君のためには
実在の人物を扱っていますが、この物語はフィクションです。
君のためには(森禰一左衛門陳明についての小説)
森禰一左衛門陳明は、濃い眉と深沈とした黒い瞳を持っている。
文鎮でも飲み込んだように肝に重みをたたえている顔つき。
元桑名藩公用人。今の立場は、箱館の新選組改役であり、森常吉と変名している。この新選組には諸事情あって、多くの桑名藩士が参加している。
明治二年四月初頭。この時森は44才である。
当時としては若くない。
その彼が、長い上り坂を登って、桑名藩主松平定敬の御座所の神明社についたとき、額が少し汗ばんでいた。
箱館は、こんな時期に梅花が盛りである。
「禰一左衛門、元気そうで何よりである。」
次の間に控えた森に、床の間を背にした定敬が、やや甲高い通る声を掛けてきた。
(お若い…。)ふと、平伏した頭の中で森は思った。主君はまだ23才である。
定敬が、森にもっと近寄れと招いた。
「薩長の者共、いよいよ近づいて参ったようだ。皆の様子はどうであろう?」
「万端、怠りなく備え、精励してございます」
そうか、とも定敬は何とも答えなかった。
代わりに、庭を案内してやる、と先に立って外に出ていった。「もっとも儂の庭ではないが」と、定敬は言い添えて、肩を落とすように微笑した。
函館山は別名臥牛山とも呼ばれるが、この山の湾側のふもとに神明社はある。
弓なりの函館湾の海岸線が美しい。ただ、臨戦の海である。砲を備えた船が浮かんでいるのが見えた。
左目の視線の角に、湾の守りの要である弁天台場が見える。
あれが、森や、他の新選組の者達の持ち場である。或いは、死に場所となるかも知れない。
「儂は、箱館を出ることにした」
「そうでございますか」
森は、別に驚かない。予想していた事である。
昨年末から、老職の酒井孫八郎が桑名からわざわざ箱館を訪れて、三カ月の間、榎本武揚や土方歳三にその旨について働きかけていることを知っていた。
酒井は、慶応3年1月に、藩内をまとめて桑名城を無血開城させた、功臣である。
これが弱冠24才。見た目には婦人のように線の細い若者である。
初め彼が箱館に訪れた当初から、定敬はその要請に反抗していた。定敬は戦線を離れるつもりがなかったのである。
また、箱館軍の総裁榎本も、桑名藩士20名を預かる新選組の土方も、酒井の要請には応じなかった。
しかし結局の所、いよいよ敵が近づいてきたこの段で、榎本も土方も、定敬を桑名に返すことを決断した。
桑名に、というが、それは官軍への定敬の謝罪降伏を促しているにほかならない。
「藩主とは、不都合なものだな」 彼としては、明治政府に謝すべき罪などないと思っている。
幕府と彼等の間で政見の相違があったときに、幕府の京都所司代として、かれは彼の信じる正義のために、誠心誠意努めていた。国を思う気持ちは、いま官軍を名乗る彼等に劣るとは、決して思っていないのである。
身に憶えのない罪のために彼等に頭を下げるくらいならば、どこまでも戦い抜きたいと、ついには箱館にまで来てしまっている。
その定敬に従って、桑名藩の者達も、江戸、北関東、北越、会津、庄内、そして箱館と、一年の余にわたって転戦を続けてきた。
「まったく不都合だな」 先ほどの口調より、少し声が曇っていた。
転戦の間、犠牲が皆無だったわけではない。多くの藩士が命を落としていた。
それもこれも、藩主としての自分の意志に従ってのことであれば、まったく不都合な存在だと、ときどき定敬の胸は痛む。
「殿…。決して。我らの思いも僭越ながら殿と同じ。誰もここまで来たことを悔やんだりいたしておりません。殿がこの箱館までもいらして下さったことも、みな、喜びとし、励みといたしております。おそらく、庄内に在る者もそうでございましょう」
森は、定敬がふともらした自責の言葉を、暖かい声で否定する。
「また恐らく、泉下に在る者たちも、同じ気持ちでございましょう。まして殿は、そうして落命した者をご心底からお悼みくださる。そのお気持ちで、我らは本当に報われる思いでございます。どれほどの、藩士の心の励みとなりましたことか」
森の声は、低く錆びている。
その声を聞きながら、定敬は水平線の向こうを見るように、奥歯を噛みしめながら少し顎を上げ、長い瞬きをした。
「また、いち早く恭順したとはいえ、桑名表の者達も殿が在らせられねば不安でございましたでしょう。お戻りになりましたら、どうぞ藩の者の支えとなり、全てのことをお見届けくださいませ。励まし、見届け、悼む…それが殿の、お役目でございましょう」
定敬の視線の下に、海に突き出た弁天台場がある。早春の海の点景とするには、些か厳めしく、大きすぎる。
その台場が、森以下新選組所属の桑名藩士の持ち場になるらしい。それが恐らく、最後の戦場になる。
「本当に、見届け、悼むことしか儂には出来なかった。それで良いと言うてくれるのは、うれしいぞ。禰一左衛門。…皆を頼む。」
「畏まりました。お預かり申し上げます。それから、殿には、道中のご無事をお祈り申し上げます」
四月七日。定敬が箱館を出発した。
同行は、酒井の他、成瀬杢右衛門、松岡孫三郎、後藤多蔵、金子屋寅吉。乗船する森村までは、二名ほどの藩士が随従していたらしい。
森村から出航するも、官軍が10日に江差に上陸したこともあり、再び海路箱館港へ入り、アメリカ船に乗り換えて26日ようやく横浜に到着した。
それから、数日の間、定敬は上海に滞在。再び横浜に戻ってから、自首の形で明治政府に出頭した。些かなぞめいた行動である。
その後尾張藩にお預けとなって謹慎する。
森は、五月に箱館戦争が終わってからは、他の箱館軍の人々とほぼ同じように謹慎の身となり、やがて東京へ出た。
それから、明治政府の命令により、桑名藩からも戦争首謀者を出さねばならなくなったとき、森は全ての責任者として自ら名乗り出ている。
明治2年11月13日。切腹の場所は深川入船町の桑名藩邸。介錯人は木村金次郎。
享年44才。
辞世がある。
なかなかに惜しき命にありながら君のためには何いとふへき
うれしさよ尽すこころのあらはれて君にかはれる死出の旅立
歌に、朴訥な忠誠心を抱いた人柄が見える。
非常に責任感の強い武士であった。
なお、墓碑は深川霊巖寺と桑名の十念寺にある。
桑名城址にも顕彰碑がある。この碑の名前は「精忠苦節」、名付けたのは定敬であった。
定敬はその後の人生の中で、戊辰戦争時の桑名藩にゆかりの戦跡を訪れ、何度も戦没者の法要を行っている。
7~8年前に、「ヨリ(夕月頼)」名義で幕末サークルの会誌に掲載し、その後自サイトにUPしていた物です。
桑名藩の公用人森彌一左衛門さんのお話。伝記ではありません。
筆者自身は歴史研究家ではありません。
森さんにも、桑名藩にもご縁はありません。ただ好きなだけです。
史実に関する認識の甘さ等、ご容赦願えましたら幸いに存じます。