第六話 ~大樹の神露~
薄く明るく、大樹は立っていた。
蛍たちが集まっているのではなく、光がほとんど届いていない渓谷奥地においても、しっかりとした枝葉を実らせて、そして自ら光を放っていたのだ。
近づくと、まるでそのものが発生源のように、柔らかい風が頬を撫でる。魔族を退ける効果もあるのだろうか。小悪魔一匹すら、近くに気配を感じない。
「これが風神の大樹……。綺麗……」
「大きいね」
神秘さに言葉も出来ないジャンヌの隣で、ジルは素直に思ったことを口にしている。語彙の少なさはご愛嬌ではあるが、それでもそれ以外に言葉が出てこないというのが、彼らの共通の意見だ。
「ずーっと昔から、この渓谷を支えてきたんでしょうね」
もしかしたら、天までも届いているのではないだろうか。まさか、とは言えないほどの巨木に、ジャンヌはゆっくりと近づいていく。
そして、雨が降っているわけでもないのに、てらてらと光を反射する新緑へそっと手を伸ばした。
「……本当に効くのかしら」
「試す前から疑っちゃダメだよ」
困った笑いを浮かべたジルの下へ、ジャンヌが手に掬った風神の大樹の露を持っていく。
蛍瓶の明かりに照らされて、美しい鏡面のように光を返す露は、まるで真水のように透き通っていた。
「キレイだねー」
「良いから早く飲みなさい。こぼれるから」
「え、でも……このまま?」
「はやく」
「……うん、わかった」
ジャンヌの両手にたまったそれを、ジルは少し戸惑いながらも口をつける。ほのかに甘い香りがする神露は、体内に入ると不思議な冷たさが涼風のように全身へ行き渡った。
「……どう?」
「……どうとも……ないね」
「そっかぁ……」
ジルは右手を見比べてから返事をした。もしかしたら、封印装具が効果を遮断しているのかもしれない。しかし、これは魔術や物理攻撃の影響を受けないという代物。薬効まで防いでしまうとは思えない。
ということは、効果がなかった。という結論で間違いはないだろう。
「けれど、この露は毒とか病魔を浄化してくれる効果があるみたいだしね。今後、役に立つかもしれない」
「それもそうね。ここまで来て何も収穫なしじゃ困るもの。少々失礼しますね、ご神木様」
一礼してから彼らは、小瓶にご神木からの賜りものを入れていった。数本、瓶が満つるまで入れてコルクを閉める。
全くの徒労に終わらなかったことだけが、成果だろうか。二人は、場を後にした。
そんな帰り道である。
「……!」
「ジャンヌ」
「わかってるわ」
風神の大樹を背にして数分ほど。二人は、前方で起こっている事象に警戒するため足を止めた。
遠目では、炎がゆらゆらと……いや、それよりもっと激しく、上下左右に移動をしている。
「……なんだろう。魔術による炎なのは間違いないけど……」
「そうなの? じゃあ、なおさら危ないわね」
遠くに居ても、ジルは魔術が発生しているかどうかがわかる。文字通り、肌で感じ取れるのだ。
以前なら誰がどのようなものを使っているか、まで感じ分け出来たのだが、第零式封印装具により極端に魔術を矯正されているため、その感覚すら鈍くなってしまっていた。
「……! こっちに来るわ!」
「うん! 気を付けて!」
「はぁあああああ!!!」
言葉を交わしている最中に、既にその炎の持ち主は突貫してきていた。叫び声をあげながら、手に持っている……あれは、剣だろうか。鈍色をした刃を、二人に向かって振り下ろそうとしていた。
「ふっ!」
少ない明かりの中であろうと、ジャンヌには関係がなかった。手に持つデュランダルで、微量の強化と持ち前の動体視力の良さで、太刀筋を見切る。
