華やかなりし頃(Wofagi)
1
西日が差し込む、ガラクタとホコリまみれの生徒会室。柊寛樹はいつもここへ来る度に、うちの学校の生徒会はきちんと仕事をしているのだろうかと感じてしまう。関係者以外立ち入り禁止という文言も、意味をなしていない。そのうえ、今日は呼ばれてここに来たはずなのに誰もいなかった。とはいっても、寛樹にとっては誰もいない方がありがたいのだけれど……。
「だーれだ?」
寛樹は後ろから目隠しをされた。その感触と声色は突然に。胸が高鳴る。頬が熱くなる。
「だぁれ?」
声の主が横山唯だというのはわかっていた、寛樹はわざとそう答えた。いや、名前を答えたくなかった。味気無く名前を言ってしまうと、重なりあった二人の空間が離れてしまうのではないかーーそう思った。
寛樹の中で次の言葉が出てこないうちに、唯は覆っていた手を放した。
「やっぱり横山か」
寛樹は振り返ってそう言った。まだ頬が熱い、紅くなっているに違いない。そのことを考えると、汗が止まらない。頬がもっと熱くなる。
「なぁんだ、柊くんわかってたんだー、まあいいや。で、なんでここにいるの?」
「何で、って……横山が『理科がわからないから助けて〜〜』って言うから僕がここに来たんだろ?」
「あたりでーす。よくできました。あと、びっくりしてた柊くん、めちゃくちゃ可愛かった」
きっと全部、見破られたのだろう。
中学三年生の夏の終わり。寛樹は学区トップの名門進学校を、唯は二番手の高校を目指している。福筑館高校と香住城南高校。略して『福高』と『香住』。旧帝大や国公立の医学部に毎年合格者を多数輩出し、古くは藩校の流れを汲む福筑館は、地域の憧れの的だ。その県で過ごすなら一生自慢できるほどの響きと魔力を、『福高』は持っている。
寛樹の個別指導は淡々と進む。二人で横に並んで座って、唯がつまずいたら寛樹が助け舟を出す。唯の方ではどうかはわからなかったが、寛樹は指導を淡々と進めたつもりだった。いや、そうでなければならなかった。唯に心情を悟られたくなかった。今にも溢れ出しそうな、寛樹の中にある火照った感情。
個別指導が終わりに差し掛かった頃。
「明日は、古文お願いしていい?」
「えぇ……明日も?」
「まぁまぁ、そんなに冷たいこと言わないでさ」
「古文ぐらい自分でやれよ……」
「つれないなぁ、もぉっ。さっき顔真っ赤にしてたこと、みんなに言っちゃおっかなー」
「あぁわかったわかった。明日もここに来ればいいんだろ?」
「うん! よろしくおねがいしまぁす」
気が進まないふりをしていたものの、寛樹の心の内は嬉々としている。何よりもまたこうして二人で過ごす機会が、自然と作られたことに。
二人は生徒会室を出た。エアコンの効いた室内に居たせいか、西日のきつい廊下はいつも以上に蒸し暑く、寛樹の体に汗を含んだ制服のカッターシャツがまとわり付いた。昇降口まで、寛樹は唯を見送った。橙色の光が差し込む昇降口。
「じゃあ、僕は書道室に戻るよ」
「うん。じゃあ明日もまたよろしく。柊くん」
「じゃあね」
そう言うと唯は、アキアカネが飛ぶグラウンド沿いの道を歩き出す。寛樹は放り出した卒業制作に再び取りかかるために、書道室に戻った。
いつから唯の魅力に取り憑かれるようになったのだろう。寛樹は廊下を歩きながら考えた。
初めて寛樹と唯が出会ったのは、春の生徒総会のときだった。特にこれと言って何かの実行委員を務めたり、行事に深く関わったりした覚えはないものの、寛樹はなぜか生徒総会の議長に選ばれた。そのときの唯は、寛樹にとっては、単なる生徒会役員の庶務に過ぎなかった。しかし、総会本番までの残りの日にちが一週間を切った頃、寛樹は見てしまったものがあった。
ーー唯が、階段の踊り場で泣いていた。
「大丈夫……?」
「ほっといて!」
「でも……」
「いいから!」
唯の剣幕に押されて、寛樹はその場を離れた。職員室で生徒総会の担当教員との話を終えて、駐輪場に行こうとしている途中のことだ。
自転車の鍵を外した寛樹は少し迷ったものの、しばらく学校に残ってみることにした。そのまま帰ってしまっても、おそらく誰も困ることはない。むしろ、その方が普通だろう。しかし、寛樹は唯を放っておくことができなかった。良心からか偽善からかはわからなかったけれど。
