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次の日も補習だったけど、今度はプールに寄らずに校舎に入った。
照れてるんじゃないよ。ただ、少しだけ恥ずかしいというか気まずいだけで……。
約束してるわけじゃないし、そもそも部活の日じゃないし、
……じゃあ別に私が行かなくても問題ないよね。ほら、プール行ってから校舎に入るのは面倒でしょ。
夏休みなのに今日も補習。明日も補習。
ノートを閉じて机に突っ伏した。
帰りたい。プールに行きたい。いや、涼みに行く目的だけで行きたい。
教室は涼しいけど、私の求めている涼しさじゃない。
「補習、終わったのか?」
ここにいるはずのない声が聞こえて顔を上げると真岡くんがいた。
「いま終わったとこ」
真岡くんは補習がない。部活をやりながら勉強もできるみたいだ。私は成績が悪かったので受けてる。
溜息が出そうになる。
というか、どうして教室に来たんだろう。補習受けないから用事もないと思うんだけど。
「今日は自主練習じゃなかったの?」
夏休みでも部活はあるけど、週の決まった曜日だけ。あとは顧問の許可を取れば個人で練習ができる。
「ひとりだとタイム計れないだろ」
別にそんなにまめに計んなくていーよ。先生に頼めば?
って言葉は心の中に留めておく。だって本当にそうしてしまったら私の仕事がなくなってしまう。
ぼんやりと彼の顔を見ながら別の言葉を探してると机の上に紙パックのジュースが置かれた。
「差し入れ」
「ありがとう?」
「なんで疑問系?」
「……私が貰っていいのかなって思って」
「いーよ」
「急に優しいと怖いんだけど」
「なにそれ」
真岡くんの顔がくしゃりと笑う。
空いた前の席に真岡くんが座って、私の机にビニール袋を無造作に置いた。
「なにこれ?」
「昼ごはん。古川も食べる?」
「食べる。タマゴサンドある?」
「ある」
ビニール袋の中からサンドイッチを取り出して私に渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ガサガサと自分が食べる分のパンも取り出して食べ始めた。
ジュースだけじゃなくてサンドイッチも貰ってしまった。
*
補習三日目。最終日。補習の前にプールに寄ろうとしたら寝坊した。
補習にはギリギリ間に合った。
終わってから、室内プールを外から見る。ガラスなので外からでも中の様子は分かる。
プールの中もベンチも誰もいなかった。
「古川」
呼ばれた方に視線を向けると水泳部の守谷先輩が立っていた。
「守谷先輩」
「そんなところで立ち尽くして、どうしたの?」
「今日は誰もプールにいないなぁ、と思っただけです」
「あぁ。今日は顧問がいないからね、許可がでてないよ」
「そうですか」
それなら用事はなくなった。
帰ろうと歩き出す前に先輩が言う。
「古川は泳いでるのを見るのが好きなの?」
私は笑みを浮かべて返した。頬が引きつりそうになる。
「なんですか、急に」
「いや、夏休みなのによく来るなぁと思って」
先輩はひっかかる言い方をするけど、私は気付かないふりをする。
「補習のついでです」
「古川なら補習受けなくてもいいと思ってたんだけど」
「買いかぶりすぎです」
「そうかな?」
「そうです」
「真岡に会いたくて来てるのかと思ったよ」
意地悪に微笑み、私の顔色を見た。
私はピクリと震えてしまいそうな衝動を抑えるように瞼を閉じて瞬きをする。
「……違いますよ」
敢えて言うなら真岡くんの泳ぎが見たくて来てる。ほら、全然違うでしょ。
「もう、泳がないの?」
背中がひやりとする。心の中の棘が小さくくすぶる。こんなことで動揺するなんて駄目だなぁ。
「知ってたんですか」
「うん。これでも一応、部長だしね」
「そうですね。あまり部活に顔出さないですけど」
軽く棘を含んだ言い方で返してみても、先輩は少し困ったように笑うだけだ。
侮れないから苦手だ。
「うーん。忙しいからね。でも、明日は顔出せるよ」
「明日……」
真岡くんも明日来るのかな。
「ん、どうかした?」
「いいえ。お腹空いたので帰ります」
「そう、また明日」
「はい。さようなら」
*
部活の集合時間を聞いたので来たのに……
「誰もいない」
ぽつりと自分の声だけが響く。立っていても仕方ないのでベンチに移動しようとしたとき、ドアが開いた。
「古川?」
真岡くんが制服姿のまま、顔を覗かせている。
「真岡くん……皆は?」