防ぐのでもなく、避けるのでもなく。ジャンヌは、相手の刃に対して攻撃をしかけた。それも、まるで軽くいなすかのように、デュランダルをちょいと持ち上げる程度の最小の動き。ただ、それだけにも関わらず、振り下ろされた敵の剣は、根元から綺麗に折れてしまった。
「はあっ!」
動揺し、炎の魔術ごと発生を止めた敵の腹部へジャンヌは蹴りを入れる。適度な距離を保とうと入れたその衝撃は、運よく敵のバランスを崩すことにも成功する。
間髪入れず、ジャンヌは軸足を踏み込み、転倒した相手の首元へと刃を振りぬいた。
「待ってジャンヌ!!」
「ひっ!? ちょっと、ジル!!」
と思われた、ジャンヌの攻撃は寸でのところで停止する。
ジルが、ジャンヌの身体を抱え込むようにしたからである。無論、今のジャンヌの能力だとジルに止められるわけもない。しかし、それでも彼女は、ジルの言葉と行動に対して、鋭敏な判断を取ってくれたのだ。
「な、何よ?」
「何? じゃないよ、よく見て!」
「? ……あら」
ジルが、ジャンヌの肩越しに蛍瓶を突き出す。
そこに照らされて出てきたのは、風の里の住人であり、現 風の精霊ヴァーユの双子の妹である、ヴァータだった。
ゆったりしたあのシルフ族の服ではなく、銀製の軽鎧を纏っていた。手には、先ほどジャンヌが折ってしまった、片刃の剣がある。
「び、ビックリしたー!」
「ご、ごめんなさい、いきなり襲ってきたものだから条件反射で……」
「あの、どうしてヴァータさんがここに?」
「姉さんにー、そのー……あ、コホン。うん。いや、姉さんに採集を頼まれましてな」
驚いてしまったせいで、うっかりと一族の口癖が出てしまっていたヴァータは、恥ずかしそうに咳払いをして整えなおす。
どうやら、何か頼まれごとをされてこんな奥深くに来たそうだ。
「いえいえ。しかし、流石というか当然というか……凄い武力をお持ちになりましたね、ジャンヌ様は。以前お会いした時とは、まるで別人だ……いやはや。人の持つ成長力には驚かされます」
「もー、褒めても何も出ないわよ」
「はは。そうですね。して、成果はいかがでした?」
二人は黙って首を振る。
ヴァータ自身もあまり見込みがないことを姉から聞いていたからか、仕方ないように頬笑をした。
「私も用事を先ほど済ませまして、ちょうど帰還しようと思っていたところなんです。運悪く、魔族の群れに出会ってしまいまして、警戒していたが故にこのようなことに……大変失礼しました」
「そうだったのね。あたし達も同じように勘違いしちゃってたわ。ごめんなさい」
「いえいえ。常に戦闘態勢であるならば仕方のないことですよ」
「じゃあ、せっかくだし一緒に帰りましょう。その……剣も折っちゃったしね。一人じゃ危ないわ」
「はい、是非とも。……ところで、いつまでそうしておいでで? 歩きにくいと思うのですが」
「え? あ、もう、ジル!」
「ご、ごめんよ」
慌ててジルはジャンヌの身体から離れた。そういえば、後ろから抱きつくような姿勢でずっと話していた。
改めて、密着していることに恥を覚えたジャンヌは、頬を少し赤らめながら怒っている。ジルは、単純に邪魔だったことを咎められたと思い、一人で反省していた。
「ははは。姉さんも言っていましたが、相変わらずお二方は仲が良いですね」
「茶化さないでよ、もう」
「……そうだ。ところで、先ほどから風魔軽鎧を使用していませんでしたね。まぁ、ここに住まう魔族程度なら使わずとも、ジャンヌ様なら問題はないかと思いますが」
「あぁ。そうそう、それも帰ってから話しておこうと思ったのよ。それがね……」
と、ジャンヌは風魔軽鎧がどういう状況なのかを話し始めた。
――――。
「えー? それはないよー」
「そうなの?」