曇り空ーーもうそろそろ雨が降るかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら待っていると、昇降口から泣き跡を顔に浮かべたままの唯が出てきた。真っ白な頬に、薄いピンクの唇、艶のあるセミロングの流れる髪、奥で輝く、それでいて妖しさのある黒い瞳をもった切れ長の目……そんな顔に、唯は泣き跡を浮かべていた。永遠に残るほどの、一刹那ーーどれくらいかはわからないけれども、寛樹は唯に見とれてしまった。唯は視線に気づいたようで、そんな寛樹の方に歩み寄ってきた。寛樹は我に返る。
「どうしたの?」
「あ。いや、さっきのことが心配になって……」
「へぇ、優しいんだねぇ。そういうとこ、いいと思うよ」
「あ、うん。それはよかった。ありがとう。それで、さっきはなんで……?」
「あれはね……」
会話をしながら、寛樹は唯の魅力に圧倒される。口調は今にも舞い上がりそうで、発する一つ一つの言葉は短く、途切れ気味だった。
踊り場で泣いていたのは、体育委員長の坂之上康平の荒っぽい物言いが原因だとわかった。寛樹と康平は幼稚園からの付き合いで、普段から下の名前で呼び合うほどに仲が良い。話を聴いているときにも、少々唯が敏感すぎるのではないか、と寛樹が感じる部分が何度かあった。しかし寛樹はそんな気持ちを押し殺して、唯に寄り添って話を聞いた。康平に対する申し訳なさを、心の中で薄々感じながら。
話は弾んだ。お互いの日常生活の愚痴、恋愛事情、そして、高校受験のことーー。
気まぐれで色恋沙汰が多いということを前々から音には聞いていたが、そのことだけしか知らなかった寛樹は、実際に話してみて噂とは違った印象を受けた。
唯は、学区二番手の香住城南高校を目指しているらしい。正確には、姉が香住城南に行ったため、親から目指すように半ば強制されているようだ。二番手と言っても、寛樹の目指す学区一番手の福筑館高校とはかなりの偏差値の開きがある。香住城南を目指すには自分は実力が足りなくて無理だ、と唯は自分で言った。しかし、寛樹はそうは感じなかった。春の初めなんて、まだまだ努力次第でどうにでもなる季節だ。それに、自分の目指す『福高』に比べれば、『香住』は遥かに受かり易いーー寛樹にはそう思う節が少なからずあった。
「まだ春だし、今からでもまだ間に合うんじゃない?」
「全然間に合わないよ。私、内申点も低いし……」
「そんなの本番のテストでどうにでもなるだろ……」
「じゃあさ、柊くん『福高』でしょ? 私に勉強教えてよ!」
「あ、ああ。別にいいけど……本当に僕でいいの?」
突然の個人レッスンの依頼に、寛樹は戸惑う。しかし、こうして唯の方から親密になる機会を設けてくれるというのは、寛樹にとって好ましい事態であることに違いはない。寛樹は、こうして唯の受験勉強に付き合うことになった。
会話をしながら自転車を押しているうちに、唯の家の前に着いていた。
「じゃあ、来週から教えてもらっていい?」
「ああ、りょーかい。でも、書道のほうでちょっと遅くなるかも」
「そんなこと、全然気にしてないよ?」
「そいつはよかったよ。じゃあまた明日……」
「うん!生徒会室でまた」
別れ際に見えた、唯の柔らかな笑顔。寛樹は自転車を漕ぎ出した、春の心地よい風と共に。
雲の切れ間に、光が射した。
寛樹は書道の大会前や生徒会の忙しくなる行事前を除いたほとんどの日に、生徒会室に通うようになった。総会関係の仕事が全て終わり、寛樹が生徒会にとって『関係者以外』の存在になった後も。寛樹が現れると、幼なじみで二年生の庶務の野畑香苗からはいつも
「寛樹くん、今日も唯さんだね?」
そう言われることが当たり前になるほど、寛樹は生徒会室の『常連さん』になっていった。
実際のところ、行事前でない限りは、一部を除いてほとんどの役員は生徒会室にあまりいることがなかったから、寛樹と唯の二人きりになることは何度かあった。香苗が気を利かせて二人きりの空間を演出してくれることもあった。
