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拳の魔法使い

作者: 松本志保

はじめまして!松本志保と申します。

このお話はわたしが書き続けているSSを繋ぎ合わせて書いたものです。うまくまとめられていない場所もあるかと思いますが、大目にみてやってください。

1.                      

「あ~あ。魔法が使えたらなあ……」

天津憂()()はため息をついてベッドにひっくり返った。突拍子もない発言だが、本人はそれなりに真剣だ。机の上には教科書やノートと並んで西洋こっくりさんであるウィジャボードやタロットカードが並び、本棚には占いや魔術に関する本がずらりと並んでいる。憂眞は本気で魔法使いを目指す女子高生なのだ。……とはいえ、どうやったら魔法使いになれるのかは全く分からなかったが。

 憂眞の母親はちょっと名の知れた占い師で、その腕前で憂眞を女手一つで育ててくれた。それを見て育った憂眞の憧れは、どんな問題でも魔法で解決できる魔女だった。小さい頃から、ほうきを片手に魔女ごっこをするのが好きなちょっと変わった子供だった。そして高校生になった今でも、黒いローブをまとって学校に行くちょっと変わった女子高生なのである。

 今までも魔法を使えたらと思ってた。でも、今はとても強く願っている。それは……。



「おはようございます~って、なんだ天津だけか」

「あ、おはよう」

 今朝、教室に一番乗りした憂眞が席でぼんやりしているとクラスメイトの辻くん──辻隼人くんが入ってきた。まだ早朝だというのにえらく疲れた顔をしている。

「どうしたの? 何かあったの?」

「何かあったもなにも……朝っぱらからあやうく誘拐されるとこだったぜ」

 物騒な単語に思わずまじまじと彼を見ると、あちこちにすり傷やかぎ裂きができている。格闘の跡だ。

「まさか……『おかえり』に?」

「ああ。車に押し込まれかけた」

「で、本人は?」

「その車ごとどっかに行った」

 なんて大胆な……。憂眞は開いた口が塞がらない。

「おはよう。あら、辻くんまた災難に遭ったの?」

 続いて憂眞の親友、月海柚(ゆう)()が入ってきた。さすが柔道の段位を持つ格闘家、一目で戦いの跡を見抜いたようだ。

「それがさ……げげ」

「おはようございま~す」

辻くんが愚痴ろうとしたその瞬間、問題の『おかえり』──丘絵里香が教室に登場した。いつ見てもすごい。いや、いつも黒いローブ姿で「あやしい」とみんなに言われている憂眞から見てもあやしい。

レースとリボンをふんだんに使ったピンクのワンピース、巨大なフリルつきリボンをあしらった縦ロールの髪。昔の少女マンガに出てくるお姫様のようないでたちをした『おかえり』は、背はいたって小柄、体重はいったいどのくらいあるんだろうか? おまんじゅうのような体型で、脂肪がつきすぎのせいでもとの顔立ちが分からない。相撲取りみたいな顔になっている。市内でも指折りの大病院の一人娘でちょっとしたお嬢様だが、そんなことは辻くんにはアピールしなかったらしい。

「隼人くんってば、ひどいじゃな~い。せっかく一緒に登校しようと思ったのにぃ~」

「あれは誘拐だろっ!!」

 辻くんは半泣きの声で抗議する。事情を悟ったらしい柚衣が怖い声で、

「あんたまたやったの絵里香。今度やったら脳天から教室の床に叩きつけるって言ったわよねえ!?」

と凄んだ。柚衣の得意技はジャーマンスープレックスだ。相手が重量級のまんじゅう女でも、柚衣なら簡単に投げ飛ばすだろう。辻くんが憂眞の袖を引いて、

「今のうちにどこかへ避難しないか?」

と囁いた。一人では心細いようなので同行することにした。敵前逃亡はちょっと格好悪いけど、辻くんは至って標準の体格だし、普通の文系男子には『おかえり』に格闘で勝てるはずがない。


とりあえず、簡単には見つからないように人気のない特別教室の階まで移動して、美術室に腰掛けた。情勢が変われば柚衣が連絡してくるはず。途中の自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら一息つく。

「まったく、『おかえり』の奴しつこいにも程があるぜ。俺よりいい男なんていくらでもいるだろうに」

 辻くんはホット缶のコーヒーをふうふう吹きながら文句を言った。だけど、と憂眞は思う。すごい美形とはいかないまでもそれなりに整った顔立ちだと思うし、むしろこのさばさばして人を見かけで判断しない人柄が好かれたんじゃないかなと思う。

あたしだって、見た目のあやしさでは『おかえり』のことをとやかく言えない。いつもこの黒いフードつきローブを着ているのは、主に魔女を目指す志のためなんだけど……みんなが距離を置いて付き合うこの風体でも、辻くんは初めから何の偏見もなく接してくれた。もちろん『おかえり』にも最初はそうだった。そりゃ好かれて当然でしょ。

 憂眞はウィジャボードを取り出してテーブルの上に置いた。いわゆるコックリさんだが、専用の木製ボードを作ってあるし、指し示すのも十円玉ではなく特別に鋳造してもらったコインだ。憂眞専用の占い道具。これには協力者もいらない。憂眞一人いれば占いが成立するのだ。とりあえず、今日これからの辻くんの運勢を訊ねてみる。

「うわ……」

 思わず呻く。今日の占いが出してきた答えは強烈だった。

「ウィジャ様、なんだって?」

 このウィジャボードに何度も助けられている辻くんは心配そうに覗き込んできた。ストレートに回答を読み上げるのはこちらが困ってしまうので、憂眞はとりあえず婉曲に答える。

「えーと……『おかえり』が辻くんの貞操を狙っている、んだそうよ」

「嘘だろ……」

「……だといいんだけど」

 あの『おかえり』にのしかかられたら、大抵の男はまず抵抗できなそうな気がする……。それ以後の行為ができるかどうかはともかく、既成事実と言い張られてしまったら困るはずだ。回避策は、とウィジャボードに尋ねると、

「方違え」

 えらく古風な言い回しが出てきた。憂眞のウィジャボードに現れるのはいつも同じメッセンジャーなのだが、陰陽道にも詳しいのだろうか?個人的なことは聞いたことがないから分からない。

「どこかへ隠れているのがいいみたいよ。『方違え』って言ってる」

「どこかへ隠れるかぁ」

 そこへ、柚衣からメールが入った。

〈『おかえり』撃退。もう戻ってきていいわよ〉

「ちょうどいいわ。柚衣にも相談してみましょう」

「そうだな。三人寄れば、って言うもんな」

 二人は片付けて教室へ戻ることにした。


 教室に戻ってみると、乱闘の跡は格別なかった。『おかえり』の姿はなく、代わりに不動琴乃と早川瞬の姿が増えていた。どうやらこの二人の加勢で『おかえり』を追い返したらしい。もちろん、『おかえり』もクラスメイトなので一時しのぎにしかならないのだが。

「辻、おまえもつくづく災難だな」

「早川ほどじゃないけどな」

 早川くんもちょっとうるさい女の子に追っかけまわされている口だ。早川くんと辻くんはお互いに慰めているのか同情しあっているのかわからない会話を交わしている。琴乃もつくづくうんざりしたという顔で、

「まったく、あんたたちは問題だらけね。で、憂眞ちゃん、今日の占いはどう出たの?」

「はあ、それが……」

 さすがに答えに詰まる。と、辻くんが自発的に答えてくれた。

「俺の貞操が狙われているそうだ」

 琴乃は飲みかけていたお茶にむせて咳き込み、早川くんと柚衣はまじまじと辻くんを見た。『おかえり』に辻くんが組み伏せられている光景でも想像しているんだろうか。

「それは……なんとか避けられないのかよ」

「ウィジャ様は『方違え』って言ってるんだけどね」

 辻くんが憂鬱そうに言った。

「それはつまり……」

 やっと落ち着いた琴乃が言った。

「辻くんちで待ち伏せしてるって可能性が大きいわね」

 確かに。方違えって自宅から離れて災いを避けるものだもの。

「俺んち安アパートだし、簡単に入られてそうだな……だけど、どこへ逃げたらいいんだ?」

 辻くんは不安と焦りで顔色が悪い。みんな、いっせいにうーんと考え込んだ。隠れている先が『おかえり』の予想範囲なら再襲撃を受けてしまうかもしれないし、誰か守ってくれそうな人がいなくては逃げるのもままならない。

「うちで引き受けてもいいけど」

 柚衣がそう言い出してくれた。柚衣のところはお祖父さんとお父さんが柔道家だし、叔父さんや従妹にも武道の心得があると聞いている。もっとも、同級生の男の子が逃げ込む先としてはちょっと格好悪いけれど。

「助かる、月海。ありがと」

 本気で怯えているらしく、辻くんが手を合わせた。いったん辻くんの家まで早川くんが着替えを取りに付き添っていくと出て行った後、柚衣はくすっと笑ってあたしに言った。

「とにかく、貞操の危機っていうんじゃしょうがないよね。私がしっかり守っておくから安心して」

「な、なんであたしが!?」

 焦ってとぼけてみせたものの、憂眞が辻くんに好意を持っていることなど親友の柚衣にはとっくにお見通しの筈だった。


 そんなわけで、今頃辻くんは柚衣の家に厄介になっているはずだ。『おかえり』が察知しても、あそこなら守ってもらえる。……とりあえず今夜のところは。でも、明日は? 明後日は? そう考えると、憂眞はいてもたってもいられなくなる。

 あたしが魔法使いだったら。『おかえり』に辻くんが二度と狙われなくなる魔法があったら。

「魔法使いに、なりたい……」

 憂眞が声に出して呟いた時。

 どーん!!

