第四十話 ~さいごの決意~
「そん……な……」
降り立ったケイヴロップスの首と同時に着地したジャンヌは、肩を落とした。
やっと、魔族の進撃が落ち着いた頃だったのだ。
ジルが、光球を生み出してくれたことも知っている。成功した時点で声をかけて、共に喜びの声をあげたかったくらいだ。
少しは息をつける。そう安心しかけた時だった。
ジャンヌも、確かに見た。見てしまった。今の状況を、起こった結果を、燦然と広がる現実を。
「門が……開いた……」
膝の力が抜けそうになるのを、懸命にこらえる。落としそうな肩を必死で奮い立たせ、地を見そうな顔を、歯を食いしばってあげる。
絶望が脳内を包むけれど、わずかに残った希望でジャンヌは戦いに挑む。
ジルが、ミッシングを成功できればいいのだ。
その後、残った魔族を駆逐する。それから、混沌の輪廻を発動させればいい。それだけ。
それだけなのに……。
「うああああ!!」
声をあげて、ジャンヌは突貫した。
最高等魔術の二重詠唱ですら困難なのに、更に発動を重ねているなら、いくらジルでも攻撃や防御の魔術は使えるわけがない。
守らないといけないのだ。人間の希望を、自分の大事な人を。
風よりも早く、衝撃波を巻き起こしながらジャンヌはジルの横を飛びぬけた。
我先にと飛び出してきた、狼魔族の群れを駆逐し、空からジルへ向かう女型妖魔を光の刃で墜落させる。
地面を這いずる軟体魔族を足で踏みつぶし、魚人型魔族を、斬り伏せながら剣の柄で殴打していく。
想像を絶するスピード、パワーでジャンヌは、目に映る魔族をとにかく蹴散らしていく。歯を食いしばり、許容範囲を超越する運動量で息も荒く動いていく。
守られているジルは、もちろんのこと彼女を信じている。
背後の魔族の気配が途端に薄くなったのは、きっと前方に跋扈する強大な魔族の群れに当てられたからだろうか。理由はなんにせよ、それだけはありがたい。
けれど、けれども。
ジルは、考えを改め始めなければならない状況になっていることが十二分に理解できていた。
ふと、風の刃が飛んできた。
魔法陣の発生で揺らめいていた黒いマントが切り裂かれる。折れた牙が、頬を掠める。熱気が靴を焦がして、冷気が肌を強かに打ち付けていく。
今の場所から、一歩でも動けばきっとミッシングは途中で解除されることだろう。
二つ目の球だって、まだ出来ていない。時間は三十分近く経過している。
悩む。
少しでも戦線かは離れれば安全だろう。
だが、動くことは集中を解いて最初から詠唱を開始する、ということ。
残りの魔力を考えると、最善ではない。
そもそも失敗が許されない状況、今ここで引くことは、作戦の失敗を意味する。
撤退は出来ない。灼炎の鎚印は、もうないのだ。
再度、第零式帯状封印装具を巻いたとして、もう意味はなさないだろう。
予測の範囲ではあるが、呪いの浸食速度や威力そのものを実感として経験のあるジルにはわかる。アグニの言っていたように、頭や心臓など急所に近くなるほど効力は増すのだから。
チャンスはない。
でも、状況は良くない。
「……ジャンヌ」
名を呼ぶ。
聞こえないだろうけれど、それでも。
装甲の隙間から、流血をした勇者が戦っていた。
何度も壊される結界型の鎧を再生しながらも、魔王を破る力を持つ聖剣を振るい、たった一つの目的のために、命を賭して。
強いのはわかってる、弱いとは思ってない。しかし、数の暴力を退けられる道理はなかった。
真っ直ぐで、諦めないで、純粋に。ジルがミッシングを完成させることを、信じて死線に身を投じている。
世界のことが、多分二人にとって最も重要だ。
英雄と言われているのだから、その責任を果たす義務がある。倒れた者たちへの義理がある。