しかし、寛樹は自分から唯に想いを伝えることが出来なかった。意気地なしと言われてしまうと、一つの答えとして間違いではない。しかし、それだけではなかった。唯には余裕さえ感じさせたものの、寛樹も福高を狙うにはかなり危うい成績だったのだ。唯との一時の色恋沙汰よりも、寛樹の中では『福高』の響きの方が格段に魅力があった。わざわざ落ちる理由を自分から作る必要はない。それに、どうせ入試までこんな関係が続くだろうから、それが終わってからでも遅くはないーー。
寛樹はそう考えて、これまでの日々を過ごしてきた。
作業を切り上げて、寛樹は帰り支度を整えた。書道室の鍵を閉める。吹奏楽部の練習する音が遠くから聞こえる帰り道。グラウンドで騒いでいるのは、サッカー部だろうか。もうほとんど日が沈み、空は橙色から濃紺の美しいコントラストを描く頃。街に、明かりが灯る頃。
2
ある日のこと。
「やったぁ!私、『香住』B判定出たよ!」
寛樹が生徒会室に入ろうとすると、唯はもう合格してしまったかのような声色で報告する。夏休み明けの模試の結果が帰ってきたのだ。夏休み前までC判定とD判定の間を彷徨っていた唯にとって、今回のB判定は大きな進歩だった。
一方の寛樹の『福高』はというと、今回もまたC判定だった。B判定とC判定を行き来している寛樹にとって、この時期のC判定の連続は焦りが増す結果であった。
「よくがんばったね……、Bは今回が初めてでしょ?」
「うん。私夏休み頑張ったからね。柊くんはどうだった?」
「僕はまたC……。今回は自信があったんだけどなぁ」
「それでさ」
「ん?」
「私から提案があるんだけど」
「何?」
「もうさ、この勉強会終わりにしない?」
「いきなりそんな……、一回目のBなんて、まだまだこれからだよ?」
「でもさ、柊くんの判定上がらないのって、私に教えるせいで自分のしたい勉強が出来てないからじゃないかなって思うの」
「でも、他人に教えることも勉強になってるから……」
「でも柊くんが『福高』落ちたらなんか私、申し訳ないし……」
「うーん……、わかったよ。横山がそれでいいなら」
たった一回の模試の結果でまるで立場が入れ替わったかのような態度を取る唯に、寛樹は不快感を覚えた。第二志望に書いた香住城南のA判定が、なおいっそう寛樹の解せない思いを強固なものにした。
しかしその苛立ちだけならば、これからの苦悩を寛樹は何も感じずに済んだのかもしれない。
寛樹は、わき上がる感情を抑えて書道室へ向かった。
3
あの日から、寛樹くんがこの部屋に来ることは全くありませんでした。それもそうでしょう。私が寛樹くんと同じ立場で、唯さんにあんな態度を取られたならば同じようにするはずです。寛樹くんは間違いなく、唯さんのことを誰よりも大切に思っていました。
そして私が思うに、唯さんにも同じ気持ちがあったはずです。いや、『気持ちがあった時期があった』という方が正しいのかもしれない。
唯さんは、気まぐれで物事を考えすぎていました。
4
どうやら、唯が元バスケ部の西尾と付き合い始めたらしいーー。
そんな噂が寛樹の耳に入ってきたのは、卒業制作を終えて書道部を引退し、木枯らしが吹き始める頃。知るきっかけとなったのは、廊下であった香苗との会話だった。
「最近、唯さん生徒会室来ないんだよねー」
「へぇ、家か塾かなんかで勉強してるんじゃないの?」
「いや、多分そんなことはないと思う。『家より生徒会室の方が集中できる!』って言ってたぐらいの人だから。それに、あの人塾行ってないし……」
「図書室とか教室にいるんじゃない?」
「それが、図書委員の子に聴いてもいないらしいんだよ。放課後の三年二組は、吹奏楽部に練習スペースとして割り当てられてるし」
寛樹と唯は、所属クラスが別々の棟にあるため、あの日以降一度も会うことが無かった。今はもうほとんど関わりが無いとはいえ、かつては恋慕の情を抱いていた相手の異変が、直感的ではあるものの気にかかった。
下校の道すがら、寛樹は康平との話題にそのことを上げてみた。
「そういえばさ、康平」
「あァ?」
「香苗から聞いたんだけど、横山最近あんまり生徒会室にいないんだってね」
「お前まだ横山のこと気にしてんの?」
「え、いやまぁ……、あれだけ相談に乗ったり、一緒に勉強したりしてたし……」
「まぁ、そうだよなァ……。あいつ今、西尾と付き合ってるらしいぞ」
「……!」