 突然、耳元で轟音がして憂眞は飛び起きた。なにか、車かバイクが壁を突き破って部屋に飛び込んできたと思ったのだ。ところが、壁にも窓にも何の異常もなかった。

 さっきまでと違っているのはただ一つ、ベッドの枕元に一匹の猫が座っていることだった。

 その猫は、憂眞がこれまで見た中で一番ぶさいくな猫だった。全身は白く、顔の真ん中に六芒星そっくりの黒い模様がある。大きさからするとまだ子猫のようだった。いつの間にこんな猫が紛れ込んだんだろう? それにさっきのものすごい音は? 憂眞が怪訝な顔をして猫を見ていると、猫が口を開いた。

「君、魔法使いになりたいんだよね?」

「え?」

 猫が口をきいた、ということ自体にはそれほど驚いていなかった。というより、猫の言った言葉の方に驚いていて口をきいた事実に驚いている暇がなかったと言うほうが正しい。猫は枕の上にちょんと乗って、くり返した。

「だから。魔法使いになりたいって言ったよね?」

「言った。魔法使いにしてくれるの?」

「そうだよ。だから僕はここに来たんだ」

 猫はえっへんと胸を張った。

「僕はタミール。魔法使いの使い魔として修行してたんだけど、ご主人が死んじゃってさ。新しいご主人になってくれる人を探してたんだ。でも、魔法使いなんて信じてくれる人がなかなかいなくって話を聞いてもらえなくて……。ご主人になってくれるんなら、僕の力で魔法使いにしてあげるよ」

 憂眞は疑わしそうにタミールを眺めた。どこから見てもぱっとしないぶさいくな子猫だ。人の言葉をしゃべることを除けば。

「ご主人を死なせちゃうような使い魔で大丈夫なの? それに、契約の条件とか何か、面倒なことがあるんじゃない? 魂を売れとか」

「やだなあ、僕はそんな物騒な使い魔じゃないよ。前のご主人が死んだのは魔法の実験に失敗したからだしさ。契約の条件はたった一つ」

「やっぱりあるんじゃないの、条件が。何なのよ?」

 タミールはこほんと咳払いをした。

「こういうの、お決まりだよね? 『魔法使いであることを知られてはいけない』だよ」

「……もし知られたら?」

「魔法使いとしての契約はそこで終了。君は魔法使いじゃなくなるし、僕は君の前から去る。それだけだよ」

 話がうますぎる、と憂眞は思った。こんな簡単でおいしい話に乗らない人間なんていないはずだ。なのに、どうしてあたしのところに来たんだろう?

「疑ってるね? じゃあ説明しておくけど、僕はまだそんなに強い使い魔じゃないからすごい魔法使いにはしてあげられないよ。たとえば、お弁当を作ることはできるけど本格的なパーティーのご馳走を出すことはできない、って感じかな」

「なるほどね……見習い級か。それなら納得できるかな」

 タミールは憂眞が乗り気になったのを見て、いそいそと前足で憂眞の右手をつかんだ。

「じゃあ、契約しちゃおう。別に君の損になるようなことは何もないんだしさ」

「嫌になったらいつでもやめられるんでしょうね?」

 憂眞の疑わしそうな声に、タミールはこくこくうなずいた。

「もちろんだよ。とりあえずお試しサービス期間ってことでいいからさ。憂眞ちゃんだったよね? じゃあ、契約するよ」

 タミールは前足でぽんと憂眞の右手を叩いた。そこに、タミールの顔の模様と同じ星の形をした小さな痣が浮かび上がった。

「これで契約完了! 魔法の呪文とかステッキとかは要らないし、変身する必要もないから。難しいことはできないんだけど……今やりたいこと、考えてみて」

 今やりたいこと……辻くん、どうしているんだろう? 無事なんだろうか? 様子が知りたい。

「考えた」

「じゃあ、それを言葉にして思い浮かべて」

 思い浮かべる。辻くんが今どうしているのか、知りたい。

「契約の印がついた手で思いっきりその辺を殴りつけて」

「なんですってー!?」

 格好悪い魔法使い……グーで壁を殴って魔法を使うの?

 でも仕方がない。本当に魔法が使えるようになったのか、確かめるにはそうするしかないから。

「えいっ!」

 憂眞は右手を拳に握って、部屋の壁を殴りつけた。ごん、という音と共に殴った壁がテレビのように映像を映し出した。そこは何度も遊びにいったことのある月海家の一室で、辻くんは柚衣の父と叔父にはさまれてぐっすり眠っているようだった。枕元には竹刀が置かれ、廊下の明かりは点いたままだ。十分な警戒をしてもらっているようだな、と思っているうちに映像は消え、壁はもとに戻った。

「どう、憂眞ちゃん。ちゃんと魔法使えたでしょ?」

「ほんとだ。使えた……ちょっと格好悪いけど、まあそれは我慢するわ」

「憂眞ちゃんがもっと強い魔法使いになったら、変身してひらひらのドレスにマジカルステッキ使うとか、なんでも好きなスタイルで魔法が使えるようになるから。しばらくは修行だと思って我慢して」

 本物の魔法使いになれたんだもん。魔法をかけるときのスタイルが少々間抜けだからって贅沢は言えない。頑張って、ずっと叶えたかった願いを叶えよう。

 辻くんを『おかえり』の魔の手から救い出すこと。そして、辻くんにこの想いを伝えること。



 魔法使いになったとはいえ、憂眞の生活が激変したわけではなかった。

 まず、『おかえり』に辻くんをあきらめさせることはまだできないことがわかった。一度試してみて効果がなく、タミールに『今の力であの女の子にあきらめさせるのは無理』と言われてしまったのだ。どうすれば力を強くできるのかと訊ねると、問題を解決したり人助けをすればいいとしごく真っ当な答えが返ってきた。

 次に、辻くんに気持ちを伝えるにはどうすればいいかだが、憂眞は賢明にもタミールに訊ねてみた。好きな人に気持ちを伝えたい、と願ったらどうなるのかと。タミールは当然という顔で、

「相手の頭の中に、憂眞ちゃんの声で『好きです!!』って聞こえると思うよ」

「……やる前に聞いてよかったわ」

 それなら自分で直接告白したほうがまだましだ。

 そんなわけで、これまでの生活と大きな違いもなく、せいぜい魔法で毎日おいしいお弁当を作る程度のことしかしていないのだった。


2.

 今日はプール開きとあって、みんなそわそわしている。いつもの退屈な体育の授業と違って水泳は楽しいからだ。男子と女子はプールが違うがフェンス一枚隔てた隣り合わせなので、意中の相手がいる女子は髪留めや髪型を選ぶのに夢中だ。憂眞の髪はなんの変哲もないボブなので、ただ水泳用キャップに押し込むだけのつもりだった。辻くんが、黒いローブを着ていない憂眞を遠目で識別できるとも思えない。というより、ほとんどの生徒が憂眞をローブ姿で識別している気がする。もしこのローブを脱いでしまったら、誰なのか分からない人の方が多いのではないかと思った。

 体育の時間になり、更衣室は大変なにぎやかさだった。私服であるこの白雲高校でも水着は紺か黒という規定があり、さほど華やかではない。それでも若い女の子たちが水着に着替えれば、服を着ている時にはないはじけるような生命力が感じられる。そんな中でも、やはり『おかえり』は異色だった。どこで探してきたのか、テントのような巨大な水着を着ている。派手な縦ロールの髪は結い上げてまとめている。早々とプールサイドに出て、フェンスで仕切られた男子側のプールに秋波を送っていた。

 憂眞がプールに出てきた時には、大半の生徒がプールサイドで足を水に浸したり、準備体操をしたりしていた。フェンスの向こうの男子には辻くんも混じっているはずだが、人数が多いのでどこにいるのか分からない。これでは向こうからも誰が誰だか分からないだろうな、と憂眞は思った。早川くんに片思いをしているという鳳安寿も精一杯凝った髪型でフェンスの傍を行き来しているけれど、早川くんの目には留まらないだろうと思う。……『おかえり』だけは目立つからみんなに見えるだろうけど。

 先生が出てきて全体で準備運動をした後、ようやくプールに入ることができた。初めてのプールの水はひやっと冷たく心地いい。泳ぎの得意な憂眞はしばらく水泳に没頭した。しばらく泳いで、少しだるくなってきたのでプールサイドに上がる。その頃には、ほとんどの女子が唇を青くしてプールサイドで身体を休めていた。

「ちょっと、あれ変じゃない?」

 いつの間にかすぐ傍にいた琴乃が指をさす方を見ると、小柄な女の子がばちゃばちゃやっている。よく見ると、表情が必死だ。

「溺れてるのかも」

 柚衣が立ち上がり素早く飛び込んだ。女の子に手を貸して引っ張りあげようとしたが、うまくいかないようだ。柚衣の表情も深刻に変わっている。こちらに向かって叫んだ。

「彼女、排水口に足を取られてるの!」

 それを聞くなり、琴乃が先生を呼びに走った。その間にも、小柄な女の子は何度も身体が沈み、そのたびに水を飲んでいるようでみるみるうちに弱っていく。先生を呼んだりしている間に、彼女は本当に溺れてしまうかもしれない。憂眞は、周りから見えないように身をかがめて拳を作った。

(あの女の子を排水口から助け出して!)

