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ダンタレン・ガスト  作者: 鏡子
黄金の騎士
1/1

プロローグ

 ひどく寒い夜だった。


 地上を覆った一面の霜が、世界を冷たい鏡に変え、そこにあるはずの生命の営みが、束の間、静止したかのように思われた。

 吹きつける冷たい風が雪山の肌をやさしく撫でる。風に舞う粉雪は、たがいに重なり合っては、また散って、戯れに興じている。


 眼を閉じて、深く息を吸った。はてしなくつづく眼窩の暗闇に、次第にぼんやりと一筋の光が刺し込んだ。

 光は次第に明確な輪郭を得ると、そこに一つの巨大な白い塔の姿をあらわした。頭上の太陽に絢爛と輝くその姿は、まるで自らが光輝を放っているかのように思われた。


 塔の下に大きな街が見える。塔を囲むように広がっていているその街は、高く頑強な外壁が円を描くようにして囲繞している。


 塔が、その光で、膝下のものを照らす。そこにある町は、木漏れ日を求める草花のように、その光明を仰いでいる。輝かしき故郷の風景。


 男のこころに映る都は、いつも変わることがなかった。

 幼心に刻まれた栄華な聖都の町並みや、活気に満ちた都人の営み。そして、その中央に厳然と屹立し、遍くを俯瞰する、太陽の如き〈天の塔〉。

 知識、美徳、名誉、規範、倫理。かつて、すべての人々が羨望したすべてのものが、そこにはあった。


 瞑っていた眼をゆっくりと開けた。想い出された黄金の記憶は、刹那のあやしい暗闇に溶け、そして認識は再び山々を彩った白銀の世界に還ってきた。


 男は来た道を振り返った。かわり映えしない山脈の雪景色のさきに、明滅する光の点が見えた。その光は頭上の雲を紅く染め上げ、空に黒煙を登らせていた。


(燃えている。かつて俺の持てるものをすべて捧げ、この命に掛けて忠義を誓ったものが……)


 男の顔に、昔年にたいする甘い郷愁とそれを遮ろうとする暗い憎悪の影が、奇妙に混じり合って浮かんだ。


(じきに都は陥落する。天姫様亡きいま、もはや軍が勝つ手段はない)


 男は腰に佩いた刀を見た。彼は都に残った同胞達を想った。


 〈天の塔〉の底部、磨かれた石の柱廊の先に大きな広間がある。その最奥にかつての英傑達の名が刻まれた忠霊碑が置かれ、新たな騎士となる者が、ここで天姫に永遠の忠誠を誓う。そこは騎士達にとっての生誕の地であり、聖域でもある。


 男は赤く染まった遠景の雲に、前線を離れその聖域に立て篭もった騎士達の姿を、そして、抜いた刃を自らの喉に勢いよく突き刺す彼らの最期を見たような気がした。


 男は自身の右腕に浮かぶ銀色に輝く刺青のような模様を見た。

 すべての生命あるものに刻まれた〈白銀の印〉。神と定命の者が交わした生受の契約。肉体を運命に縛り続ける呪いの紋様。


(故国が無残に滅びることすら、すでに印に刻まれていた運命だとするならば––––)


 男は左腕に抱いた温もりにそっと触れた。毛布にすっぽりと包まれ安らかに眠る幼子の温かい吐息が指先に感じられた。


(おれの残された唯一の宿命は、この子を護ることだ。この命に換えても、この子を生かさなければならない。たとえ、それが己の忠義を破り、同胞を見捨てることになろうとも……)


 男は故国を背を向け歩みはじめた。踏みしめた両足が雪の中に軽く沈んでいく。腕の中で眠る子が落ちぬようにしっかりと抱いた。

 

(獅子の子は獅子であり、戦士の子もまた戦士である。––––この子もまた、その連環の中にある。そこから抜け出すことは決してできない)


幼子が男の服の裾をぎゅっと掴んだ。


(この子もいつか、自身に流れる〈黄金の血〉を憎むだろうか。自身に刻まれた闘争の呪いが、自らの意志とは関係なく己を戦場へと誘うことに、耐えられない怒りを感じるだろうか?)



 そのとき、獣の咆哮のようなものが辺りに鳴り響いた。

 それは、雪に埋まった山道の向こう、月明かりに照らされた大きな黒い岩の陰から聞こえてきた。


(この声は……)


 薄明かりの下、金色に輝く双眸と長い一本角が岩上に見えた。

 

 角狼だ。


 荒々しい漆黒の体毛に、筋骨隆々とした四肢、そして闇に映える金色の眼と、天を突くようなたくましい黒角。古来から人々に崇められてきた戦いの聖獣、英雄の象徴。


 角狼は身動ぎひとつせず、ある一点を見つめていた。そこには倒れた別の角狼があった。闘いの傷に犯されたその身体は、すでに死に絶えていた。


 角狼は亡骸となった同胞のそばに近づき、鼻を寄せた。鼻さきで亡骸を揺り動かし、その安否を計っているようだった。


 角狼は顔を上げて空を仰いだ。そしてやにわに月夜の空に咆哮した。天を貫くかのような激しい声だった。辺りの風が強まり雪煙が舞った。


(お前もまた––––)


 角狼は死んだ同胞を弔う。そのときに放たれる遠吠えは、山海をこえて遠方にいる同胞にも届くと云われている。


 その轟く叫び声には、英傑としてこの世を去った同胞への(はなむけ)と、無常に流転する定められた運命への悲哀の意が込められているかのようだった。

 











 

 


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