第三十一話 ~聖少女の泉~
目を開けると、異様に薄暗い空間だった。
ああ、そういえばここは穴の中だったっけ。ベッドが想像以上にふかふかだから、うっかり忘れていた。
消えかけた蝋燭の火を頼りに、ジルは視線を横へ移動させる。
そこには、ジャンヌが小さな寝息を立てて眠っていた。
外が見えないので確認できないけれど、体感時間は朝のはずだ。
相変わらずお寝坊さんだ、と優しく笑う。
ゆっくりと立ち上がって、ジルは大きく伸びをした。清々しい気分だ。今まで溜めていたモノを、全部吐き出したんだ。変に自分を抑えていたけれど、そんなものはただの杞憂。少し勇気を出すだけで、何もかも思い通りになるはずだったのだ。
朝の優雅な時間を過ごしたいのは山々だけれど、自分たちは急ぐ身だ。いつまでも、こんなとこに居てはいけない。
旅支度をしようと、ジルは歩き出した。
……清々しい気分だと、先ほど言った。その言葉に、一片の嘘偽りはない。
いや、それどころか清々しすぎる。涼しすぎる。土中なので、地熱により寒さは感じない作りのはずだ。だのに、体中に、皮膚に、異様な冷たさを感じる。所々に点在している小さな通風孔から洩れるにしては、空気を機敏に感じすぎる。
なんかおかしい。ジルは身体を検めた。
「……ッ!!」
慌てて旅用の麻袋へ飛びつく。固く縛った口を解いて、中にある物を漁っていった。この際、布きれでもいいから、急いで探す。
几帳面な性格が幸いだったようで、ジルはすぐにそれらを発見して身に纏うことを完遂した。
そう、彼は起床時に衣服を一枚も着ていなかったのだ。
チラリと、背後で眠るジャンヌを見る。
寝返りをうったのか、シーツが肌蹴るようになっている。こちらに背を向けるような姿だけれど、それだけですべてが理解できる。
彼女もまた、同様。一糸纏わぬ姿だった。
忘れたわけじゃないけど、夢見心地だった脳内が突然覚醒する思いだった。何をどうしたか、まで思い出すと失神しそうなので、ジルはとにかく外へ出ることを決意する。
梯子を上り、重たい鉄蓋をゆっくりと開けて、上半身だけ乗り出す形で周りの様子を伺った。
予想通りに、世界は朝を迎えている。太陽の通りにくい森の中だけれど、角度の浅い日光が差し込んでいることがハッキリわかった。小鳥のさえずりが聞こえるのが本来だろうが、魔族の多いこの森にはあまり野鳥は生息していない。
魔族は朝や昼よりも、夜に活動期を迎える種類が多い。戦士ほど鋭敏ではなくても、気配を探知できるジルは、自分たちの周囲に敵がいないことをしっかりと確認した。
旅立つなら早い方が良い。体力も……少し消耗しているが、移動には差し支えない。再び蓋を戻すと、ジルは洞穴の中へ戻っていった。
「……あ、起きたんだ。おはよう、ジャンヌ」
ジルは何気なく挨拶をした。
鉄蓋の蝶番が錆びていたので、どうしても大きな音が鳴ってしまうのだ。気配探知スキルが発動したせいで、反応して起きてしまったのだろう。
シーツに包まり、俯いてブツブツと何かを唱えるようにして赤面しているジャンヌをしり目に、ジルはそそくさと再出発の支度を始めた。彼の耳も、当然真っ赤に染まっている。
「……さて、ではジャンヌさん」
「な、なに?」
上ずった声の返事を無視して、ジルは今後の予定を告げていく。
「僕らはこれから、死滅の凍山へ向かいます」
「ええ」
「アグニ様から、凍死しないようにお守りをいただきました」
「うん」
「これがあれば、以前のように保温の魔術結界を張らなくても、防寒具なしで登山できます」
「わかったわ」
「けど、そのために一つ条件が」
「なに?」
「服を着てください」
柔らかい繊維の物体がジルの顔面にぶつかった。
まあ、こうなるだろうね。心の中でひとりごちて、彼は投擲された枕で顔を隠したまんま背を向けた。