 ごん!

 プールサイドのコンクリートを殴りつける。

 次の瞬間。プールから水がすっかり消えた。

 溺れかけていた女の子と柚衣は呆然として空っぽのプールの真ん中に立っていた。水がなくなったので、排水口に足が吸い込まれることもなくなったのだ。もちろん、水がなくなった以上もう泳ぐこともできなくなったわけだが……。

 まったく、融通のきかない魔法なんだから!

 憂眞は内心魔法とタミールを罵ったが、女の子が助かったのだからとりあえず願いは叶ったと言っていいのだろう。

「一体どうなってるのかしらね、これ」

 当惑した表情を浮かべた柚衣が女の子を連れて戻ってきた。よく見ると、その小柄で可憐な女の子は早川くんがひそかに想いを寄せている七瀬いつかだった。早川くんは告白する勇気が出ないわりに七瀬さんにちょっかいをかけるから、七瀬さんが余計に鳳安寿に意地悪をされることになるのに……と、憂眞は前々から彼女に同情していたのだった。

「なんだか分からないけど、わたしは助かりました。奇跡みたい」

 七瀬さんは愛らしくにっこり笑った。その笑顔を見て、ちょっと早川くんの気持ちが分からないでもないと思う。

 そこへ先生と琴乃、それからなぜか早川くんまで走ってきた。

「七瀬、大丈夫か!」

 早川くんはプールの水が消えた怪奇現象なんてどうでもいいらしい。七瀬さんの手を取って無事を確かめている。視界の端で、鳳安寿がすごい目で二人をにらんでいるのが見えた。先生はすっかり水がなくなってしまったプールを呆然と見ながら、そのあたりにいる生徒たちに何が起こったのかを尋ねて回っていた。


 プールのミステリー話でもちきりのまま一日が終わり、家に帰ってくるとタミールが玄関まで出迎えた。

「今日はお手柄だったね、憂眞ちゃん。少し魔法使いとして成長したよ」

「今日のって、プールのあれ? あんなので成長できるの?」

 間抜けな上に、もう一度水を張るまでプールが使えないと聞いて内心しょんぼりしていたのに。タミールは嬉しそうにヒゲをぴんとはねあげた。

「人の命を救ったんだよ。プールの水なんてまた入れればいいだけじゃないか。これで、今までにはできなかったこともできるようになるね」

「『おかえり』をなんとかするとか?」

「それは……まだまだ無理。お弁当じゃなくておいしい夕食が魔法で作れる、ってぐらいかなあ」

 それでも、言われてみれば七瀬さんの命を救うことができたんだ。魔法使いになってはじめて、立派な人助けができたと思うと嬉しくなった。


3.

 他の普通の高校と違って、この白雲高校では修学旅行がない。その代わり、二年生の夏休みに登山キャンプをする。憂眞は運よく辻くんと同じグループになった。残るメンバーは早川くん、柚衣、琴乃といういつも通りの顔ぶれである。早川くんは七瀬さんと同じグループでないことにがっかりしていたようだが、『おかえり』と違う班になったことで幸せいっぱいの辻くんに、

「鳳と同じグループだったかもしれないんだぞ」

と諭されていた。実際、七瀬さんも早川くんと同じ班になっていたら鳳安寿からどんな嫌がらせを受けるか分からない。彼女も『おかえり』とは別の意味で相当やっかいな性格のようだ。

 キャンプ初日はベースになる6合目まで登ることになっていた。男子はテントを分担させられて悲鳴を上げていたが、女子も食料や鍋を持っているので楽ではない。そもそも白雲高校は進学校で、あまり身体を鍛えている生徒はいないのだ。その中で、米やじゃがいもをかついで颯爽と登っていく柚衣は人目を引いていた。

「月海が男子だったら、俺たち楽ができたのになあ」

 辻くんが情けない声を上げて、背中のテント部品をずり上げた。もうずいぶん前から、その辺りで拾った木の枝を杖にして歩いている。可哀想だしなんとかしてあげたいけど、魔法に頼るとどんなとんでもない結果になるか分からないし、これは人助けとは呼べないだろうと思う。

 早川くんは辻くんよりはずいぶん体力があるらしく、さほど辛そうでもない。辻くんを励ましながら登っている。憂眞と琴乃は、柚衣のおかげであまり荷物もなくただ登るだけだった。そうは言っても、憂眞も身体を鍛えているとはお世辞にも言えないので、息は切れるし汗は流れるし、正直言ってかなり辛かった。好きな人に見せたい格好でもないが、その相手は自分よりもっと憔悴しているのでまじまじ見られる心配はなさそうだった。もちろん、この日ばかりは黒いローブも諦めトレーニングウェアである。この格好で、朝会った辻くんに、

「天津、今日はローブなしなんだな」

と言われた時は素直に感動してしまった。ローブがなくてもちゃんと自分を見分けてもらえるんだと分かったからだ。そんなことに感動してしまう自分が、ちょっとかわいそうになったけれど。

 ようやく6合目に到着し、それぞれのグループがまずはテント張りにかかる。憂眞たちのグループは早川くんと柚衣がキャンプの経験者だったので簡単に二張りのテントを張り終えることができた。それから夕食の準備にかかる。こういう場合のお約束でカレーライスだが、ご飯を炊くのもカレーを作るのも炭なので火加減が難しい。最近は一人で夕食を作る時はいつも魔法に頼っている憂眞にはひどく面倒に思えたけれど、これもキャンプの楽しみなのだろう。野菜を剥き、切り、水加減をして火にかける。見回すと他のグループもほとんどがカレーのようだった。

 朝からずっとろくに休む暇もなかった一日のはじめての休息が食事の時間だ。カレーは少し野菜が硬かったし、ごはんも芯が残っていたけれど、自分たちで作った夕ごはんはおいしかった。食後にりんごを食べながら、一日の疲れがどっと押し寄せてくるのを感じる。

電気やガスを使った生活は、ある意味魔法を使っているのと同じなのかもしれない。とても便利で、手軽で、それがあるのが当たり前になってしまっている。だから、なくなると思っていた以上に不便さが身にしみる。……自分の魔法はそんなに便利じゃないけど、と憂眞はつけたした。


 翌日は頂上を目指す登山になる。テントや鍋は残して行くから、荷物の面ではぐっと軽くなる。それでも道ははるかに険しくなり、傾斜もきつくなってくる。憂眞は最初はグループの五人で登っていたのだが、体力で勝る早川くんと柚衣が先行し、そのうち琴乃にも置いていかれて辻くんと二人になってしまった。柚衣と琴乃に関して言えば、辻くんと二人きりになれるように気を遣ってくれたのではないかと思う。辻くんはあまり運動が得意ではないので、憂眞がそれほどきつくないペースでもかなり苦しそうな息づかいだった。

「大丈夫、辻くん?少し休んでいく?」

 心配になって訊ねると、

「いや、まだ大丈夫……それに、俺たちほとんど最後尾だから。あまり遅れるとみんなが心配する」

と、遅れがちな足を懸命に進ませた。景色はもちろん、憂眞など目に入っていそうもない。憂眞は、辻くんが無理にペースを上げないよう努めてゆっくり登っていった。

 そうして、ようやく頂上に着いたのは午後一時に近くなっていた。早いグループは昼食を済ませて記念撮影をしたり景色を眺めたりしている。この付近では一番高い山なので、見晴らしは最高だった。

 人数を確認していた先生が、憂眞と辻くんを見つけて名簿にチェックをした。

「おまえたち、丘を見なかったか? あいつがまだなんだ」

「丘さんだけですか?」

「そうだ。あれだけ目立つから、見落としたはずもないし……」

 先生は頂上に群れている生徒を見回しながら眉をひそめた。

「『おかえり』は山登りに向いてるとは思えないもんね。途中でリタイアしてるんじゃないかな?」

「最後尾に先生がついてるはずだから、どこかで拾ってくるんじゃないか?」

 そんな会話を交わしながら、二人はすっかり遅れた昼ごはんのおにぎりを開いた。

 食事を終わり、グループの仲間を見つけ出した頃になっても動きはなかった。いや、先生たちが集まってなにやら話し合い、また散っていく。なにか不測の事態が起こったと思われる動きだった。

「何かあったんですか?」

 通りかかった知り合いの世界史の先生に訊ねると、

「4組の丘さんが行方不明だそうなんだよ」

という答えが返ってきた。憂眞は辻くんと顔を見合わせた。

「あれから、まだ見つかってないんだ……」

「『おかえり』に限って危険な目になんか遭わないと思うけどな」

 早川くんがつぶやく。柚衣と琴乃もうなずいた。辻くんは首を振った。

「そんなの分からないよ。俺、『おかえり』は好きじゃないけど、こんなところで遭難したらやっぱり可哀想だし、そんなことにはなってほしくないな」

 憂眞はひそかに感動した。それでこそ、あたしが好きになった辻くんだ。誰にでも本当に優しい。

 憂眞はみんなに背を向け、そっと念じる。

(『おかえり』を無事みんなのところに連れ戻して!)