今、ここで魔族に対して決定打を撃てるのは自分たちだけだ。
しかし、ジルだって人間である。
目の前で、大事な人が少しずつ少しずつ、ゆっくりと生命を削られている姿を見て何も思わないわけがない。
自分の身を犠牲にしてでも、守ってあげたいと強く思っている。
恋人の命と世界の命運、その二つの最重要事項が頭の中の天秤で揺れている。
(…………そうか。そうだね)
脂汗を流し、苦悶の表情を浮かべて悩んでいたジルの顔が途端に、安らかになる。
方法は、ある。あったのだ。
それに目を逸らしていただけで。
無理じゃない。不可能じゃない。
ジャンヌも、世界も、同時に救える方法が、ここにある。
それは自分にしか出来なくて、自分じゃないと達成できない、とてつもない偉業。
光栄に思おう、名誉だと考えよう。
無理矢理納得するしか、奮い立たせることは出来ない。
とても、とても残酷な選択。
(そうするしか、ないもの)
息を吸った。空気が肺に届き、不要な物質が口から吐き出される。
身体が別の物になったような、新鮮な感覚。
後悔はした。未練はある。泣きつきたい。諦めたい。
それらの、負の気持ちを『覚悟』に切り替えると。
ジルは切り替えた。心を、考えを、魔術詠唱そのものを。
光の球が消える
最後の詰めに出していた、地の魔法陣だけは消さずにそのままで。
「臆するな。汝を抱くは母なる大地……魂は煉獄へと導かれん!」
詠唱をする。それは、ミッシングを唱えるためのものとは、全く異なる。
地魔術の、最高等に位置する必殺の大魔術だった。
「グラウンドクラッシャー!」
魔法陣が展開霧散する。放たれた魔力が、詠唱を糧に魔術へと変遷する。
大地が揺れ、ひび割れていく。ジルを発端とした、エネルギーの流れは前方の一群へ直行する。
「!」
波動を感じ、流れを身に覚えたジャンヌが猫のような鋭さで感づくと、瞬時にその場を飛び出した。巻き込まれないように、全力で全速を絞り出して危険地帯から抜けだす。
取り残された魔族の群れは、獲物の居場所を探してキョロキョロと目を凝らす。感覚器を使って、ジャンヌの居場所を特定する。
ジルの下に、既にいることを確認して再び飛びかかろうとした時だった。
突然、穴が開いた。非常に広大な円形の闇。
吸引力も発生するそれは、空を飛んでいた魔族すらも大口に呼び込んでいく。
全てではないが、目に映っている範囲の魔族がほぼ入っていったのを確認したと同時に、穴は出てきたのと同じぐらい突然に、閉じた。
骨が砕ける音、血の吹き出すような音が、大地が揺れる鳴動にかき消される。ジャンヌが、一度瞬きをすると、そこには何の変哲もない、先ほどと同じ地面が形成されていた。
「よし、これでひとまずは立て直せる」
「ジル」
「まだまだ奥からやってくるよ、ジャンヌ。気を付けて! 僕が注意を引くから、君は」
「ジル!」
前だけを見て、作戦を続けようとするジルの肩をジャンヌが強く握った。
引っ張っても、ジルは前を見続けている。
顔を動かさず、けれど身体で話を聞くスタンスを取っていることはわかった。
「……ミッシングは?」
「……時間との戦いに負けたって感じかな。ごめん、未熟で」
「出来るの?」
「出来るよ。出来ないなら、君を助けたりはしなかった」
「どうやって? いくらジルでも、最高等魔術の連発は無理なぐらい知ってるわよ」
「……」
「……何を……考えてるの?」
「世界の未来についてだよ」
「未来?」
「君を守り、世界も守る。たった一つの、打開策。リスクはあるけど、無理じゃない」
「それは?」
「……」
「ジル、こっちを見て言ってよ!!」
今度こそ、強引に、無理やりにジャンヌはジルを振り向かせた。
魔王の物であるはずの紅い瞳は、酷く濡れていた。