衣擦れの音をしばらく耳に入れ、止んだのを見計らってジルは行動を再開する。自分の荷物を確認し、ちゃんと松明やろうそくも鎮火させる。
貰った鍵は、曰く施錠したら傍の木の根元に埋めておけばいいらしい。掃除の際に取りに来るそうだ。こんな森の中に、あんな老いた女性がこれるなんて、一体どういうことなんだろう。と、疑問に思いながらも、指示通りに遂行していく。
「さて、じゃあ行こうか」
「あ、待って。ジル」
土を払って、今度こそ足を東へ進めようとした時だった。ジャンヌがふいに口を挟んできたのだ。
「どうしたの?」
「行く前に、聖少女の泉に寄っていかない?」
「ああ、そうだね。そういえば、そうしないとダメだった」
「?」
「必要なものが、多分そこにあるんだ。だから、行こうか」
「ええ」
歩き出したジルは、違和感を覚えた。いつも、先を行くはずのジャンヌがそこに居ない。勇み足で、先導するのが彼女の常だ。
けれど、今は違った。
ジルの横にぴったりとくっついて、腕をからませるようにして手を握っているのだ。
「あの?」
「……ダメ?」
「……魔族が来たら、離れようね」
「うん」
存在を確かめるように、一層握る力を強くして、二人はゆったりと進んでいく。幸いなことに、道中で魔族に遭遇することは一度もなかった。朝方の時間ということが幸いしたのか、それとも神様のささやかな祝福か。それは誰にもわからない。
ルアンから東に真っ直ぐ進んだ場所に、この森林地帯はある。そこを突き抜ければ、すぐに、死滅の凍山だ。
けれど、今の二人は森の南東に居る。そこから、少し北へ向かっていくと開けた空間に出るのだ。
直径一キロにも満たない、小さな泉。風が起こっても決して波紋の立たない、不思議な水面は鏡のように周りの風景を映している。
泉を中心として不可侵域となっているので、一帯には護るようにして青々とした大樹が育っている。
過去に、ジャンヌはここで聖剣デュランダルを手に入れた。
こんな泉に、一体何があるのだろう。常人ならば、そう考える。
何より、不可侵域というのは意味を違わずそのままで、ジルだって水に触れることは叶わない。ここは、男子禁制なのだ。
更に、正しき心、勇敢な精神、清き身体。心技体のすべてが、聖人に値する女性でなければ、何人も入水出来ないのだ。
ジャンヌは、それを認められた。泉に住まう、妖精に。
「あら、ジャンヌとジルじゃん。おーい!」
やはり今日は運がいい。
滅多に姿を見せないという、泉の妖精ヴィヴィアンにすんなり出会えたのだ。
彼女は、この聖少女の泉に住んでいる小さな妖精だ。概念に近い存在なので、実体はない。いつの間にかここに居て、気の遠くなる時間を聖剣に選ばれし者を待つ為に消費していた、一途な妖精なのである。
銀色の長い髪に、血管すら浮いて見えそうな白い肌。精霊たちと同様のキトンを羽織り、ふわふわと羽根もないのに浮いている小さな少女。くりくりの赤い目や、筋の通った鼻はあどけなさと大人っぽさの双方を演じている。ジャンヌたちより外見上は全然年下だが、風の精霊であるヴァーユ達を優に超える年齢を重ねているそうだ。
「ヴィヴィアン! 久しぶりね!」
遠くで見かけたので、ジャンヌは少し大きな声をあげた。手を振っていたので、ジルの手を放して振りかえす。そして、以前そうしたように、当たり前の如く泉へ入っていく。
「え?」
はずだった。
前回は、何の障害もなく水に触れることはできた。道に迷っていた際に、単なる水分確保の為に寄ったのだが。
そこをヴィヴィアンに見つけられ、この水に入れる女性こそ聖剣を持つにふさわしい至高の人物。そう言われて、デュランダルを授かったのだ。