 そして、地面を殴った。

 どーん!!

 派手な土煙が上がり、憂眞たちの背後に『おかえり』が落ちてきた。ころころの身体を真っ赤なトレーニングウェアで包んでいるが、それも土に汚れている。顔も涙と汗と土でまだら模様だ。

「丘! どこにいたんだ!」

 先生たちが駆け寄ってくる。

「せんせぃ……あたし……道をはずれて落ちちゃったんです……すごく痛かったんです……」

「今、どこから落ちてきたんだ?」

「わ、分かりません……うう……」

 『おかえり』はどこかで登山道から落ちてしまったみたいだ。崖下で泣いているところを憂眞の魔法が拾い上げたのだろう。放っておけば本当に遭難してしまったかもしれないのだから、相変わらず空気の読めない魔法とはいえ結果はこれでよかったんだろう。

「『おかえり』、どこから降ってきたんだ?」

 早川くんが地面についた落下痕とその上の宙を見ながら怪訝そうに言った。

「頂上より高いところなんてないよな。空から降ってくるはずないし」

 辻くんも宙を眺める。と、いきなりその背後から『おかえり』が駆け寄ってきた。

「隼人く~ん! 絵里香、こわかったぁ~」

「うわっ! 抱きつくな! 離せ! 恐いのはおまえだ!」

 抱きつこうとする『おかえり』を邪険に振り払おうとする辻くん、『おかえり』を撃退しようと近づく柚衣。その騒動の中で、なぜ『おかえり』が空から降ってきたのかという謎はひとまず忘れ去られた。けれど、いつか誰かが疑問に思うんじゃないか……と憂眞は不安に思う。それをすぐさま自分と結びつけることはなくても、普通でないことが起こっていると気づかれればそれは危険なきっかけになる。

 だけど……今日は仕方なかった。他に方法もなかった。『おかえり』を見捨てたりしたら、あたしは自分が許せなかった。

 憂眞はため息をついて、手の甲に浮かんだ星の痣を眺めた。


「おかえり憂眞ちゃん、今日は偉かったね~!」

 キャンプを無事終えて疲労困憊した憂眞が家に帰ると、タミールがご機嫌で出迎えた。

「『おかえり』を助けたこと?」

「そうだよ。仲のよくない相手でも危険に陥っていたら助けるなんて、立派だよ。また少し魔法使いとして成長したね」

 こういうことが魔法使いとしての成長になるんだな。人の危機を助けること、困っている人を救うこと。当たり前だけど難しいこと。

「それで、今度は夕食から何にランクアップするの?」

「うーん。夕食が今までより豪華になる、くらいかなあ……」


4.

 秋になり、学園祭の季節が訪れた。

 憂眞たち四組は縁日の模擬店をすることになっていた。金魚すくい、ヨーヨー釣り、りんごあめ、わたあめ、焼きそばといった定番の店だ。こういうことには神社である琴乃の家が顔がきく。設備一式をどこからか借りてきてくれた。

 憂眞はわたあめの係になった。わたあめの機械の使い方も練習し、なんとかさまになるわたあめが作れるようになった。衣装は雰囲気を出すためにみんな浴衣ということで、今回も黒のローブは封印ということになった。近所の子供も来るのだから、物騒な格好をして泣かせるわけにもいかない。

「今回はかわいくしてあげるわよ」

 柚衣が嬉しそうに言った。登山の時はみんな可愛くないトレーニングウェアだったのと、肝心の辻くんがすっかり疲労していて、周囲の景色もローブなしの憂眞も見る余裕がなかったかららしい。白地に赤と紺で金魚を描いた浴衣に、ボブの黒髪にも可愛い髪かざりをつけてくれた。自分でも見違えるくらい女の子らしくなったと思う。辻くんは蜻蛉模様の紺の浴衣を袖まくりして着ていたが、憂眞を見ると、

「お、天津、今日は可愛いじゃないか」

と言ってくれた。その一言だけで憂眞はすっかり舞い上がってしまった。

 憂眞のわたあめ当番は最後だったので、しばらくはみんなと一緒に出歩くことができた。お化け屋敷やミニシアター、プラネタリウム、女装喫茶、迷路などなど、様々な企画があってどこも人で賑わっていた。最後から二番目の時間に辻くんと早川くんが当たっていたので、4組の教室に戻る。と、そこで騒動が発生していた。

「はじめから動かなかったの……」

 泣きそうな顔をしているのは七瀬いつか、早川くんの想い人だ。その七瀬さんを追い詰めているのはそのライバルである鳳安寿だった。鋭い目をした冷たい感じの美人だ。

「私はちゃんとやってたじゃない。あなたが何かして壊したんでしょ」

「ちょっと、何があったんだ」

 早川くんが割り込む。安寿は早川くんに擦り寄る一方、

「七瀬さんがわたあめの機械を壊しちゃったのよ」

と非難することも忘れない。

「壊したわけじゃないの……はじめから全然動かなくて」

 七瀬さんは言い訳しようとして、安寿にすごい目で睨まれた。

琴乃が、

「ちょっと機械見せて。直せるかもしれないし」

とわたあめの機械を動かしだした。でも、うんともすんとも言わない。

「うーん。どこがおかしいのかちょっとわからないわ……」

「七瀬、少しでもわたあめ作れたのか?」

 早川くんの質問に、七瀬さんは首をふるふると振った。柔らかな茶色のポニーテイルがそれにつれて揺れた。

「ううん。スイッチを入れても動かなかったの」

「七瀬の前は誰だったんだ?」

「私よ。私はちゃんと作れたもの」

 安寿がなにか文句があるかという口調で言った。みんなが、きっと安寿がなにかしたんだろうと思っていながらそれが言えない。証拠がないからだ。でも、このままでは七瀬さんが可哀想すぎる。機械を壊したという濡れ衣を着せられて、彼女みたいな気の弱い人がどんなに辛い思いをするだろう。

「あの……どうせ次はあたしの番だし、やらせてみて」

 憂眞は思い切って名乗りを上げた。こういうときこそ魔法の出番じゃないか。わたあめ機のスイッチを入れ、心の中で念じる。

(わたあめを作らせて!)

 ごん。

 わたあめ機を殴る、と、機械がぶーんと唸って白い砂糖の糸を吐き出した。大急ぎで割り箸でからめとり、わたあめを作る。作り終わった時には、機械はまた止まっていた。

「すごいな、天津。どうやったんだ?」

「ちょっと殴っただけ」

 正直に答える。よく電気製品は殴ったら直ることがあるって言うし、機械を殴ったのはみんなが見ていたことだ。……でも、これで機械は直ったんだろうか?

「ちょっと、私もやってみるね」

 琴乃が同じように機械を殴ってみるが、何の反応もない。……やっぱり機械そのものは直ってないんだ。憂眞が願ったのは「わたあめを作ること」だったから、一時的に機械を動かすことができただけなんだ。だとしたら、この事態を解決する方法は一つ。憂眞は覚悟を決めた。

「コツがつかめるのはあたしだけみたいだから、残り時間はあたしがやるわ。七瀬さんは他の人のお手伝いをしてあげてよ」

「天津さん……ありがとう」

 七瀬さんは泣きそうな顔でお礼を言った。そして憂眞は、客が来るたびにわたあめ機を殴る羽目になったのだった。


「お帰りなさい憂眞ちゃん」

 タミールが玄関まで出迎えてくれる日は、成果があった日だ。

「もしかして、わたあめ?」

「そう。こまっている人を助けたし、クラスの出し物も救ったんだからね。もっとも、わたあめ作り一回につき加点、っていうほど甘くはないけどね」

 そんな贅沢なことは望んでもいない、と憂眞は思う。ただ、安寿に追い詰められて泣き出しそうな七瀬さんをなんとか助けてあげたいと思った、それが自分の正直な気持ちだった。たまたま自分の手に魔法という解決手段があったからそれを使っただけ。だから、特別いいことをしたとも偉かったとも思わない。それが評価されたことは、もちろん素直に嬉しかったけれど。

「そろそろパーティーのご馳走が作れるようになりそう?」

「子供の誕生日パーティーくらいなら、ね」

 タミールはにゃあと笑った。


 数日後、琴乃が報告してくれた。

「わたあめ機だけど、芯のところに糸がたっぷり巻きつけてあったんですって。動かないはずよ」

「鳳のやったことだろう、どうせ」

 早川くんは不機嫌そうに言った。安寿ときたら、わざわざ好きな人に嫌われるようなことばかりしている。もっとも、七瀬さんに勝てることはなさそうな気がするけど。タイプが違いすぎるもの。七瀬さんは内気で愛らしくてふわふわした感じなのに、安寿は気が強くて冷たい印象。