その一言に、一瞬に、寛樹の頭の中ではいくつもの感情が交錯した。
二番手とはいえそこそこのレベルの高校を目指しているのに、こんな時期に恋愛だなんて狂気の沙汰じゃないのか。こんなことになるなら、あの日はもっと粘るべきだった。唯が、自分の手元から完全に離れてしまった。思いを伝えるチャンスなんて、幾らでもあったじゃないか。ーーそれに、何故西尾なんだ。どうしてあんなにどこにでもいるような低能な奴なんだ。
寛樹にとって西尾は、ただ顔が良いだけのどこにでもいる馬鹿に過ぎなかった。寛樹の目には普段から『粗暴な奴』としか、映っていなかった。言動に品がなく、偏差値も低い群れることだけが能の低俗な屑。そして、その西尾を選んだ唯にーー独りよがりなものであるけれどもーー寛樹は裏切られたという落胆、それに怨嗟の念を抱いた。
5
唯さんは何故寛樹くんを差し置いて、あんな下らない男を選んでしまったのでしょうか。
私がどれだけあなたに嫉妬していたか、あなたには全くわからないでしょうね……唯さん。
私は、あなたと寛樹くんが一緒にいる空間にいて、二人が仲良くなっていくことを観るのが耐えられなかった。もしも出来ることなら、私にあの春の初めの日々の夕暮れ時を返してほしい。いつもそばに寛樹くんを感じることが出来ると少しでも私に思わせた、あのひとときを。
6
痛みを感じさせるほどの冷たい空気が広がる頃。寛樹と唯は、自習室代わりの図書室の廊下の前で、偶然再会した。志望校決定のための最後の模試の結果が返却された日だった。
「久しぶり」
「うん……、最近どう?」
「僕は『福高』今回A判定出たし……、悪くはないかな。横山は?」
「私も『香住』Aが続いてるから、行けるんじゃないかな。それにね」
「何?」
「私、『福高』B判定出たんだよ」
「いつのまにそんな……。成長したなぁ」
寛樹はその言葉を信じたくなかった。こんな愚かしい女に、ついこの間までの自分と同等の成果が出せるはずが無い。寛樹は、自分の中の『福高』の持つ高尚さや、自分の『福高』に対する理想が破壊されることを恐れた。
「それで……志望校上げるの?」
「いや、私はこのままでいいかな、って……」
「でも……『福高』だよ? 挑戦して落ちたとしても、悪くはないと思うんだけど」
「もう……」
「え?」
「もう、いいから! ね? お互い、好きなところに行こうよ」
そう言うと唯は、図書室の中に先に入り、足早に長机に向かって歩き出した。唯の向かった先を寛樹が目で追うと、そこには西尾がいた。唯は、気まずそうにこちらを見た。
唯はこちらのことをずっと気にしているようだった。馬鹿じゃないのかーー寛樹はそう思うと同時に、唯のような存在に気持ちを振り回されていたことを自嘲した。なぜあんなに『粗暴で単純な』西尾を選んでしまうようなーー愚かで、浅はかな女に。唯のそばにいる西尾を見ているときにも、寛樹は苛立ちを覚えた。飢えた犬のような目、ざらざらとした砂嵐のような声質、汚らしく地べたを這いずり回るような雑音の笑い声……。存在そのものが不快以外の何物でもない。
唯と西尾が小声で何か話しているようだ。時々、こちらに視線が飛ぶ。僕のことを話しているのだろうか。下品な口調で、汚い声で西尾は僕のことを話しているのだろうか。ここは図書館だぞ。静かにしろよ。僕の平穏を、静寂を、集中をお前の存在で乱さないでくれ。
それに、どうしてお前なんだ。お前なんかを選んだ唯も唯だ。問題集を見ながら阿呆みたいな眼をしやがって。間抜けのように口を開けるな、息を止めてやろうか。いつもの勢いはどうしたんだ。横山の言うことが理解できないんだろう? それは全部僕が横山に教えてやったことなんだ。そうやって愚鈍な顔をして、いつまでも醜態を晒し続けてるといいさ。
小一時間経ったあたりで、二人は何処かへ行った。
7
薄暗い部屋の中で。
「ーー私が、柊くんに一時期特別な感情を抱いていたのは、事実です。きっと彼もそれは同じだったに違いありません。しかし、いつしか私は柊くんのものの考え方に、付いて行けなくなってしまいました。肩書きが無くても良い、無教養でも良い、まわりのどこにでもいる女の子のように過ごしたい……。両親も姉も柊くんも、私の本心を理解出来ませんでした」
