第5話
眼下に広がる、荒れ果てた田園風景。
人手不足からか、畑の大半は荒地と化し、爆撃や機銃掃射を受けて崩れた家も目立つが、点々と麦や野菜の畑があり、農家たちが刈り入れを行なっている。
高度三百メートルの低空を、ミハロの操縦する全翼型爆撃機は飛行していた。
爆弾倉に模擬爆弾を入れ、機首の機関銃に実弾を装填し、機体の状況を可能な限り実戦に近づけた機体は地上で行った想定よりも少し不安定で、地上訓練を重ねてきたミハロも緊張を覚えていた。
ミハロはゆっくりと操縦桿を動かしつつ、地面の起伏に合わせて高度を調節する。
いくらステルス性能の高い全翼型爆撃機でも、高度が高ければレーダーに発見されるリスクは高まる。
「調子はどうだ?」
エレノアはそう聞く。
「ええ。万事順調ですよ」
ミハロはそう答えた。
計器にも異常はなく、目立ったトラブルは発生していない。
管制塔との通信状況も良好だ。
全翼型爆撃機は安定した飛行を維持して折り返し地点を通過し、ルーノ空軍基地へと帰路に着く。
その時、事故は起こった。
「ん?」
壁に並べられた計器をチェックしていた整備士が、そう呟く。
「どうした」
エレノアが聞くと、その整備士は特になんでもない様子で、三番エンジン付近の温度がやや上昇していることを告げた。
「誤差の範囲なら構わん。基地に帰還してから計器とエンジンを確認しておけ」
エレノアは、機長席の横に置いてあるマニュアルを開いて、そう判断する。
「誤差の範囲内ではありますが……。嫌な予感がします。一応、三番エンジンの出力を弱めておきますか?」
三名の機上整備員の最上級者である整備士長が、温度計を確認しつつエレノアにそう提案する。
「……そうだな。念の為そうしておいてくれ」
エレノアはマニュアルと睨めっこをして、そう指示した。
「了解しました」
整備士長は、慣れた手つきでバルブを少し閉める。
数秒後、機体が大きく揺れた。
「速度低下」
ミハロは冷静に報告する。
「三番エンジンより出火を確認。炎の勢いは弱いですが、徐々に大きくなっています」
整備士の一人が窓から外を確認して、そう報告した。
「分かった」
エレノアは動揺を抑えるような声で言って、素早くマニュアルを捲る。
「自動消火装置が作動するはずだが、確認を頼む。作動してないようなら手動で作動させてくれ」
「了解!」
若い整備士が走り出すのを、五十代ほどの整備士長が止める。
「もう確認した。エンジン部分の自動消火装置は、衝撃で電気系統が断線したために全て使用不可能。同じ理由でエンジンの停止も無理だ」
機体が揺れる。
「四番、五番エンジン出火」
窓の外を確認していた整備士は、絶望的な表情を浮かべた。
ミハロは緊張と恐怖で汗を流しながら、慎重に操縦桿を操る。
だが、三つのエンジンを失った機体は急激に不安定化しており、すでに復元が不可能な状況にまで達しつつあった。
「脱出しましょう!」
整備士の一人が、そう提案する。
「……いや。我々の機体だ。そうあっけなく捨てられるものか。お前は燃料のバルブを全部閉めろ。俺はエンジンを消火できないか、もう一度確かめてみる」
整備士長は、そう指示を出す。
ゆっくりと高度を落とす機体。
天井の丸窓から顔を出してエンジンの状況を確認していた整備士は、顔を引っ込めて窓を閉める。
「炎が拡大しています。もう、黙示によるエンジンの確認は無理です」
「分かった」
エレノアは、マニュアルを睨め付けながら返事をする。
経験の足りていないエレノアにとって、頼れるものは知識しかない。
だが、全翼型という登場したばかりの航空機ということもあってか、マニュアルは不完全だった。
整備士たちは全力で消火活動に当たり、パイロットのミハロは操縦桿を掴んで機体の高度維持をしつつ、緊急着陸の可能な場所を探す。
機長のエレノアは、周囲の地形が記された地図とマニュアルを交互に見つつ、全体に指揮を下していった。
炎のせいでコックピット内部の温度は徐々に上昇しており、冷たい外気温にも関わらず、機内の搭乗員たちは汗をかいていた。
だが、彼らの努力も虚しく、機体は着実に機能を喪失していく。
「機長。これは機体を捨てるべきかもしれません。俺も、これ以上の操縦は厳しそうです」
ついに、ミハロはそう提案した。
「……ああ。確かにこれは無理だぜ」
整備士長も同意する。
どう考えても脱出するべき状況。
だが、エレノアの口から発せられたのは、退避命令ではなかった。
「いや。ここで離脱するわけにはいかない」
「どうして」
「この真下には村が広がっている。墜落させるのはいい。だが、軍人の命を助けるために民間人を犠牲にすることは許されない」
民を犠牲に戦争を推し進めてきた武装親衛隊らしからぬ発言に、機内は一瞬だけ沈黙に囚われる。
「地上では、きっと多くの子供達が空を見上げてる。空に希望と憧れを抱く子供達を、この機体が殺すようなことはあってはならないんだ」
エレノアの声は、必死さすら感じられた。
彼女は、もし整備士たちとパイロットが脱出すると決断したら、それを自分が止められないことを理解している。
操縦も整備もできないエレノアは、いくら拳銃で武装していても、格闘技に秀でていても、階級が高くても、この機内では最も弱い。
彼女は、最悪の場合、自分一人が機内に残って操縦桿を握ることも覚悟していた。
だが、そうはならなかった。
「残存しているエンジンの出力を調節して機体を安定させろ! 何がなんでも飛行場まで持たせるぞ!」
整備士長はそう号令を飛ばし、整備士たちは一斉に動き出す。
ミハロも、しっかりと操縦桿を握り直す。
「安心してください。俺たちならやれますよ」
そんなミハロの言葉に、エレノアは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
その後、全翼型爆撃機はミハロの操縦により、三メートルほどのオーバーランをしつつもルーノ空軍基地の滑走路へと無事に着陸した。
その事件により、一機の最新鋭機が火災で大破するという損害が発生したものの、全員で協力して生還したミハロやエレノア、そして整備士たちの間には、確かな団結が生まれた。
ミハロは、やっぱりエレノアのことが少しだけ苦手だったが、その苦手は、必ずしも負の感情だけで占められてはいなかった。
終わりは、唐突に訪れる。
エレノアとミハロたちの全翼型爆撃機に、連合国本土への空爆命令が下されたのは、最初の飛行訓練から二週間後のことだった。