「しかし、天津は故障した後もわたあめを作ってたぜ」

 辻くんが不思議そうに言った。

「そうなのよね。普通ならあれじゃ動かないはずなんだけど、憂眞ちゃんって特殊な体質? 帯電してるとか?」

「さ、さあ……そういうおぼえはないわね。殴るとちょっとの間動いてたの」

「ともあれ、あの機械は修理に出す羽目になっちゃったわ。早川くん、頼むからそろそろきちんと態度表明してくれない? 安寿におかしな真似されると周りが迷惑するんだから」

 琴乃が冗談半分本気半分といった表情で早川くんを見た。

「それができるくらいならやってるって……」

 早川くんは深いため息をついた。

「何がそんなに言いにくいの? 七瀬さんに告白するなり、安寿にきっぱり断るなりすればいいじゃない」

「どちらにしても、鳳は七瀬に一段と辛く当たる。鳳が俺のことを嫌いになってくれればいいんだけどな」

「ああ、俺もその気持ちちょっと分かる」

 辻くんが同情の声を上げた。

「『おかえり』が他の人を好きになってくれないかな」

「その、他の人が可哀想じゃないの」

 この問題ばかりは、魔法でさらっと解決できるものじゃない。憂眞たちは、ふか~いため息をついたのだった……。


5.

 文化祭が終わった数日後に体育祭が始まる。白雲高校ではイベントをまとめてやる傾向があるのだが、一番忙しいのがこの文化祭と体育祭を含む数日間だった。

 体育祭は、全校生徒が6つのチームに分かれて行う。赤、青、黄色、緑、白、紫の六色である。このチーム分けは生まれ月で分けられ、たとえば1年生は1月と6月が赤組、といった具合である。だから、生まれ月が同じ相手とは3年間同じチームに所属することにもなる。

 残念ながら、今回憂眞は辻くんとチームが分かれてしまった。憂眞は青、辻くんは緑だ。もっとも、二人とも運動は得意でないから玉入れとか綱引きに参加する程度なのだが。もちろん、今日も黒いローブは着られない。トレーニングウェアに青い鉢巻だ。このごろローブを着ていない時も多いのに、クラスメイトに

「どちらさま?」

と聞かれるのには閉口した。フードをかぶっているとはいえ顔が隠れているわけではないのに、びっくりするほど顔を知られていない。

 今回一緒になったのは、琴乃と七瀬さんだった。琴乃は同じ十二月生まれだから嫌でも一緒になるのだが。七瀬さんはわたあめの一件でよほど感謝してくれているのか、憂眞の後をちょこちょこついてきては嬉しそうな顔をしている。早川くんが可愛いと思うのも無理はないいじらしさだ。聞けば、早川くんにも一年生の時他の女子にいじめられているのを助けてもらったそうで、

「いつも、本当に優しくしてくれるんです」

と頬を染める様子を見れば、早川くんの気持ちも十分通じているのではないかと思われた。

 その早川くんは白組、柚衣は赤組と今回は見事にばらばらになった。お昼ごはんは一緒に食べようと約束していたが、チームが違うのでいきおい行動もばらばらになる。

 午前の短距離走に出た柚衣と早川くんはどちらも素晴らしい走りだった。応援したかったが、チームが違うので自粛する。憂眞は障害物競走に出たものの、走って縄跳びをくぐり抜けるのがなかなかできず最下位。琴乃はパン喰い競争で見事に首位を攫い、七瀬さんは借り物競争で「魚」という難問にも負けず一年生の教室から金魚鉢を借りてきて三位に入賞した。

 ようやく昼ごはんの時間になり、いつものメンバーに七瀬さんを加えた六人が木の下に集まった。憂眞のお弁当は、卵焼きにたこの形に切ったウインナー、から揚げといった定番のメニューだ。彩りもよく、量もほどよい。

「憂眞は自分で作ったの?お母さん忙しいもんね。でも上手だねえ」

 柚衣の質問に憂眞は笑顔でうなずく。本当は、魔法で作ったお弁当を持っていくかどうか最後まで悩んだ。自分だけが食べるのなら、毎日魔法で夕食を作っているのだから何の抵抗もない。でも、体育祭のお弁当ならみんなとおかずを交換するかもしれない。そう思うと不安だった。それに、魔法が体育祭のお弁当という常識のレベルを超えて豪華なものを出してくる可能性もある……さんざん迷ったあげく、憂眞は朝5時に起きて自分でお弁当を作ったのだった。

 柚衣は焼き魚や豆腐の田楽といった和風のお弁当。琴乃はサンドイッチ。辻くんは憂眞と似たような献立で、ただ少し量が多いのが男の子のお弁当らしい。メニューが似ているのが憂眞には嬉しかった。食べ物の好みが似ているということだもの。早川くんはごはんが多く、塩辛いおかずが三分の一くらい入っているという運動部的なお弁当だった。そして七瀬さんのお弁当はなんとも可愛らしいミニおにぎりと、コロッケやハンバーグも小さく可愛らしいものだった。憂眞は、世の中にはこんなに女の子らしい女の子がいるんだなあと内心ため息をついた。

 みんなで賑やかにおしゃべりをしながらおかずを交換し、午後の競技について話し合う。午後は早川くんと柚衣がリレーに、辻くんと憂眞と琴乃と七瀬さんが玉入れと綱引きに出る予定だった。

 お弁当の時間が終わり、憂眞と他の女の子たちはトイレに行った。席に戻ろうとしたとき、七瀬さんが、

「わたし、教室からタオルを取ってきますから、先に行っててください」

と言い出したので他の三人は先に戻った。しかし、十五分たっても七瀬さんが来ないので憂眞はふと不安になった。

「琴乃、あたしちょっと七瀬さん探してくる」

 琴乃はすぐに立ち上がった。

「私も行く」

 二人はトイレから二年四組の教室まで歩いた。七瀬さんの姿はない。

「七瀬さん! どこにいるの!」

 憂眞が声を上げたとき、階段の下からかすかな声が聞こえた。二人は急いで駆け下りる。と、階段の踊り場で身体を曲げて倒れている七瀬さんの姿があった。

「七瀬さん! 大丈夫!?」

 七瀬さんは目を開いた。その目にははっきりと苦痛の色があった。

「階段から……落ちちゃって。腕が痛いんです」

 左腕がいくらか不自然な曲がり方をしているように見えた。琴乃は携帯を取り出す。

「もしもし、早川くん? 七瀬さんが怪我をしたの。四組の横の階段を下りたところよ。とにかく救急車を要請して、すぐに来て」

 琴乃が冷静な電話をしている間、憂眞は七瀬さんの額を拭い、持っていたタオルで左腕の下に当て物をした。それから、小声で聞く。

「自分でうっかり落ちちゃったの? それとも……誰かに押されたりした? 本当のことを教えて」

 七瀬さんは大きな目に涙を浮かべた。

「その…背中になにかが当たって、それで……」

「何が当たったのかは見ていないのね」

「……」

 そこへ足音が聞こえて、早川くんが走ってきた。柚衣と辻くんも一緒だった。

「七瀬……大丈夫か? どこが痛いんだ?」

 早川くんは胸が痛むほど優しい声で七瀬さんに話しかけた。七瀬さんは安心したのか泣き出してしまった。ああ、やっぱり早川くんは七瀬さんにとって特別な人なんだな、と憂眞は思った。甘えて泣けるほど、早川くんを頼りにしているんだ。七瀬さんはか細い声で、

「左腕……すごく痛いの……」

 早川くんは一目見るなり、

「骨折だな……触らないほうがいい」

と痛々しそうに言った。それから、タオルで七瀬さんの涙を拭ってあげる。

 他の人が入り込めない雰囲気に、憂眞たちは顔を見合わせた。二人はしばらくこのままでいさせてあげるとして、残るメンバーは小声で話し合う。

「やっぱり誰かが突き落としたんだと思う」

 琴乃が声を潜めて言う。

「あの内気な七瀬さんが『背中になにかが当たった』って言うんだから、自分で落ちたんじゃないよ。そもそも自分で足を滑らせたんなら背中を強く打ってるはずだろ」

 辻くんが同意する。

「ねえ……安寿、何組だった? 今日、誰か彼女を見た?」

 柚衣が他のメンバーの顔を見回した。

 その時、救急車のサイレンが間近で止まるのが聞こえた。そして、担架を持った救急隊が非常口から走りこんできた。


 七瀬さんには早川くんと琴乃が付き添って行った。残るメンバーは競技に戻り、最終結果は赤組が僅差で優勝した。白組は早川くんがリレーで抜けたのが響いたらしい。

 後夜祭には出ずに、憂眞たちは七瀬さんのお見舞いに行った。やはり左腕を骨折していたそうだ。幸いそれほどひどい怪我ではなく、学校にも普通に通えるという。

「心配かけて、ごめんなさい」

 七瀬さんはしょんぼりしている。その彼女に、琴乃が優しい声で訊ねた。

「七瀬さん、あなた、紫色の鉢巻をした誰かに突き落とされたんじゃない?」

 七瀬さんは大きく目を見張った。

「はっきり言わなくてごめんなさい。誰なのかは……本当に見ていないんです。でも背中を押されて、一瞬振り返った時逆光で紫色の鉢巻が見えました……でも、どうして分かったんですか?」