もちろんのことだが、ジャンヌはデュランダルの所有権を失っていない。ちゃんと右手には印があるし、ちょいと魔力を込めれば顕現できる。
けれど、聖泉には入れなかった。
見えない壁に阻まれるように、決して先に進むことが出来ないのだ。
「な、なんで?」
「……ぷー! あはは! なにそれ!? ジャンヌ、入れないの!? ウケるー!」
子どもっぽい性格は相変わらずだった。浮かんだまま、ヴィヴィアンはお腹を抱えて笑っている。困惑し、若干絶望してくず折れているジャンヌの後ろで、ジルは顔に手を当てて黙っていた。
「ひー! おかしー!」
「ちょっと、ヴィヴィアン、どういうこと!? どうして入れないのよ!?」
「えー!? ホントにわかんないの? そりゃまたおかしーよ! わはははは!!」
「ちゃ、茶化さないでよ!」
「ぷくく。後ろに居る、大事な大事な旦那さんに聞いてみれば? ジルはわかってるみたいだし……ふふ。なにそれ、すんごい笑える……!」
笑いのツボが異様に浅いヴィヴィアンは震える声で、その説明をジルに譲った。自分ではおかしくて言えない。だから、任せると。
「ジル!?」
「……あー……うん。ホントに、わからないの?」
「わからないわよ。だって、あたし聖剣使えるのよ? 入れないなんておかしいじゃない!」
ジルは相変わらず手で表情を隠していた。そっぽを向いているし、よそよそしい。けれど、指の隙間から見える彼の顔は、何故だか少し紅潮していた。
「よく考えて、ジャンヌが選ばれた選ばれないは、今問題じゃないんだよ」
「……?」
「ここは、聖少女の泉なの。それ以上は、僕だって言いたくないからね!」
ぷいっと背中を向けて、ジルはそれ以上何も言わなかった。ヴィヴィアンに揶われることが容易に想像できたから、せめて少しでも現実逃避するために。
「聖少女の泉だから……なんなのよ。資格者が入れないなんて道理は……」
「ジャーンヌ」
「何よ」
「ホントにわからないの?」
「わからないわ」
「ホントのホントに言ってる? 一目見ただけで、あたいはわかったんだけど?」
「?」
「鈍感すぎるわー、あんた。ホント面白い! ジルが言ったように聖剣の選定者とかそういうのは一旦忘れて! この泉に入れる条件を、もっかいよーっく思い出してご覧なさいな」
「えーと……何だったかしら……。確か……正しき心……勇敢な精神……清き身体……あ」
ジャンヌは、気づいた。
そして、もう一度小さく呟く。
「清き……身体……?」
「あははははは!! つーか、今更って感じだけどさ! 今頃って! ダメ、お腹割れちゃう。うはははは!!」
耳元でひたすらに笑うヴィヴィアンを、ジャンヌは殴りつけた。泉の妖精は、物理的な体を持たないのでそれは空振りに終わる。
それがまた嫌らしい。何をしても、彼女の笑いを止めることはできない。
「いついつ? 魔王やっつけてから? その後? そ、れ、と、も……昨日とか?」
「ヴィヴィアン!」
「わははは!! そんな怒っちゃ、やーよ! まったくもー。ほんで、何しにきたのさ?」
空振りに終わる虚しい拳を受けながら、ヴィヴィアンは涙の出る目じりを拭いつつ、やっとのことで本題に入った。
ジャンヌやジルとは、浅い関係というわけではない。少し休憩がてらに、色々と身の上の話をし合った仲なのだ。ユアラシム大陸に居るはずの二人が、こんな僻地に来るのは異様なこと。それぐらいは、とっくに気づいていた。
だから、ジャンヌは話した。来たのは単なる寄り道だけれど、大きな理由をもって旅をしていることを。
「……そ。ライル……居ないんだ」
「……」
ヴィヴィアンは、概念の存在だし寿命も永遠と言ったって差し支えない。泉の水が無くなれば、死と同じ意味を持つが、水自体が聖なる守りに保護されているので魔族だって容易には手を出せない。
