社交
そういったわけで、ついぞ、日本に社交というものがきっちりと根付いていないのは意外でも何でもないが、残念なことである。何が「社交」の語源なのかはわからない。だが、とにかく日本にはsocial, associate, sociologyの「soc-」にあたるものが欠落しているのは確かだ。ゲオルク・ジンメルが形式社会学を構想したときに、その「形式」の最も純粋な形態とした「社交」がない、つまり人と人との相互作用を考えた際にプロトタイプになるものが欠落したまま、言論を行わなければならない、というまことに不幸な状況を我々は生きているということだ。
独立した個人と個人とが対等の立場で、純粋に相互作用することそれ自体に価値を置く、もっと言えば楽しみや学びの場とする「社交」において、twitterにおいてみられるような、ヘイトスピーチを公然と行えるだろうか?相手に面と向かって発言しあう場で「コミュニケーション=ケンカ」モデルなど想定できるだろうか?
こういった社交の場こそ、いわゆる国民的議論の前提であり、世論、公論が形成される前提である。国民世論をコメに例えれば、社交の場は田んぼであり、田んぼもないのにコメが必要だといってもしょうがないのと同様に、社交の場がないのに国民的議論が必要だとか世論が形成される必要があるといってもしょうがないのである。