「なんとなく、よ」

 琴乃の言葉に、思わず早川くんの顔を見る。小さくうなずく。憂眞にも分かった。安寿は紫組だった、ということが。早川くんなら、知りたくなくても知っていただろう。


「でも証拠はなにもないんだよな」

 早川くんは腹立たしげに言った。病院帰りに立ち寄ったファミレスのボックス席で、一同はやりきれない気持ちを抱えている。

「証拠を残すような子じゃないよ。すごく立ち回りが上手いもの」

 柚衣が嫌なものでも払い落とすように、お手ふきでごしごしと手を拭った。

「七瀬さんがかわいそう……彼女あんなに可愛い、いい子だし、なにも悪いことはしていないのに」

 憂眞は見るともなくメニューをめくりながらため息をついた。他の連中もあまり食欲はないらしく、オーダーがなかなか決まらない。

「俺たちには何もできないってことか。また次があるかもしれないのに」

 辻くんが口にした言葉に、早川くんが激しく反応した。

「次なんかない! もう二度とあんなことはやらせない」

「どうやって? 四六時中七瀬さんか鳳を監視しておく方法なんてないんだぜ」

 早川くんは黙ってしまった。早川くん自身が一番辛い立場にいるんだ。安寿が七瀬さんをいじめるのは、早川くんが七瀬さんを好きだから。だからといって、早川くんは七瀬さんをあきらめることも安寿を好きになることもできない。手詰まりだ。

「どうしたら……いいんだろうね」

 憂眞は誰にともなく言った。答えはない。


「ただいま……」

 暗い顔で部屋に戻った憂眞を、タミールは複雑な顔で迎えた。

「困ったことになってるみたいだね」

「なってるの。魔法でぱっと解決、って問題でもないし」.

 タミールは定位置の枕の上からぽんと飛び降りた。

「ぱっと解決はできないけど、アドバイス程度なら。まず、今回の事件の真相を知ることはできるよ」

「あ。そうか」

 以前、辻くんの様子を見たときと同じ。念をこめて、壁を殴る。

(七瀬さんを突き落とした人を見せて!)

 瞬時に壁は画面に変わった。階段を降りかける七瀬さんの背後に近づく影、紫の鉢巻。そしてカメラが切り替わるように画面はその顔を映し出す。憎悪に歪んではいたけれど、それは間違いなく鳳安寿だった。そして、画面は壁に戻った。

「まず、ってことは他にもアドバイスがあるってことよね?」

 タミールに訊ねる。タミールはにゃあと鳴いた。

「憂眞ちゃんはずいぶん魔法使いとして力をつけたから、できると思うんだ。七瀬さんに危険が迫ったら、憂眞ちゃんに知らせがいく。これを念じてみて」

「知らせ以上のことはできないの? 守ってあげるとか」

「それはもっと格上の魔法使いでないとね。危険が分かるだけでもずいぶん違うものだよ」

 確かに危険が迫っていると分かれば助けにいくことができる。仲間に連絡もできる。

(七瀬さんに危険が迫ったら、あたしに知らせて!)

 念じながら、壁を一発殴った。すぐにはなんの変化もない。この魔法が効果を発揮しているのかも分からない。でも、効いていると信じているしかないんだ。七瀬さんにこれきり何もなければ、それが一番いいんだし……。


6.

 二学期も終わりを迎え、クリスマスを迎えようとしていた。憂眞はクリスマス生まれだが、物心ついて以来まともに誕生日を祝ってもらったことはない。占い師である母はクリスマスがまさに稼ぎ時だからだ。もちろん今年も、市内のデパートで占いコーナーを開くことになっている。

 今年は、柚衣の家でいつものメンバーとクリスマスパーティーをすることになっていた。柚衣の家を選んだのは、もちろん『おかえり』対策である。七瀬さんは呼ばなくていいのかという柚衣の問いに、早川くんはもうプレゼントは郵送しておいたと答えた。体育祭の一件が堪えたのか、早川くんは表向き七瀬さんと一定の距離をとっているように見えているが、実際はメールや電話で頻繁にやりとりをしているようだ。七瀬さんが時々嬉しそうに教えてくれる。彼女も仲間に入れることができたらいいのにと憂眞は思っているが、そのためにはまず安寿の方をなんとかしなくてはならない。

 午後、憂眞は柚衣の家を訪ねた。プレゼントはみんなで交換するので一個だけ。本当は、辻くんにだけ特別になにか贈りたかった。でも、まだ自分の気持ちを打ち明ける勇気がないし、打ち明けてしまえば辻くんも憂眞と『おかえり』の板ばさみにしてしまう。それは避けたかった。

 柚衣の家の居間には大きなツリーが飾られ、クリスマス気分を盛り上げている。柚衣のほかに、琴乃が早々と到着していた。憂眞が着いてまもなく、早川くんと辻くんが揃って顔を見せた。早川くんは兄がケーキ職人なので、クリスマスケーキをお土産に持ってきた。これでパーティーの準備は完了というところだ。

「それじゃあ、乾杯といきましょうか」

 柚衣がシャンパン代わりのサイダーの蓋を開ける。グラスにサイダーが満たされ、乾杯の音頭は誰が取るべきかでしばらく揉める。

「じゃあ、一人が一言ずつ言おうよ」

 辻くんのこの意見が通って、一人ずつ何か言うことになった。

「えーと、今年もいろいろありました」

「それは単なる感想でしょ」

 間抜けな憂眞の発言に琴乃が突っ込みを入れる。

「来年こそ『おかえり』から逃れられますように……」

 辻くんが切実な願いをこめる。

「来年こそ七瀬が無事でありますように……」

 早川くんも同じように切実だ。

「ああもう! 男子は辛気臭いわね! 来年も楽しいことがたくさんありますように」

 柚衣がその流れを断ち切った。そして最後に琴乃が。

「来年もみんな仲良く過ごせますように! 乾杯!」

「乾杯!」

 この願いを全部叶える魔法があるのなら、それを自分が使えたなら、どんなにいいだろう。憂眞はそう願いながら、サイダーを一気に飲み干した。

 ケーキを切り分けている最中、早川くんの携帯が鳴った。メールが着信したようだ。しばらくそれを見ていた早川くんは、

「七瀬からみんなにメッセージだ。読むぞ。みなさん、メリークリスマス。いろいろとよくしてくれてありがとう。今日は一緒に過ごすことはできないけれど、気持ちはみなさんと一緒に楽しいクリスマスです。来年もよろしく。七瀬いつか」

 みんなから歓声が上がる。

「七瀬さん、本当にいい子だよね。早くこのメンバーに加わってほしいのに」

 憂眞がつくづく言う。琴乃がうなずいて、

「だけどそう簡単でもないんだよね~。安寿が他の男に鞍替えしてくれるといいのにね、早川くん」

「あいつの名前は出すのやめようぜ。ケーキがまずくなる」

 早川くんは嫌な顔をした。七瀬さんが骨折した事件以来、早川くんは安寿を全く相手にしなくなった。声をかけられても振り向かない。話しかけられても返事をしない。プライドの高い安寿は相当頭にきている様子だけれど、早川くんが七瀬さんとも距離をおいているように見えるので八つ当たりのしようがないのだ。これで、二人が携帯で連絡を取り合っていると知れたらどんな騒ぎになるか想像もつかない。

 ケーキが配られる。早川くんのお兄さんが憂眞たち仲間のために腕をふるってくれたというケーキは、チョコレートの飾りやフルーツがたっぷりと乗ったとてもおいしそうなものだった。

「いただきまーす」

「あ、これすごくおいしい!」

 しばらくはみんなケーキに没頭する。ケーキの中まで新鮮な果物でぎっしりだった。

「さて、それじゃあプレゼント交換といきますか」

 自分のプレゼント以外から一個ずつ選んでいく。その後、どれが誰のプレゼントだったのかを明かすという方法になった。

(あ。辻くん、あたしの箱を選んだ……)

 誰に当たってもいいように選んだマフラー。でも、辻くんに巻いてほしいという気持ちは確かにあった。

 憂眞も緑の包装紙の箱を選んで自分の前に置く。

「じゃあ、順番に開けていこう。開けたら、贈り主が名乗り出てね」

 柚衣がその場を仕切り、真っ先に自分の箱を開ける。中からは綺麗な革のバインダー。

「それ、私よ。授業の時にでも使ってね」

 琴乃が名乗り出る。その琴乃の箱からは重厚で少し無骨なペーパーナイフ。

「それは俺。なかなかいいデザインだろ」

 早川くんが言う。そして早川くんの箱は。

「それ、当たりよ。うちの家族からの箱」

 柚衣が嬉しそうに言った。わたしたちは五人だから、月海家からのプレゼントが用意されていたのだ。

「うわあ、スポーツ用品店の商品券か。嬉しいな」

「早川くんになら使う用途はたくさんありそうね。さて、あとの二人は交換かしら?」

「そうみたい」

 憂眞はそう言いながら箱を開けてみる。

「わあ」

 中に入っていたのは、木でできた素朴なドールハウス。

「可愛い」

「早川に当たっても、七瀬さんに流せるだろうと思ったんだ。でも天津に当たってよかった」

 辻くんはにっこりして、自分の箱を開けた。自分の好みのモノトーンではなく茶色にしたのは、それが辻くんに似合うと思って選んだからかもしれない。

「あったかそうだ。ありがとう」

 その言葉が憂眞の心をあったかくさせる。顔が赤くなっているかもしれない。言葉がうまく出てこないことに、気づかれてしまうかもしれない……。

 魔法は一度も使わなくても、こんなにも幸せなクリスマス。こんな時間がずっとずっと過ごせるのなら……あたしは魔法使いでなくてもいい。


7.