人を家畜程度にしか見ず、殺戮に身を任せる悪の化身の所有物であっても、体現者が違うだけでこうまで変化するのか。
頬を伝い、流れている涙は同じ色。無色透明、玻璃の大粒。
口を歪ませ、力を入れ、それでも尚、前を見ようと決意をした表情。
「ジル……?」
「…………」
ジルは目を逸らした。冥府の外門を見据える。
一度は消えた魔族の群れが、また再び徒党を組んでやってきていた。
ジャンヌの身体を見て、流れる血液や負った傷を確認する。
連戦は無理だろう。これ以上戦えば、風魔軽鎧を纏っているとはいえ、身が持たない。
魔術師のジルは、身を守る術ならいくらでもある。
けれど、ジャンヌと同時に守るのは難しいだろう。
単なる雑魚の群衆ならまだしも、魔界で成長し、更に餓えに餓えた獰猛な精神の凶暴化した魔族ばかり。
「だから……」
「え?」
「だから、僕は……」
「ジル……?」
「どうしても、君だけは生かしたい」
伝える。
「世界が平和になった暁には、幸せに生きて欲しい」
話す。
「僕のことを忘れて欲しくない」
願う。
「その為に、生きていて欲しい」
「ジ……ル……」
「ジャンヌ」
流した涙を振り払い。
最後に残った、決意以外の大事な感情を、気持ちを込めて。
「さよなら」
「ジルッッ!」
発生させた、白い転送魔法陣がジャンヌを包み込んでいく。
魔族の気配が強すぎて遠くまではいけないかもしれないけれど。
今よりは安全な所へは行けるはずだ。
後は、ガイア様を頼って。
無事に、君だけは帰ってくれ。
最後の最後に見えた、ジャンヌの顔が苦痛に歪んだ険しい顔だったのだけが心残りだけれど。
後悔はしない。過去は振り返らない。
ただ、今、ここ、この場所で。
王家に選ばれし、聖なる心身を持つ、最高位に座す、名のある魔術師として。
責務を全うし、世界を救う。
「それだけだ!」
ジルは、遂に枯れた涙をこすると、魔術を使用する。
魔族の群れが届く前に、せめてまずは門だけは。
腕の封印限界時間が来る前に、コントロールが効くうちにやらなければ。
「久遠、氷空の彼方。英知、理を超えたその先へ」
魔法陣が展開され、重なって光球となる。
「森羅万象、天地万物。其の真意は、虚にして空」
二つ目が出来ると、それは空中に浮かび上がる。
「我が唱うるは、絶対にして究極の殲滅象意。何人たりとも、何物なれども、波動の先を見据えることは叶わず」
光と闇の魔法陣が交わり、最終段階に入る。
「始めよう、終わりを告げよう。生きとし死せる、神魔の子らよ」
三つの光球が完成し、詠唱に応じて回転すると、更なる虹色の魔法陣が形成してていく。
小山ほどもある高さの外門を覆い尽くすほど、広大で強大で巨大なそれから穿たれる……
それこそが!
「ミッシングッ!!!」
ありったけの魔力を込めて、残された精神力を全て擲つ覚悟で放った、究極の魔術。
七色の魔法陣が瞬くと、前方に向かって真っ白で巨大な光線が伸びていく。
土も、壁も、そこにいる魔族も、開いた門すらも。
抵抗すらなく、抉るように、削り取るように、誰にも何にも邪魔されず、不自由なく一直線に。
まるで、最初からそうであったかのように、残酷なほど美しく光の柱が全てを消し去っていく。
発生が終了し、次にジルが見た目の前の景色は、洞窟だった。
今まさに作られた、広がるとてつもない横穴。
聖剣でも破壊できない外門は、跡形もなく消え去っていた。
「やっ……た……!」
小さく拳を握るジル。
疲れ果て、辟易し、膝を落とす。
ふと、目が、身体がそこを注視した。
破けた衣服の端から見える、腕を伝う黒い影。
せき止めてくれていた、彼にとっての……最期の希望。
灼炎の鎚印が、役目を果たし終えると
儚い夢かの如く、霧が散るように……静かに消えて行った。