いつ、だれがこの泉を作り、そしてデュランダルを祀っていたかは誰も知らない。神の所業、としか他に説明がつかないのだ。
そんな、大層な場所に住まう彼女は友達なんて呼べる他人がいなかった。危険な魔界に近い場所だから、誰も寄りつかない。知り合っても、みんなヴィヴィアンを残して先に死んでしまう。それは悲しいけれど、一人でいることの方がずっとつまらない。
だから、彼女は異様なほどに笑いのツボが浅いのだ。些細なことでも、笑って楽しめるように自分を変えていったらしい。
そんな数少ない友人の一人、ライルが死んでしまった。
悲しすぎる報せは、何よりもヴィヴィアンにとってショックだったのだ。
「でもね、今から地の精霊様に会って、ライルを生き返らせようとしているのよ」
「そうなの? どうやって?」
「生成る死錬って儀式を完成させるの。そうそう。その為に必要なものを、ちょうどここに取りに来たのよ」
物音がしたのでジャンヌは振り返った。
そこには、真っ赤な花を握っているジルが居た。
「ゼイラム?」
「ええ。あれがないと、ダメなんだって。あたしもさっき聞いたばかりなんだけどね」
紅い菱形の花弁を六枚と、真っ白で丸い柱頭が特徴的な、頭状花序の一輪はとてもとても、大事なものなのだ。
「覚えてる? ライル、この花好きだったわよね」
「忘れてないよ。あんなゴッツイ身体のくせに、可愛い花が好きなんて変なのーって笑ってたもん」
「ええ。生成る死錬は、死者にとって大切な記憶と、大事な依代となる物が必要なの。遺髪とかあればよかったんだけど……」
遺髪どころか、ライルには遺体だって存在しない。ベルクが死亡――――正確にはジルに憑依した後――――すると、魔岩窟は崩壊を始めたのだ。呪いによって、衰弱するジルを引っ張ってライルの死体を担ぎつつ逃げる力はなかった。
血の涙を流しながらも、ジャンヌ達は脱出したのだ。だから、何も残っていない。遺せなかった。
代わりとして、彼がとっても気に入っていたこのゼイラムの花を使おうと決めたのだ。
世界中どこでも生息するありふれた花だけど、だからこそ、どこでも心が落ちつけられる。ライルはヴィヴィアンにそう語っていた。
「そっか。ところで、ガイア様の居場所はわかってるの?」
「死滅の凍山のどこかだとは思うけど……ジル、知ってる?」
「一番大きな山の頂……って言ってたね」
「アバウトなのは相変わらずなのね。そんな簡単じゃないはずだけど……。じゃ、教えてあげるからよーく聞いてよ?」
ヴィヴィアンは懇切丁寧に、死滅の凍山のことを話した。
じっくり時間をかけ、知っている情報をすべて授けるかのような想いで、ひたすらに語っていく。
それは、ヴィヴィアンなりの精一杯の気持ちだった。
ライルのように、大事な友達をまた失いたくない。二人がこれから行おうとする儀式が、どういうものなのかも熟知しているからこそ、安全に安心して進んでほしかったのだ。
正直言えば、無茶で無謀なことをしようとしている二人を、まず真っ先に止めたかった。生成る死錬の成功確率を、単なる統計としてだけど知っているから、それを根拠に止めるよう説得したかった。
でも、ヴィヴィアンだってライルに会いたい。二人はそれ以上に思っているはず。
真っ直ぐで、正しい心を持つ、聖剣に選ばれし者をどうして止められようか。
懸命さがとてもとても嬉しくて、ジャンヌもジルもしっかり耳を傾けていた。
この後に待つのは、厳しく壮絶な現実。
だからこそ、この大事な友達の友情を、心配を、一心に受け止めていきたい。太陽の光が、真上を過ぎても続く話だったけれど、一つも嫌な想いはしなかった。
必要な話をしっかりとしつつ雑談を交えながら、束の間の楽しいひと時を三人は過ごしたのだった。