 元旦。出雲地方の人々は、出雲大社を目指す。

 憂眞たちももちろん初詣に大社を訪れた。女の子たちは着物姿だが、男性陣はセーターにパンツだ。この日は七瀬さんも途中から合流することになっている。なにしろすごい人出だし、途中で会ったといえば十分言い訳になるからだ。

 正月しか入れない正殿でお神酒を頂き、おみくじを引いたり破魔矢を買ったりしている間に七瀬さんが現れた。ピンクの華やかな振袖だ。

「よく似合ってる。すごく綺麗だ」

 早川くんは、まるで彼氏のようなことを恥ずかしげもなく言う。七瀬さんは恥らってうつむく。仲がよくてうらやましいなあ、などと憂眞が考えていた時。

「辻く~~~ん!!」

 聞き慣れたキンキラ声と共に、真っ赤な着物姿の『おかえり』が突進してきた! 辻くんは闘牛士のように間一髪でよけた。

「辻くん、初詣なのにどうして誘ってくれないの? 絵里香、楽しみにしてたのに…」

「丘を誘う理由が俺にはないから。別に仲良くもないし」

「これから仲良くなればいいじゃない!」

 『おかえり』はむりやり辻くんの腕を取ろうとする。そこへ早川くんと柚衣が割って入った。

「ちょっと絵里香。辻くんはほんとに迷惑してるのよ。何度も言ったでしょ?」

「なあ丘。俺も女相手に手荒なことはしたくないんだ。そろそろ引き上げてくれないか」

 それでも『おかえり』は一歩も引かない。

「あなたたち、人の恋路を邪魔すると馬に蹴られて死ぬんだから! 絵里香は辻くんが好きなの! 出雲大社の神様に、辻くんとご縁がありますようにっていっぱい、いっぱいお祈りしてきたんだから!」

「俺はそんなご縁は欲しくない!」

 辻くんが『おかえり』の腕を必死にふりほどく。そしてその『おかえり』を両側から早川くんと柚衣が押さえ込んだ時だった。氷のように冷ややかな声がその場に響いた。

「みんなでずいぶんひどいことするのね?丘さんがこんなに辻くんを想っているのに」

 鳳安寿だった。彼女は着物ではなく地味なワンピースだった。凍りついたようなその場を横切り、震えている七瀬さんの傍まで行く。

「七瀬さん? あなた、早川くんとこうやってこっそり会ってたのね。学校ではお互い知らん顔をしてたくせに……。早川くん、あなたは私のことずっと無視してたわよね。どうして? どうしてなの?」

「俺や七瀬に構わないでくれ。俺は鳳が嫌いだ。何があっても好きにはなれない」

 早川くんが呻くように言った。安寿はその彼の前に立った。

「私はあなたが好きよ。何があってもあきらめられない」

 そして、何事もなかったかのように去っていった。早川くんは『おかえり』を放り出して、いまにも気を失いそうな七瀬さんを支えている。『おかえり』は毒気を抜かれてしまったように、呆然としたまま柚衣に腕を取られている。そして辻くんは、憂眞に合図を送ってこっそりその場を抜け出した。

 結婚式場のあたりまで逃げ出した辻くんと憂眞は、近くの喫茶店に隠れて他のメンバーからの連絡を待つことにした。

「とんでもない修羅場になっちゃったね」

「『おかえり』どころの騒ぎじゃなくなったね……鳳、すごく恐かったよ。早川と七瀬さん、大丈夫かな」

「さあ…」

 およそ三十分近くたってから、ようやく柚衣から電話があった。『おかえり』の家に連絡して迎えにきてもらうのに手間取ったのだという。七瀬さんも早川くんが送っていったそうだ。

ようやく柚衣と琴乃と合流できたが、二人ともかなり憔悴していた。

「こんな修羅場、見たことないわ!」

 柚衣が嘆いた。琴乃も、

「安寿、ただじゃすまさないと思うわよ。どうする?」

と、誰にともなく言った。

「何もかも、どうしたらいいかわかんないわ」

 憂眞は深いため息をついた。これほどの事態を収拾する魔法は、憂眞にはまだ使えない。だとしたら人事を尽くすより他はない。どれほどのことができるかはわからないけれど。


8.

 新学期が始まった。

 鳳安寿は常に早川くんに目を光らせていた。その視線の鋭さは、事情を知らない者でさえ不審がるほどだった。『おかえり』はあれ以来おとなしかったけれど、メンバーは気の休まる時がなかった。

 そして、その日。放課後になったばかりの時間、憂眞は突然自分自身の声が頭に響くのを聞いた。

『七瀬いつかが危険。指示する場所へ急げ』

 同時に、頭の中に地図が浮かび上がる。以前かけた魔法だ! と思い出すのに時間はかからなかった。教室を駆け出し、階段を駆け下り、校庭を突っ切る途中で早川くんと辻くんに出会った。

「良かった! 七瀬さんが危ないの! 何も聞かずにあたしについてきて!」

「! 分かった!」

 二人は憂眞の剣幕に、事態の緊急性を読み取ったらしい。一緒に走り出した。憂眞はただひたすら頭の中の地図を追って走る。出雲市の街中、歓楽街である大官町。飲み屋が軒を連ね、生徒たちには不似合いな場所の一角で、三人はあやしげな男たち数人に囲まれている七瀬さんを発見した。

「何してる、貴様ら!」

 早川くんが踊りこんで七瀬さんの前に立つ。辻くんは携帯電話を取り出して大声を張り上げる。

「もしもし、警察ですか!? 女の子があやしい男たちに襲われているんです!」

「畜生、ずらかれ!」

 男たちは一斉に散っていった。七瀬さんはその場に座り込む。辻くんははじめから警察になど通じていなかった携帯を閉じて二人の方へ近づいた。

「ありがとう……もう、だめかと思った……」

 七瀬さんはかすかな声でつぶやいた。早川くんが手を貸して、七瀬さんを立ち上がらせる。

「なんでこんなところにいたんだ? あの男たちは?」

 早川くんが性急に訊ねた。

「クラスの沢田くんが、早川くんからだってメモをくれたの。夕方、ここで待っているようにって。そしたらあの男の人たちが集まってきて……」

「そのメモは?」

「これ…」

 七瀬さんから受け取ったメモに目を通した。

「七瀬へ。地図の印の場所で待っていてくれ。早川……ね」

メモを読み上げた後、早川くんは辻くんに訊ねる。

「沢田って、鳳と親しかったか?」

「結構」

「それで、どうしてここまで助けにきてくれたの?」

 早川くんと辻くんは、七瀬さんの質問を聞くと同時に憂眞を見た。今になってようやく、憂眞が七瀬さんの危機を知っていたことに疑問を感じたようだ。

「ええと、あたしも偶然沢田くんの机の上にあったそのメモを見たの。なんかおかしいなって思って……その後、七瀬さんを探したんだけどもういなかったからまずいんじゃないかと思ったの」

「なるほどな」

 どうにか誤魔化せたらしい。憂眞はほっと一息つく。早川くんがメモの内容を読み上げていてくれてよかった。

「しかし、沢田を追求すれば鳳から頼まれたことが分かるだろう。これであいつも言い逃れができなくなるんじゃないかな」

 早川くんは手の中のメモを見直した。

「それがばれたくらいで動揺するような玉じゃないと思うけどな、鳳は」

 辻くんは悲観的に言った。憂眞もその意見に賛成だった。実際に何かがあったわけでもない以上、警察に訴えたりすることもできそうにない。

 でも、こんなひどいことをする人をこれからも野放しにするなんて、そんなの間違ってる。そんなのおかしい。憂眞はぎゅっと拳を握った。

(七瀬さんをもう危険な目に遭わせないで!)