「その後、彼と何かありましたか?」
「高校の入学者説明会の後に、私は柊くんに会いました。私は、そのとき付き合っていた人と一緒にいたのですが、私たちを見る柊くんの眼が、未だに忘れられません……」
「なるほど。一緒にいたというのはというのは、被害者の西尾さんですね?」
8
高校入試が終わった。寛樹は『福高』に無事合格した。しかし、唯は『香住』に落ちた。唯と西尾は同じ私立の高校の特進コースと進学コースに、それぞれ通うこととなった。
唯と西尾は、入学者説明会が終わり遊びに行こうとしているときに、寛樹と遭遇した。
「久しぶり……」
「ああ、そうだね。制服似合うね……」
「ありがと……。『福高』、合格おめでとう」
「それはどうも……」
西尾は、退屈そうに携帯電話を扱う。二人の間に、沈黙が広がる。
「黙るんなら早く失せろや、あァ? それにその眼はなんだよ、気持ち悪ぃ……」
痺れを切らした西尾の乱暴なしゃがれ声に急かされて、唯は会話を切り上げた。
粗暴な奴め。『恥晒し』という言葉を知らないのか? お前の目、お前の声、お前の動作、お前の存在全てがお前にとって恥なんだぞ。わからないだろうな。横山も言ってやればいいのに。お前なんかに馬鹿にされる僕の気持ちがわかるか? 自分に馬鹿にされてみればわかるさ。ああ、今すぐにでもお前を殺したい、殺してやりたい、横山を解放して楽にしてやりたい。でも憎いから、やっぱり横山も西尾と一緒に、死ね。
三人は、同じホームにいた。暫くして、電車がやって来た。
「ーーまもなく1番のりばに18時42分発、新快速岡川行きが12両で参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側まで、下がってお待ちください」
9
ーー僕は『福高』に受かった! お前たちとは違うんだ。ははは。アハハハハハ。あハハハハハハハ……。もっと聞かせてくれ。奏でろ。止まるな。その汚れた呻き声が僕への賛美歌だ。もっと歌え。弱まるな。この星空のもとで響かせろ。終わったら、きっちり出演料は払うさ。大サービスですぐに休みをくれてやるよ。おい! 演奏をやめるな! 指揮者の言うことを聞け! 僕の振る指揮が見えないのか? ならもっと大きく振ってやるよ。まだクレッシェンドはつけられるだろ? いいぞ、そうだ。そうでなくっちゃ。眼をもっと見開け! 指揮が見えなくなるぞ。なんなら僕が開けてやろうか! ははははは…………………………!!!!!!
10
「……続いてのニュースです。昨夜未明、神山県赤鶴市内の公園内で、中学校を卒業したばかりの男女が刃物で斬りつけられる事件が発生しました。駆けつけた救急隊員の報告では、一人は死亡、一人は意識不明の重体です。二人はノコギリのような刃物で何度も斬りつけられており、警察では、同じ中学校を卒業した同級生の元男子生徒を容疑者であるとして、取り調べを進める方針です。現場となった公園には……」
この事件は、ワイドショーや週刊誌を大きく賑わせ、生徒の間でも大きな話題となりました。生徒会長である私は、校長や教頭をはじめとした首脳陣や、生徒会担当の教員、生活指導担当の教員と共に様々な方面への対応を迫られました。
私の小さな頃からの夢を叶えてくれるーーそう私にほんのひとときの幻想を抱かせてくれて始まった戯曲は、ある少年の猟奇的な犯罪という結末で幕を閉じました。世間の格好の話題の種となって、全ての場面は終わったのです。
私は生徒会長を任期途中で辞任しました。耐えられなくなってしまったのです。あの事件が起こってからの激務による精神的な苦痛に、そしてあの頃の面影が残る生徒会室にいることに。
前よりも下校時刻が早くなって、私は夕暮れ時に家路に着くようになりました。時々、道ばたや公園で遊ぶ子どもを見ると、ふと記憶の奥底にある一風景が思い起こされるのです。もう二度と戻ることが出来ない、私にとっての理想郷。もう二度と会うことの出来ない、ちょっと変わっているけれど、とても優しい一歳上のお兄ちゃん。
「かなえー」
そう呼ぶ声が、聞こえた気がします。どこかで私と同じ名前の子を呼んだのでしょうか、それともーー夕日を浴びて地面に伸びた私の影が、そう思わせたのかもしれません。




