社会学者の無責任
私がこういうのは、日本に社会学が成立して以来、社会学者が「自分の学説に誤りがあって社会に損害が生じた場合、責任を取ったことなどあったか」という強い疑問があるからだ。もちろんこれは社会学者に限らず、学者・学術関係者全般にも言えることだ。直近の例でいえば、福島第一原子力発電所における事故において、明らかに誤りといえる行動、発言をした学者は多い。それは事故そのものの責任に限らず、様々な決断に関連する発言をめぐってもである。そもそも、自分で責任を取り切れる域をはるかに超越した損害が想定される問題において、「私の言っていることが正しいのだから、あなたは黙って私の言うことを聞きなさい」ということ自体不適切だろう。
また、社会学者のモラルの問題に関しても、社会学者は責任を取ったことがあるか?ということを問いたい。私が修士課程に進んだころ、講座のT教授が女子学生にセクハラをした。学内ではもめごとがあったし、講座で話し合いが持たれたりもした。しかし、研究科当局としては結局停職3か月というまったくもって痛くもかゆくもない「懲罰」が下されることとなった。別の大学の知り合いの学者は、「それじゃあ、いいじゃない。休めるんだし、給料もらえないのはしょうがないわけだし、その間に研究がはかどるよねえ。それ罰じゃないよ、ご褒美だよ」と言っていた。私はそれを聞いて「はあ、まあそうですね」というよりほかなかった。さらに、Tは首都圏の大学に再就職し、今はその系列大学の教授になっている。「まあ、定年が早まっただけだな」というのが印象である。
さて、日本社会学会ではどのような懲罰が下されるのかは私にとって興味深い問題であった。普段は見ない学会ニュースレターなどもざっと目を通し、数年が過ぎたが何もない。またしばらくすると、学会誌『社会学評論』で、Tが書評を書いているではないか。「オイオイ、セクハラ教授に何のお咎めもなしに、執筆依頼してどうすんだよ」が私の所感であった。自分がクソをしてもケツを拭かず、自分のケツはクソだらけのまま他人のケツばかり拭こうとする不可思議な狂人の群れ、それを人は社会学者と呼ぶ。