それでも彼女は眼鏡好き
告白されてから数ヶ月が経った。あれから穴が開くほど眼鏡を眺め続けられるという苦行を乗り越え、やっと今週も明日、土日を迎える。長期休みでも何でもない時に、学生に与えられた二日間の休日だ。学校に行くことも彼女に会うこともない。一人で時間を自由にできる貴重で贅沢な休日だ。普通の休日がこんなにも嬉しいと感じるくらい、学校生活、主に彼女との時間が苦痛ということだろうか。お弁当を一緒に食べる形も取れてるし、挨拶と、最低限の会話も時々はしている。だけど、いついかなる時も彼女は眼鏡しか見ていない。朝から僅かな十分休み、お昼、帰宅までべったりだ。しかし、その瞳は僕を少しも映さない。そんな視線を浴び続けるのは精神的にきついものがあった。慣れることは出来ないのか……
そこで、思考を遮るようにピンポーンと家のチャイムが鳴る。日課となったお迎えさえも、今は憂鬱だ。彼女はいつも同じ時間にやって来る。それがわかってしまったから支度を終わらせて玄関で待っている自分もいかがなものか。ため息を吐きながら扉を開ける。
「おはようございます!」
扉の向こうには、やはり彼女が待っていた。今日も晴れ晴れとした笑顔だ。
彼女は眼鏡を見てくる。もはやこれ以上の説明はいらないだろう。この一言で完結してしまう登校時間。対して、僕の心内。これまた苦痛の一言で完結する。しかし手を打とうにも、今、この場で活きてくる会話を僕は持ち合わせていない。いつものこと、増してや、どんな場面でもそんなものは持ち合わせていないので、どうしようも出来ないが、何とかしたいという気持ちはある。相手にされなくても、黙りより多少は気分が楽な気もするし。何より明日は休みだ、何を気にすることもなく、休日を過ごしたい。
ここで思いつく。あるじゃないか、今。この状況とは関係ないがこの場で話せる会話ーー彼女のことを知れる話題が。
「橋山さんってさ、土日とか休みの日は何してるの?」
日常会話、相手のことを全く知らないからこそできる王道の質問。この数ヶ月間、こんな質問をした事がないと思うと驚きだが……それが僕たちだ。それに、僕の場合、これを聞かれたら特別答えることがなく、大抵困ってしまう。自分がされて嫌な事は相手にしない、理論が心の中できっと働いていたのかもしれない。
しかし、彼氏(仮)彼女の関係だ、何よりこんなありふれた日常会話をしていないし、これぐらいの質問ならありのままを話してくれるだろう。
「私ですか?そうですねぇーー」
思い出す動作を見せた彼女の視線が眼鏡から外れる。それに普通に会話も出来る。思惑通り、このまま話しながら学校に行ければ完璧なんだが……
「基本的には、家でゴロゴロしたり、眼鏡を見に眼鏡ショップに行きますかね」
でも、っと付け足し、
「今は素敵な彼がいるので……もう行かないです」
こんなにずるいことを平気で言ってくる。あの晴れ晴れとした笑顔で。対象が自分であれば、にやけるほど嬉しいがーー嬉しい訳がない。彼女の言った彼が指すものを僕は知っている。彼女は本当に僕の眼鏡にしか興味がない。時々あるのだ、振った話題で自分が沈む時が。何もしなくても見られ、状況打破を試みたら結果自分が沈む。何をすることも許されない状況で、僕は一方的に傷つく。ーー本当に嫌になる。
「少し良いですか?」
「うん?どうしたの?」
「ひとつお願いがありまして……」
「お願い?」
「はい、今日の放課後……空いていますか?」