無事に帰宅した三人は、すぐさま風の精霊ヴァーユへその話をした。ヴァータが、件の内容を聞いて違和感を覚えたからである。
制作したのは、ずっと前の世代のシルフ達で、管理を任されていたのは代々シルフの族長、風の精霊と決まっていた。なので、ヴァータはあまり風魔軽鎧について詳しくはなかったが、それでも変だ、ということだけはわかったのだ。
「だってねー、風魔軽鎧ってのはー、えーと、認識型ー、変異ー、魔装ー」
「……長いよ、姉さん。そうです、ジャンヌ様。風魔軽鎧は、認識型変異魔装結界なのですよ」
「え? に、認識がた……何?」
「そっか、風魔軽鎧ってそうなんだね。道理で自己修復とかするわけだ」
「つ、つまりどういうことなの?」
何やら難しい言葉を、ジャンヌを除く三人が飛び交わせている。誰かが口を開くたびに、ジャンヌがそちらを見て、何とか理解しようとするが、全くもって頭に入らない。
話題の中心なのに、話題に入れないのが悔しくて、結局どうすればいいのかをジャンヌは問う。
「認識型変異魔装結界っていうのは、自分が最初に認識した物質の形を作ってくれる、結界の一種なんだ。風魔軽鎧の場合は、望んだ形の軽鎧を作ってくれる、魔装……つまり、防具の形をした結界だってことなんだ」
「うんうん」
「多分だけどー、ジャンヌちゃんー。風魔軽鎧ってー、もしかしてー、壊れたりしなかったー? それもー、すっごくー!」
「えぇ。魔王との決戦で、そりゃもうボロボロになっちゃったわ。胸部装甲なんて、砕かれたし、籠手なんて一個、消し飛ばされちゃったし。残念だけど、もうほとんど使い物にならないと思ったわ」
「つまりは、その時のイメージが強すぎるんですよ。これはもう使えないと思ったので、顕現が出来ないわけです」
「………………?」
考え込むようにしたジャンヌは、少しの沈黙の後、助けを求めるようにジルを見た。
「こっち見ないで。これぐらいは理解できないと、政もまともに出来ないよ。そんなので良いの、姫様」
「わ、わかってるわよ! じゃー、何? つまり、あたしが勝手に壊れたと思ってるから、風魔軽鎧も出てきてくれないってわけ?」
「そうだよー。風魔軽鎧はー、一度ー、使用者がー、認識したー、通りのー、姿をー、覚えててー、くれるからー、大丈夫だよー」
「新品同様の、あの美しいままの風魔軽鎧を思い強く念じつつ、魔力を開放してください。結界、というように、風魔軽鎧はいつだってあなたの傍に居ます。後は、呼びかけるだけなんですよ」
「わかったわ。やってみる」
ジャンヌは数歩下がり、三人と距離を空けた。
そして、瞑想してイメージを作り出す。
額をしっかりと守る、中央にエメラルドの嵌められた銀のサークレット。メタルシルバーの肩当、白銀の胸部装甲。動きやすいように、何枚もの金属が重なった波形の籠手。ベルトの代わりにもなっている、スカートを覆う草刷り。膝先が研がれ、刃にもなっているレガース。
全てを、初めて顕現した時と同じように魔力を込めて、鮮明にイメージをする。
優しい風がジャンヌを包みだした。そして、身体を守るべき部分へと収束を始める。何かを形作るように、回転をしていった風たちは、果たしてイメージ通りの軽鎧を、見事に作り上げてくれた。
「……ホントだ。出来たわ!」
「ねー? 言ったとおりでしょー? 結界はー、イメージなのー。ジャンヌちゃんがー、自分のものだとー、思ってる限りー、風魔軽鎧はー、ずーっと一緒だよー」
「良かったね、ジャンヌ」
「ええ。本当に……良かった。ありがとう、風魔軽鎧。あなたはずっと、傍に居てくれたのね」
ジャンヌは、懐かしむように身体に装着した結界たちを眺める。冒険の始まりから、ずっと彼女と共にいた、付き合いの長い戦友なのだ。
