかでなく、夜の変わるのを待ちわびているバーのカウンターに相応しい返しが出てきた。
「それなら、Bでしょうか。Bの方でもCサイズをバランス良くカップリングされるとボリューム感がでるんですよ。今度は、お暇なときに3階まで立ち寄られてください。わたしのと同じものご用意しておきますから」
いまは格子柄のワンピースが邪魔して見えないゆきさんの下着姿が間に入ってくる。少し疼く感じがして、それを悟られないようにと話題を変える息継ぎに残りのハイボールを干して、同じものを注文する。
そのあと、お酒の強い彼女が常連にしているバーを2軒はしごして、千鳥足になったわたしを支えるような格好で何度か彼女の肩を貸してもらった。そのあと、お互いタクシーでさよならして、明後日の午後、お得意先廻りのついでといった風にデパートの3階にいったら、昼間の顔したゆきさんはエスカレーターからまっすぐ目がけてきたわたしに初めは気づかなかったが、「こんなに早く、本当に来てくれたの」のバーでの顏に戻って、すぐに見本を出してくれた。
ガラスケースの上に、正面からブラジャーが置かれた。薄いブルーの清涼感のあるもので、「折角だから」と、セットになったパンツもその横に置いてくれた。
「奥様、わたしと同じ服のサイズだとおっしゃってましたよね。きっと、このペアで大丈夫だと思います」
制服用の黒いスーツの下の襟のない白いブラウスに隠れた胸が、たんたんと言ってくる。平日の昼間のデパートはベテランの女性客しかいない。だから疼くことはなかったが、薄いブルーのペアは妻の裸ではなく、彼女の裸に投影する。
「それじゃ、それをセットでください」
「ありがとうございます。何かプレゼント用のメッセージカードをお付けしますか」
「いいえ、誕生日は半年以上も先なんで」と、わたしは噓をつく。
妻にはあげることのできない下着を買うなんてと、わたしは日常が戻ってきそうになるのを必死に抑える。
わたしの顏が遠のいたのを感じたのか、ゆきさんは殊更にそれを無視して、ハレのお買いもの感を弾ませる。
「・・・それと、上下セットのほかに、こういったご時世ですから、これっ、オマケなんですよ」
そう小さく笑って、ゆきさんは同じ色の同じ素材で作ったマスクを箱に忍ばせた。
「勝負下着を付けるとき、同じ布のマスクを付けるのが、一部女子で流行ってて、うちもおまけ用にメーカーに頼んだんです」
これってわたしのアイデアなんですけどと少しかがんだ小さな声は、バーでの右手に座ったわたしの左耳だけに入ってくる3杯目の顔をしている。今日はマスクで見えないけど隠れた口角はきっと綺麗に上がっているはず。今日のゆきさんのマスクは薄いピンク色。ツボミから咲き誇る前のソメイヨシノの並木のような、白よりも紅が先にたってくるピンク色。最後に、わたしはその色むらになって見える布の質感をとどめるように凝視する。
「支払いはカードでなく、現金で」
デパートをあとにすると、こうしたものを持ち続けて会社へ戻る勇気がないことが全面から押し寄せてくる。最寄り駅までの道すがら3回右往左往してみたが、やっぱりコンビニの燃える方のゴミ箱に入れた。
2万円を渡して、硬貨のほかに千円札が何枚か戻ったようだった。限りなく白に近いピンク色のマスクで隠れた口角まで透けて見えてきたんだ方、それで、もう十分な・・・・
買い物なのか、元が取れたのかの語尾は曖昧にしながら、わたしは地下鉄の階段を降りた。
「ゆきさん・・・・・・あー、いつものバーのお客さんだよ。あそこからすぐ先にデパートあるだろう。あそこの3階で女性下着売ってるって言ってた。だから、営業用にそこにいたお客さんたち皆んなとライン交換したんだよ。オレも、うちにもひとりお客さん候補ひとりいますよって、営業トーク返してさ」
寝起きの割には、噓のないとおりいっぺんの言い訳がすらすらと出てきた。小心者のわたしは齢を経るごとにやましい心が疼くとき、言い訳のかたちは確認しなくても毎月の保険のように足しあがっている。
次が出てこない妻を置いてきぼりに、大仰に「ほうら、気持ちのわるいおかしなカタマリ、取り除いてあげたでしょ」を背中に素早く書き早く眠りの中に逃げようとした。
が、妻は戻らない。横で体育座りを続けたままだ。きっと、作り笑顔の微笑みも、引きつってはいない。
「誰も、あなたのケイタイ覗いたなんて、言ってない・・・・」
二の矢が飛んでくる。10年一緒に寝起きをともにしてきたのだ。齢を経るごとに無意識に作れるようになった言い訳が無傷のまま放置されるわけではなかった。
「だって、初めてじゃないじゃん。おれのケイタイ調べたの」
しまった、と思った。いっきに距離を縮め腹を開けたのは、わたしの方だった。
「だったら、なんで、先週のわたしのお誕生日プレゼントがスニーカーだったの。・・・・・わたしだって、むかしみたいに、そうしたものを欲しがらないわけじゃ、ないじゃ、ない」
「そんなこと言ったって、行けるかよ。男一人で、女の下着売り場なんかに、そーしたこと出来るタイプでないの、お前が一番よくわかってるじゃないか」
とりあえず、足しあげた保険でない別のところから出てきた「お前が一番・・・」で、固く縮まったものが少し緩んだ、ようだ。言ってくれれば一緒に行ったっていいのに、でも無理してふたりしてそんな冒険しなくてもいいかと、妻は深夜2時ミーティングをだんだんとフェードアウトしていく感じになびいてくる。
妻も自分からケイタイのはなしを持ち出したてまえ、その話に帰ってくるのがどれだけ体力のいることか気づいたのだろう。意識的にそれには触れてこなかった。
その土曜日の晩は、それ以上のことは起こらなかった。それでも、それまでとは違う何かが進んでかたちづくられていく予兆を、お互いに、感じ取ってはいた。