彼女から話しかけてくるなんて、珍しいこともあるものだ。本当に時々、次の授業はなんですか等、そんな気軽な感覚で一言二言話しかけてくる。その程度。それに加えてお願いと来た、これはもう嫌な予感しかしない……放課後に何も予定がないことを呪うべきだろうか。それとも、ここは少しでも長く彼女といられることを喜ぶべきだろうか。後者……とはいかない、なんの躊躇いもなく僕は前者を選ぶ。期待して沈んでを繰り返すのはさすがに疲れる。わかりきっている。それでも僕は彼女が好きだ。だから無理をしてでも笑う。
「大丈夫、空いてるよ」
「良かったぁ〜」
気分よく明日を迎えるのは無理だと悟ったーーそれ故、最後の抵抗。彼女の笑顔が見られればそれで良い。彼女が嬉しそうならそれで良いーー
「なにするの?」
ごく当たり前の質問ですら傷つくかもしれない。こんな簡単なことも、手探りで聞かなければいけない程、僕は彼女との会話を普通には楽しめなくなっているのかもしれない。自分を守りつつ、彼女と会話を続けるには、もう、こうやって、一つ一つ大丈夫かどうかを確認しなければならないのか。
「今日の放課後、デートしましょう!」
僕の気持ちとは裏腹に、笑顔の彼女からの予想外の一言である。デートする相手はわかっているし、きっとどこかに出かけて眼鏡を眺められるのだろう。ーー今の僕は、どんな顔をしているだろうか。
ホームルームも終わって人がまばらになった教室、デートに行くと言っていたのに、何故、眼鏡を眺め続けられているのだろう。
「は、橋山さん……デートは……?」
「デートですか? 今してるじゃないですか?」
「これが……?」
「そうですけど……何か?」
質問したことを後悔した。放課後、デートしましょうと誘われたのに、何故いつもの延長線上なのか。正直、予想の斜め上をいかれてしまった。というか、不思議に思ったら、こうするのが当たり前とばかりに返事が返ってきてなお辛い。勉強で疲れきった体にさらなる負担をかけられそうだ。
「そっか……」
「はい!」
彼女の笑顔を見て諦めた。こうなってしまった以上、腹をくくるしかない。今日疲れた分は土日で取り返せばいい。ゆっくり休もう……そうやって僕が折れるしかない。
僕も黙って彼女を見返す。 本当に良い笑顔だ。こんなやりとりを、端から見たら仲睦まじく見えることだろう。
「ほんっと、ムカつくくらい仲が良いようね」
教室に響く声、いきなり僕の心の声を代弁するものが現れた。この場を救う救世主だろうか、それにしては、いかんせん言葉遣いに棘を感じる。笑顔の橋山さんから視線を外し、声の方を見やると、出入口に立つ、一人の少女と目が合った。
「本当に付き合ってるんだ」
僕と、僕の眼鏡を眺める橋山さんを一瞥して、少女が僕に寄ってくる。何か気に触ることがあったのか、その表情は穏やかとは言えない。
「道上、その女のどこが良いのよ?」
毒を吐き、僕を見下す少女。そんな事態にも動じず、眼鏡を眺める橋山さん。 少女の登場により、もっと気まずい空間が生まれてしまった。
そんなことよりも……
「君は……誰?」
「はぁ⁉︎」
いきなりの第三者の登場、そして、僕を知っている感じで近づいて来た。本来なら知り合いで「別に、お前には関係無いだろ」と言いたくなるような場面だが、僕は少女の名前を知らないし、それどころか、今日初めて存在を知った気がする……
「あんた、小中と一緒だった女子の事覚えてないの⁉︎」
なんだと……そんな馬鹿な事があるか。僕が小中と一緒だった女子を覚えていないだと……
「あっ、違うクラスだったとか?」
「ほとんど同じクラスよ……」
「嘘はよくないよ?」
「私を馬鹿にしてるの?」
どうやら彼女は僕を騙そうとしているわけではないらしい。単純に僕が覚えていないということだろうか? もしかしたらそれもあるかもしれない。しかし、少女の見た目は他とは違う。派手すぎない金髪。これだけでも充分にインパクトが強いはずだ。簡単に忘れるわけないだろう。となると……