「ところで姉さん、頼まれたものはこれで良かった?」
「あらあらー、すっかりー、忘れてたわー。うんー、ありがとうー、これでいいよー」
感動の対面をしている後ろで、姉妹は何やら別の話を始めた。
どうやら、ヴァータが渓谷奥地へと向かわせた理由の代物を、姉へ渡しているみたいだ。その手にあったのは、蒼色のコケと、真っ白な木の皮。それと、瓶詰にされている紅色の液体だった。どれも、魔術式を使用する為に必要なものである。
「えーとー、これをー、こうしてー……」
その素材と、白い布を用いてヴァーユは作業を行った。持ち帰ってきてもらった材料をすりつぶし、布へと染み込ませていく。最後に、瓶の液体を人差し指に浸して、布に魔術を込めつつ摺りつけた。素材同士が反応するようにして、生地に読めない呪詛が瞬時に刻まれていく。
完成したそれは、間違いなくジルが腕に巻いている、第零式封印装具であった。しかも、三束もある。
「ジルちゃーん。ちょっとー、こっちにきてー」
「はい?」
ジャンヌの久々の鎧姿に見とれているジルを、風の精霊は呼び寄せる。
「あのー、これー、あげるねー」
「え……。これは……良いんですか?」
「うんー、もちろんだよー」
「ありがとうございます。でも、なんで……」
「勝手なー考えだけどー、もしかしたらー、この先ねー、封印装具がー、足りなくなるんじゃー、ないかー、ってー、思ったのー」
「それは……」
「良いんだよー、ジルちゃんー。だってー、さっきよりー、腕の包帯がー、ちょっと多くないー?」
「!」
「急速侵食はー、それを取っちゃったー、時にー、起こるんだよねー。何があったかー、わかんないけどー、あんまりー、無理しちゃだめだよー?」
「…………ご厚意に感謝します。ヴァーユさん」
「えへへー。良いんだー。ジルちゃんがー、一生懸命ならーそれでねー。大丈夫ー、ジャンヌちゃんには内緒だからー」
ジャンヌは後ろでヴァータに風魔軽鎧を見せつけていた。元々、この里の者の宝なのだから、そんな失礼な行為は……と思いきや、ヴァータは羨ましそうに、けれど非常に無垢な笑顔でその勇姿を眺めていた。
「あー、それとー。大樹様のー、露でもダメだったならー、今度はー、テッちゃんのところにー、行ってみたらー? 力になってくれるとー、思うよー?」
「テッちゃん……?」
渓谷奥地から帰ってきた時の様子を見ただけで、ご神木の効果がなかったと判断したヴァーユは代案を立ててくれた。
「水の精霊のー、テティスちゃんだよー。三角島にー、居るんだー。どこの島かまではねー、ごめんー、忘れちゃったー。でもー、そこの人にー、聞けばー、多分ー、すぐわかるよー」
「三角島……か。ありがとうございます。実は、今ちょうど、次にどうすべきか相談しようと思っていたんですよ」
ついでに、ジルは蘇生術について何か聞こうとしたが、頭の中で考えるだけに留めておいた。生命を再び生き返らせる超高度な秘術があるなら、転生の呪いくらい解けるものだろう。多分、この相談は風の精霊には適していない。
「そうだったのー。良かったー。んふふー。これからー、とーってもー、大変だろうけどー、頑張ってねー。あとー、たいしたー、力になれなくてー、ゴメンねー」
「そんな……封印装具まで頂いたんですから、有難いことこの上ないです。お世話になりました」
「あらー、ありがとねー。こちらこそー、ですよー」
深々と跪き、ジルは礼を言った。ヴァーユも小さな身体で、大きく頭を下げていた。
ヴァータとはしゃいでいるジャンヌの背中を押し、お邪魔しましたと告げて里を後にする。
次に向かうは、ミズホ。海を越えた先の、島国だ。