前編
景色は陰鬱に暗く、空はひどく灰色だった。
一人の男がその鬱蒼とした感じの草むらの中を進んでいた。この景色は前に何かで見かけた水墨画とかいう絵に似ているなと、彼はそんなことを思っていた。雑木林などと比べると、それでも視界はひらけていた。だが、生えている背の高い草はかき分けるようにして進まなければならなかったし、場所によっては濃い霧がかかっていた。そして、その全ての草木が黒い色をしていた。よく観察すれば、それがとても濃い緑色なのが見てとれた。
研究対象としては興味深い、と彼は思った。たぶん、曇りがちで日照時間が少ない故、効率的に光合成をおこなうためだろう、と。だが、今の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。
「まあ、俺の思ってたよりはマシなところだ」
少し強がった口調だが、言葉そのものは空虚な響きだった。
地球では研究者として職務についていた。そして今は、社会的に罪人という烙印を押されていた。いや、刑は執行されたのだから、すでに過去の存在であった。罪状は政府に対する反逆罪。彼自身の研究分野から世界政府の法務局へ意見書を提出したのだが、政府がそれを気に入らなかったのだろうと彼は認識していた。
ともかくここは、どことも分からない他所の惑星の地表ということであった。太陽系からどれほど遠いかも分からなかった。案外、数十光年くらいの近くかもしれないし、万光年単位で離れた場所かもしれなかった。
「歩いて帰るには、ちょっと遠く離れて過ぎているかもな」彼は乾いた笑いを漏らし、首を振った。「ひとまずはオーケー。ジョークを考える余裕はある」
追放刑……それは地球で最も重い刑罰だった。そうでなくても多くの犯罪者は、月面や火星、小惑星帯、木星や土星の衛星といった場所へ連行され、基地や各種施設建設のための“労働刑”と称された危険な作業に従事させられていた。彼は昔、一度だけ現場を直接目にしたことがあった。それはテラフォーミング作業が遅々として進んでいる火星であった。依然として希薄で極寒の大気の中、劣悪な装備だけ与えられた作業従事者は、常に死と隣合わせだった。与圧服に針ほどでも穴が開いたら一巻の終わり。助けてはもらえず、そもそも誰かが助けようとすれば、現場の監督官や指揮官に止められた。僅かな時間だったが、彼は作業現場のはずれに遺体の山があるのも目撃した。装備品は再利用されるために身ぐるみはがされた裸の状態で、薄く乾燥した大気の中ではミイラ状態になっていた。その光景は今もしっかり思い出せた。地球の一般市民には、決して伝えられることのないものだった。
大昔は犯罪者にも人権があった時代があったらしい。彼はぼんやりと考えた。それが良いか悪いかは分からない。ただ、今はあまりにも慈悲が無さ過ぎるような気もしていた。それに、実際の犯罪者のみならず、反体制派といったような政治犯も多かった。
「俺だって現に、政府に意見しただけでこうなったじゃないか!」
それから彼はゆっくりと深呼吸した。どことなく奇妙な香りがするのを感じたが、依然として空気は呼吸に適していた。
転送先の惑星はコンピュータにより無作為に選ばれていた。誰も惑星の場所を知らなかった。そして、転送先の惑星で人間が無事にいられるかは非常に怪しかった。なにも地球型惑星に送られるとは限られないわけで、むしろ宇宙では地球生物にとって過酷な環境の方が、圧倒的に多かった。つまりは事実上の死刑ということであった。そういう意味では男にとって幸運だった。もちろん簡単にくたばる気もなかったが、どこへ向かったらいいものか、さっぱり見当もつかなかった。
それからも彼は草をかき分けて進み続けた。すると不意に手に痛みを感じた。見ると手のひらには血が滲んでいた。それから目の前の草を観察すると、草には茨のような棘があった。彼は迂回しようとあたりをうろついてみたが、どこもかしこも棘の草だらけだった。それで進むのを止めて、いったんその場に座りこんだ。
彼はため息をついて服装に目を向けた。囚人用のツナギの作業服みたいな服だったが、標準的なオレンジ色ではなくて白色だった。生地にはすでに、汚れがあちこちについていた。その服の色は、死にゆく者へのお情けなのか単なる規則の一つなのかは分からなったが、追放刑の執行前に当人の希望する色が用意された。コップ一杯分程度の水が入ったプラスチック容器と、一食分の栄養バーが支給されていた。黒い靴もブーツのような、意外としっかりしたものだった。それらは、一種の餞別のように思われた。