「イメチェンしたとか?」
「何もしてないけど……本当に覚えてないの?」
「ごめんなさい……」
「はぁ……まぁ良いわ」
険しい表情から一変し、呆れ顔になる少女、でも、悲しい顔をしている様にも見える。事が色々と起こりすぎて頭の整理が追いつかない。というか彼女はこんなやり取りをしているのに何も思わないのか、何故こんなにも眼鏡を眺めることに没頭できるのか。
「で、付き合ってるの?」
「んー、まぁ形上はそうなるかなぁ……」
「どうゆうこと?」
「まぁ……なんと言うか、付き合ってるけど、付き合ってないと言いますか……」
「なによ、はっきりしないわね……」
実は僕の眼鏡と橋山さんが付き合ってます。なんて、そんな惨めなこと、自分から言えない……屈辱じゃないか。仮に言ったとして、理解してもらえるとも思えない。そうなったら、言うだけ損だ。なら、僕がやることはーー
「橋山さんに聞いてよ」
「橋山?」
少女から橋山さんに視線を移す、そこには、僕の眼鏡を眺める彼女がいて、自然と目が合う位置だ。だが今はそんなこと、どうでもいい。僕は逃げの体勢をとって橋山さんにことを丸投げする。
「ねぇ、ちょっと」
少女が橋山さんに声をかけるが、彼女は眼鏡に夢中でこの事態に気が付いていない。話しかけても返事は返ってこないだろう。
というか、気が付かないとかどうゆうことなのか……このままでは橋山さんが突如現れた少女を無視し続けるという、なんとも言えない構図になり、少女の怒りを買うことは間違いない。それどころか、橋山さんの常識が疑われ、悪い噂が流されてしまうかもしれない。 いやまぁ、眼鏡と付き合ってる時点で大切なことが欠如しているのは間違いないであろう。 とりあえず、彼女の悪い噂が広がるのは彼氏《眼鏡》として避けたい。
「橋山さん、お客さんだよ」
「えっ? 誰がですか?」
「なんで道上には反応するのよ……というか、気がついてもなかったの?」
少女の表情がより一層険しいものになる。
しまった、橋山さんに話を振ったのが裏目になったか……
「た、たまにあることだから!気にしないで……」
「意味がわからないんだけど」
慌ててフォローにはいるが、それが気に入らなかったのか、少女の目つきはより一層鋭さを増す。女子がこんなにも怖い睨みができるのかと思う程の眼力だ。僕が悪いわけではないので、是非やめていただきたい。
「それよりもほら……」
こっちこっちと、少女を指差し橋山さんの意識を誘導させる。誘導についてきた彼女の視線が今にも人を殺めそうな目をした少女を捉える。
「あぁ、この方が……誰ですか?」
初対面の相手に失礼極まりない行為である。なんというか、やっぱりこの子は大切なものが欠けている。そして、これ以上少女を煽るのは僕の生死に関わるのではないか……っというか、これは僕が悪いのか……
「と、とりあえず聞きたいことがあるみたいだからさ……聞いてあげて?」
「? わかりましたけど……何の用でしょうか?」
ようやく橋山さんと少女が会話を始める。辿り着くまでが長すぎではないか……もう生きた心地はしない。しかし、それは始まったばかりにすぎない。これからが本題だ。
「付き合ってるんでしょ、あんた達」
「そうですけど、何か?」
「いや、そいつが橋山に聞けって言ったから聞いたのよ。で、やっぱり付き合ってるんじゃない」
そんなこと言われても……僕は付き合っていない。橋山さんと少女の間ではすれ違いが起きている。自分で説明したくないから橋山さんに振ったのだが、それ自体が間違っていたのか。やはり、自分で説明しなければいけないのか……
「はぁ……」
「何よ?」