 念じて、薄汚れた飲み屋の壁を殴った。

 何も起きなかった。けれども、効いているのかどうかわからない魔法が効いたのを経験したばかりだったから、不安にはならなかった。どうせこれ以上のことはできないんだ。自分の願いが叶ったか叶わなかったかは、次に七瀬さんが危険に遭ったときに分かること。

「さあ、もうこんなところから帰ろうよ」

 憂眞はみんなを促した。入り組んだ小路を抜けて駅前通りに出ると、冬の風が爽やかに吹き抜けていった。


 翌日、憂眞たちは鳳安寿が突然転校したことを知った。理由は分からないという。ただ、いきなり出雲を遠く離れた学校へ移っていったことは確かだった。

「昨日のことが俺たちにばれたから、もうここにはいられないと思ったんじゃないか」

 早川くんは安堵の表情で言った。その傍らには七瀬さんがいる。

 憂眞は本当のことを知っていた。みんなに言うことはできないけれど、もう大丈夫なのだということを。


「憂眞ちゃん、すごいよ! よくやったよ!」

 昨日、帰宅するなりタミールが飛びついてきたのだ。

「ん?どっち?」

「どっちもだよ。七瀬さんの危険を魔法で感知してすぐ助けにいったのも、七瀬さんが危険に遭わないように願ったのも。人助けの功績は大きいし、あの安寿って子の不幸を願わなかったのが何より偉かった」

 憂眞は苦笑した。

「本当はね、ちょっと考えた。安寿が二度と悪事を働けませんように、とか願おうかって。だけど、マイナスのことを願うのはよくないような気がしたんだ」

「それがまさに魔法の一番大事なところなんだ。憂眞ちゃんはすごいよ。もうすぐ、本当のパーティーのごちそうが出せるようになるかもしれないね!」

「パーティーのごちそうかあ……あたしには宝の持ち腐れになりそう。あ、一人分出せるんなら別だけど」


9・

 その朝も、『おかえり』の辻くんへの猛アタックから始まった。

「隼人く~~ん! おはようっ!」

 全体重を乗せる勢いで、辻くんに抱きつこうとする『おかえり』を柚衣がすばやく引き止めた。片腕であの勢いを止められるんだからさすがだ。

「何するのよ、月海さん! あたしはただ隼人くんに挨拶したいだけなのよ~」

「あんたがあの勢いで挨拶したら辻くんは全身打撲で入院しちゃうわよ」

 その間に、辻くんは教室の一番後ろまで避難していた。

「丘、俺は挨拶なんかしてもらわなくていいから。もう、席に戻れよ」

 早川くんの陰に隠れて言う姿は、惚れた欲目で見てもちょっと情けない。

「どうしてみんなで絵里香の恋を邪魔するの? 馬に蹴られて死んじゃうよ!」

 『おかえり』は机を押しのけて辻くんのところまで進もうとするけれど、辻くんは柚衣と早川くんの間を素早く行ったり来たりして逃げ続ける。『おかえり』はとうとう息が切れてぐすぐすと泣き出した。

「隼人くん、どうして絵里香を避けるの? 絵里香が嫌いなの?」

 ちょうど辻くんの傍にいた早川くんが、辻くんを強く肘でつついた。そして、辻くんはとうとうその言葉を口にした。

「俺は丘が嫌いだ。好きだったことは一度もない」


 『おかえり』は、相撲取りのように肉に埋もれた小さな目を精一杯見張って辻くんを見つめていた。そして、またぐすぐすと泣き出した。でも、もう辻くんの方に近づこうとはしなかった。

「絵里香ね……隼人くんは絵里香のこと笑ったり、馬鹿にしたり、意地悪したりしなかった最初の人だったから……隼人くんがずっと好きだった! 本当に好きだったの!」

 辻くんは気まずそうな顔で『おかえり』を見ていた。そして憂眞は、心の中で『おかえり』の言葉に叫び返す自分の声をはっきりと聞いていた。

『あたしもよ……辻くんはいつも黒いローブを着て、占いやオカルトにはまってる変人のあたしでも笑ったり、馬鹿にしたり、意地悪したりしなかった。他の人と違うって目で見なかった。だから好きになったの。本当に好きなの……』

 『おかえり』の心を、憂眞は初めて知った。それは憂眞自身の心と双子のように似ていた。

 辻くんは『おかえり』の希望を打ち砕いてしまった。これから、『おかえり』は何を支えにして生きていけばいいんだろう? たとえば、辻くんがあたしに面と向かって「嫌いだ」と言ったとしたら、自分はどうするだろう?

 いけない。このまま、『おかえり』を絶望させてしまってはいけない。それは自分自身の影を裏切るようなものだ。

 だけど……『おかえり』を幸せにしてあげたい、と念じて魔法を使ったとしたら? それは、辻くんと『おかえり』が結ばれるように願うのと同じじゃないんだろうか。そしたら、憂眞は自分で自分の恋を破局させることになってしまう……。

 泣きつづける『おかえり』。沈黙するみんな。そして憂眞は──拳を握って、念じた。

(『おかえり』を、幸せにしてあげて!!)

 そして、拳を振り下ろした。


 次の瞬間。

「え……」

「な、なに!?」

 みんなが当惑の声を上げた。憂眞の目も『おかえり』に釘付けだ。

 あのおまんじゅう体型の『おかえり』はどこにもいない。そこにいたのは、小柄だけれどすっきりした体型、そしてつぶらな目が印象的な可愛い女の子だった。ただ、縦ロールの髪とピンクのフリル満載のワンピースだけが、その少女が『おかえり』であることを示していた。

「なにが……あったの?あたし、どうしちゃったの?」

 『おかえり』は自分の身体を眺め回した。もちろん答えられる者はいない。憂眞は、そっと一歩踏み出した。

「丘さん。きっと……丘さんの気持ちが神様に通じたのかもしれないよ。もう、丘さんのことを笑ったりいじめたりする人はいない。きっと」

「天津さん……」

 『おかえり』は泣き出しそうな笑顔を浮かべた。そして、辻くんの方を向いた。

「隼人くん……絵里香、前とは違うでしょ?これでも、やっぱり絵里香のことが……嫌い?」

 憂眞は目を閉じた。そして……シンデレラは王子様と末永く幸せに暮らしました。これでハッピーエンド。いいんだ。あたしは、『おかえり』を泣かせて自分が幸せになることはできなかった。

「ごめん、丘。嫌いと言ったのは言いすぎだけど、それでも丘を好きにはなれない」

 辻くんが静かに言うのが聞こえた。そして、足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。思わず目を開けた憂眞の目の前に、辻くんがいた。

「俺がずっと好きだった人は、天津だから。だから、丘のことは好きになれない。ごめん」

「……辻くん」

 名前を呼ぶのがやっとだった憂眞に、辻くんは苦笑した。

「ごめん、天津。ついでみたいに告白して。でも、なかなか言えなかったんだ」

 『おかえり』は二人を優しい顔で見ていた。

「そっか。天津さんなら、ちょっと悔しいけど我慢する。あたしには、これからきっと素敵な人が現れてくれると思うから!」

 前向きだなあ。こういうところは以前と変わっていない。憂眞は感心した。

「それにしても、何が起こったんだ?あの『おかえり』がこんなに細くなっちまうなんて」

 早川くんが目を擦りながら教室の前へ戻ってきた。柚衣は、

「なんでもいいじゃない。すべてハッピーエンドなんだもの。ね?」

と、憂眞と辻くんに微笑みかけた。


「おかえり、憂眞ちゃん! 今日の魔法は最高だったよ!」

 タミールがしっぽを立てて玄関まで出迎えた。それを憂眞は予想していた。

「ねえ、タミール。あたし、もうパーティー料理が出せるようになったのかな?」

「もちろんだよ! どうして?」

「そのお料理で、タミールとお別れ会がしたいから」

 憂眞が言うと、タミールも半ばその答えを予期していたような顔になった。

「そっか。やっぱり……魔法使い、やめちゃうんだね」

 憂眞はタミールに腕を差し出した。ぶさいくな猫だと思っていたけど、こうして一緒に長い時間を過ごしてきた今では愛嬌のある顔に思えてくる。

「ごめんね、タミール。だけど、あたし辛くなったんだ。人のためになる魔法使いでいることが」

 タミールは腕の中で丸くなったまま憂眞を見上げてきた。

「いいんだよ。憂眞ちゃんは本当にいい魔法使いだった。僕の修行もずいぶん進んだよ。ありがとう。これ以上なんてわがままは言わない」

 そうして、憂眞とタミールは二人分のパーティー料理で乾杯した。お料理はどれも見たこともないものだったけれどとてもおいしかった。食事が終わり、宴の跡が消えた時。それが、憂眞とタミールのお別れの時だった。

「タミール、今までありがとう。本物の魔法使いになれて楽しかったよ」

 タミールは玄関の門柱の上に丸くなって、じっと憂眞を見つめた。

「こちらこそありがとう、憂眞ちゃん。次のご主人様には、きっと憂眞ちゃんの話をするよ。……じゃあね!」

 きらり、とタミールの目が光ったかと思った次の瞬間には、もうそこには何もなかった。憂眞の右手にあったあの星型の痣も消えていた。タミールは本当に去っていったのだ。



 そして、四月。

 憂眞の横には、当然のように辻くんがいる。まだ手をつなぐのが恥ずかしくて、軽く指先だけ触れ合わせている。

 そんな二人の横を、男の子たちに囲まれた『おかえり』──ううん、絵里香ちゃんが通っていく。以前とは見違えるほど垢抜けて、憂眞たちに手を振って追い越していった。

 新しい春が来ていた。

                                    〈終〉


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