「二年が講習終わってからだから、集合は昼になるって連絡来なかったか?」
あと、二時間もあるじゃない。
「……来てない」
「おかしいな。部長が連絡するって言ってたのに」
守谷先輩め……。
「とりあえず着替えてくるから」
「うん」
バタンとドアが閉まり再びひとりになった。
外から私の姿が見えたから声を掛けてくれたのかな。
プールサイドのベンチに座って、ぼんやりとプールを見る。キラキラ光る水が反射している。
誰も泳いでいないので水音は聞こえない。あの音を聞きたいな。
ぴたりと、頬に水が触れた。
落ちてしまっていた瞼を開けてそれが真岡くんの手だと分かった。
頬に触れていた指が離れる。水着に着替え終わっていた真岡くんがいる。
いつの間にか眠っていたみたいだ。文句を言われる前に口を開いた。
「ごめん。タイム計るの?」
寝ぼけた視界がクリアになり、彼の表情がはっきりと見えた。
どこか苦しそうに眉を寄せている。
「真岡くん?」
ゆらゆらと水の影が天井で動いているのが見える。もうずっと、見ていなかったような気持ちになる。
「古川は泳ぎたくないのか?」
やめてほしい。そんなに真っ直ぐに私を見ないでほしい。その瞳に吸い込まれそうになるから。
「言ったでしょ、泳げないって」
笑みを貼り付けて何度も言った言葉を口にする。視線を逸らそうとするのに、逸らせない。
「一度も泳ごうとしないんだな」
責められているように聞こえた。中学の頃の私がここにいたらきっと責めるだろう。
どうして泳がないんだ、って。泳がないんじゃなくて、泳げないんだよ。
私は水泳部だった。中学のときは泳ぐことが楽しかった。頑張ったら頑張った分だけ記録も伸びて嬉しかった。私にはこれしかないと思った。もっと泳ぐことが好きになった。
だから、あの時は状況を飲み込めなかった。
「中学三年の夏に怪我をしたの。肩の怪我。大した事なかったし治ったよ。でも、泳げなくなった」
崖から突き落とされたように一瞬で地に足が着いた。泳ぎ方を忘れたように頭が真っ白になった。
息継ぎが苦しくて腕を動かすのが怖くて。
「記録がでなくなった。あんなに毎日泳いでたのに、逃げなくなった。だから逃げた。授業に水泳がなくて、水泳部もない高校を選んだ」
離れたら大丈夫だと思った。泳ぎたくない。苦しい思いをするのは嫌なのに、恋しくなる。
苦しいのに日に日に思いは強くなる。泳げないのに。
「プールに飛び込みたい……」
下を向くと涙がぽたぽた落ちた。水に濡れた髪から落ちた雫のようだ。
不意に、ふわりと体が浮いた。浮いたのじゃなくて抱えられているのだと顔を上げて気付いた。
真岡くんに横抱きにされている。しかも軽々と歩いている。
「真岡くん? これどこに向かってるの? 嫌な予感するんだけど」
落ちそうになるのが怖くて縋り付くと、真岡くんがニッと意地悪な笑みを浮かべた。
「一緒に飛び込んでやるよ」
「え」
ぽかんと口が開いていると思う。考える間もなく、真岡くんが文字通り飛び込んだ。
ふたり一緒にプールに飛び込み、水が大きな音を立てる。視界が水でいっぱいになる。
水を飲み込んでしまったかもしれない。苦しくて口から泡がでる。酸素を吸わないと、と思ったときに大きな力で引き上げられた。真岡くんの腕が水面へと連れて行ってくれた。
「っは」
水面から顔を上げて酸素が入るとゴホゴホ咳き込んでしまった。
「溺れるところだったんだけど!」
息を整えながら怒っているのに、真岡くんは声を出して笑ってる。なんなの、こいつ。
めちゃくちゃじゃない。
「助けたから溺れなかっただろ」
「いやいや、プールに入れたのも真岡くんだからね。助けるのなんて当たり前でしょ」
「うん、いいよ。それで。また溺れたら助ける」
「また、って……」
「記録だとか、部活だからとか、泳げないとか関係なく、飛び込みたかったら飛び込めばいい。プールに入りたかったら入ればいい。好きなんだろ? 見てて分かる。古川はプールに恋してるみたいだ」
ふ、と空気が緩んだ。笑い声が私の口から出て自分でも驚く。
「……恋って。ふふ、」
乙女だ。乙女みたいなことを言う。かわいい。真剣な顔でそのギャップは卑怯だよ。
肩を振るわせる私に、真岡くんは声を荒げた。
「我慢する笑い方、止めろ。笑うなら笑え」
照れてるのか彼の頬がほんのり赤くなってる。
「あはは。ごめんごめん。笑いが止まらない」
あぁ、笑いすぎて苦しい。なにがおかしいのか、もうよく分からなくなってるけど
真岡くんの赤い顔は久しぶりに見た。やっぱり可愛い。
「真岡くん。私、恋してるよ」