ふと彼は自嘲的な笑みを浮かべた。迷わず白色の服を希望したのは、潔白だという当てつけとでも思われただろうかと……。とにかく、まだ先は長かった。どれほど長くなるかということは分からなった。ひとまずは、池なり川なりの水源を探し出すのが目標だった。食料はしばらくなくても何とかなるが、水がなければ数日と持たないのは事実であった。もちろん、容易に見つかるかどうかもよく分からないが、彼は諦めるつもりはなかった。それどころか生き延びて、可能なら地球まで戻ってやろうと思っていた。ただ、どう考えても無謀なことであった。むしろ、遠い未来、系外宇宙へ進出した人類によって、その遺体を発見されるほうが、まだ確率が高いことであろう。
「まあ、いい。とりあえず食事だ」
食料は一食分しかなく、どのみち腹が減っていてはろくな考えも浮かばないだろうということだった。栄養バーは、アルミ蒸着されたビニルの真空パックで包装されていた。中身は長方形に押し固めたクッキーという感じで、味はこれといった特徴もなく、しいて言えばマッシュポテトを思わせた。つまりは、不味くはないがとくに美味くもないということであった。それでも多少は、食べると気力が戻ってくるような思いだった。
彼としては犯罪者を罰することに関して、とりわけ殊勝な考えや感情を抱いてはいなかった。ただ単純に、他の惑星へ追放するということに納得していないだけだった。研究分野は惑星・宇宙環境学というもので、要は惑星の種類を問わず、その自然環境保全にかかわることだった。人類の系内外の宇宙進出において、ミクロからマクロ的視点も含む環境への影響評価や各種シミュレーションをおこなっていた。それで、宇宙規模における環境保全という観点から、追放刑という、他の惑星に無差別に人を送るという行為には、慎重になるべきだという思いがあったのである。
しかし、世界政府の公式見解によると「ドレークの方程式に変わる、“信頼性の高い新公式”を用いた計算によって宇宙において生物が発生するのは、極めて稀であることが判明している。よって、他の惑星の環境への影響などは、さほど問題ではない」ということだった。
もちろん、事前に同僚や知人に相談もしていた。ただ、政府の方針に口出しするようなことはやめた方がいいと忠告されていた。彼にしてみれば多少の左遷は覚悟していたが、このような事態になるとは思ってもいなかった。つまらない正義感でキャリアどころか、人生を棒に振ったと言われてもしょうがなかった。
彼はいつもの癖で、左の手首を確かめた。そこに腕時計は、もちろん無かった。
「時間も分からない……」
仮に時計を持ってたとして、自転も公転も周期が不明の惑星では、役に立つ訳はなかった。ただ、彼としては経過時間は知っておきたいという考えがあった。
「やれやれ、まあいいさ」
彼は立ち上がり、文字通りに茨の道を進むことに決めた。長袖の服で、靴もブーツみたいなものだから大怪我まではないだろうと考えた。しばらく無心になって進んだが、案の定、手は血まみれになった。赤い鮮血は、この白黒写真の中のような世界では異様に明るい色彩に感じられた。彼は立ち止まり、自身の手を見つめた。この世界に動物や生き物はいないのだろうか? もしも肉食の生き物がいたら、血の匂いでやって来たりしないのだろうか? だが、ここに来たときから動物の気配というものをほとんど感じていなかった。鳥も飛んでいる様子がなかった。聞こえるのは、時折風に揺れる草木のざわめきだけだった。突っ立って止まっていてもしょうがなかった。彼は再び進み出した。さほど痛みは感じなかったが、擦り傷だらけの手はどうにも出血が止まらなかった。包帯もなく、白いツナギの服はあっという間に血で赤黒く汚れていった。
ふいに、ある考えが思い浮かんだ。迂闊だった。もしかしたら、この植物どもは毒性を持っているのかもしれない。血が止まらない理由はそれに原因があるのかもしれなかった。だが、周囲は相変わらず茨だらけで、進むしかなかった。あるいは引き返そうかどうかと考え始めたときだった。いばらの絡まった、なにかの死骸と思われるものと遭遇した。ハッとして立ち止まった。よく見るとほとんど白骨化していて、おそらくはなにかの動物だろうということは、容易に見当がついた。よく見ると、似たようなものがあたりにたくさんあった。が、不思議と腐臭は感じなかった。
突飛だが、この茨は動物を捕食する巨大な肉食植物の一部ではなかろうかという考えがよぎった。ここは、捕まった動物の墓場だと。彼の心の内に恐怖がわいてきた。些細な怪我でも出血が止まらなければ衰弱する。仮に草に毒があって、それが体内に入る可能性もあった。そして、茨のツタが伸びてきて捕食されるのかもしれなった。だが彼の恐怖心はすぐに怒りに近い感情に変わった。
「クソっ、構うものか! まだ、くたばる気はないぞ!」彼は喚き、死骸から大きめの骨を一本もぎ取った。
それであたりの茨を蹴散らして、真っすぐに進んだ。顔にも切り傷ができて服も裂け目ができたが構うことなく進んだ。すると突然に茨の原っぱは終わりを告げた。やっかいな場所は通り抜けた様子であった。彼はほっとした思いでその場に倒れこみ、疲労感からそのまま気を失った。