思わずついたため息に対する少女の声音は、相変わらず鋭い。しかし、こちらも覚悟を決めたのだ。ため息ひとつ、それぐらいは許されるはずだ。
「ちょっと見てて……」
そう言って僕は自分の眼鏡を外す。口で説明するのは嫌だから、行動で示す。猫じゃらしで猫と戯れる、そんな要領で眼鏡を振る。僕の思惑通り、橋山さんの意識が釣れた。左右上下、どこに動かしても彼女の意識はついてくる。
「ほらね?」
少女の顔を見て反応を伺うが、ポカンと口を開けているだけだ。ここで失態に気がつく。今自分が伝えたいことを行動で示そうとしたわけだが、少女にはきっと、眼鏡を左右上下に振る僕と、それを顔で追いかける橋山さんが映ったに違いない。何かのショートコントだろうか、これでは何が何だかわからない。やっぱり言葉で伝えなければいけないのか……
「実は……」
「ふふ……」
観念して真実を伝えようとしたら、少女が笑った。今のが面白かったのだろうか? いや、それだけはないだろう…… 僕の心配をよそに、少女の笑い声は大きくなっていく。
「そっか、そうなんだ……」
ひとしきり笑った後、少女が何か呟いて僕を見た。先ほどの鋭い睨みとは違う、女の子らしい笑顔で。
「橋山って、ただの眼鏡好きなのね。言ってる彼って、眼鏡のことでしょう? まぁ、確かに良い眼鏡よね。私も好きだった……」
少女はひとつひとつ、確認するように僕に伝える。しかし、それは僕にとって、ただ辛いものなので、正解だとは言わない。
「あんた達、付き合ってないんだ」
そして少女は僕の一番触れてほしくない所までたどり着く。ーーたったあれだけのことで。
嬉しそうな顔で僕に真実を突きつける。
「悪かったねーー」
少女から視線を外し謝る。素直に真実を話さなかったことか、不快な思いをさせたことか。どちらだったとしても、心からの謝罪ではない。
結果的に見て、不快な思いをしたのは僕だ。「悪かったね、付き合ってなくて」口には出さなかったが本音はこれだ。謝罪と見せかけた皮肉にも見えるし、一種の自虐行為だろう。
「ごめんごめん、怒らないで」
怒ってはいない、不愉快なだけだ、と伝えるのも馬鹿らしいし、横に首を振った。
「でも、良かった、付き合ってなくて」
何が良かったのだろうか、僕は不愉快だ。そもそもこの子は何なのだろうか。最初はこの場を救う救世主かと思ったが全く違う。今はもう僕をからかうだけの悪魔じゃないか。
「じゃあさ、道上」
もう疲れた、この土日は何が何でも休んでやる。夜更かしして昼過ぎまで寝て……贅沢に時間を使って、有意義に過ごそう。
そんな計画を頭の中で立てていた。眼鏡を見つめる橋山さんも、何が嬉しいのかわからない、この笑顔の少女も無視して。
だが、そんな計画が無意味と化すのはすぐ後のこと。
「私と付き合ってよ」
少女は言った。付き合って、と。いきなりのことで状況は飲み込めない。何を考えていたのかもわからなくなる。全て頭から飛んでいった。ハッと、少女の顔を見直す。そこに、先ほどの笑顔はない。顔は真剣そのもので、真っ直ぐ僕を見つめていた。
「私、あんたのことが好きよ、道上」
この少女は、僕がーー僕自身を、好きだと言ったのだ。
「私、本気だからね?」
そう言って不敵に笑った。
僕は見た、少女の瞳の中に、マヌケ顏で驚く僕が映っていることを。眼鏡ではなく、僕自身を捉えていることを。
慌てて顔をそらし、橋山さん見る。相変わらず、眼鏡を眺めていた。こんな状況になったと言うのに。ふと、彼女の眼を見た。やはり、瞳に映っているのは眼鏡だけだ。
あぁーーこの少女は、橋山さん《かのじょ》とは違う。
こうして、眼鏡好きの彼女と、名前もわからない少女との奇妙な三角関係は始まるのであった。