シラン
夜だ。夜の屋上だ。
何も無い真っ平らを、鉄の柵が囲っている。
長い夢から覚めたみたいに、頭がぼうっとしている。
僕は誰で、どうしてここにいるのか。
そんなことは、今はどうでもいい気がした。
風の吹く音が聞こえて、ふと後ろを向くと、真っ白なワンピースを着た少女がこちらに背を向けて立っていた。
右手を鉄の柵に乗せ、左手には紫色の花束を持っている。
あまり花束にはしないような花だ。
彼女は僕には気づいていないのだろうか、静かに下を見下ろしている。
彼女の目には何が映っているのだろう。
気になって見える所まで近づいたが、そこには夜の街が広がっているだけだった。
僕は、その街の名前を知らない。
冷たい鉄でできた柵さえなければ、彼女は街の光に消えてしまうだろう。
何かを隔てるはずのものが、かろうじて僕らをつなぎ止めているように思えた。
「この街には名前があって、私はそれを知っていたのよ。」
ふいに彼女が口を開いた。
けれども、相変わらず瞳が合うことはない。
「でも、なくなってしまったの。」
「名前がなくなるなんて、そんなことあるわけがないよ。」
「でも、なくなってしまったのよ。」
「どうして?」
「さぁ?でも、そう決まっているのよ。」
信じられないような話だった。
きっと僕は、彼女が言うことの半分も理解していないだろう。
でも、彼女がそういうのだから、きっと全て本当なのだろう。
そう、不思議と納得している僕がいた。
「あなたも私も、いつかはそうなるのよ。
みんなそうなるよう決まっているの。
そしてね、私はただそれが少し早かっただけなの。」
彼女の長い髪が揺れる。
それに見とれていた僕は、慌てて口を開いた。
「いなくなってしまうの?」
「いいえ。どこかに私はいるわ。
あなたにもこの街は見えるでしょう?」
そう言って彼女は、目の前を指さした。
そこには、さっきと何も変わらない街が広がっているだけだった。
このよく分からない事に対する答えがあるんじゃないかと、少しばかり期待していた僕は、思わず小さなため息をつく。
それに気づいたのか気づかなかったのかは分からないが、僕のことなど気にする様子もなく、彼女は続けた。
「きっとね、自分自身は何も変わらないのよ。
変わっていくのは、いつも自分の周りにある物たちの方。あなただって、私の名前を知っていたのよ?」
そんなはずはない。
だって僕はらさっき初めて彼女に出会ったのだから。
互いに名前を言い合った訳でもない。
僕は彼女のことを何一つ知らなかった。
それなのに、どうして彼女はそんなことを言うのだろう。
「ねぇ、忘れるって、きっとこういう事なのよ。」
長い睫毛を伏せる彼女は、泣いているようにも見えた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気がついたら街のネオンは消えて、朝の光が街を照らし始めていた。
もう人が起き始めてもおかしくなさそうな時間だったが、街は忘れられてしまったかのように静かで孤独だった。
はっと我にかえって辺りを見回したが、彼女の姿はもうどこにもなかった。
その代わりに、彼女がいた所にはあの紫色の花束が置かれていた。
風に吹かれて、花びらがわずかに揺れている。
彼女が名前のなくなった街を見ていたように、
あの時、僕は名前のなくなった1人の少女を見ていた。
ねぇ、忘れるって、きっとこういう事なのよ。
彼女の透き通った声が聞こえた気がした。
僕は、彼女の名前を知らない。