2.事件簿:狐坂(2)
オフィスビルの裏手の駐車場には、俺の愛車である黒のスクーターが置いてある。
排気量が125CC未満の小さなスクーターだ。原付二種って区分の奴だな。
何で小さいスクーターに乗っているかだって。
燃費が良い。車検が無い。保険が安い。税金が安い。荷物入れが大きい。小回りが利く。置き場所に困らない。
最高じゃないか。良いこと尽くめじゃないか。
いや、ごめん。強がりはよそう。夏は暑いし、冬は寒い。雨でずぶ濡れ。雪の日は乗れない。高速道路も自動車専用道路も走れない。
いっぱい欠点あるよ。
でもな、貧乏な俺には、車なんて贅沢は許されないんだよ。
貧乏じゃなきゃ、車くらい欲しいさ。年間維持費を考えたら、到底手が出ない。
ふっ、俺にはスクーターが似合っているのさ。
中古で手に入れてから六年しか経っていないのだが、表面のカウルは傷だらけだ。
丁寧に乗っているのだが、仕事柄、どうしても傷が入ってしまう。
こればかりは悲しいが、修理するお金もない。
どうせ、すぐに傷がつく。外装の修理はあきらめている。
走りに関しては、何の不自由も無い。こちらに関しては、定期的にバイクショップで点検してもらっている。いざという時に、エンジンがかかりませんではお話にならないからな。
スクーターの中の機械の事までは、良く知らない。ああ、正確には日常点検位はできるけど、整備ができない。したくない。プロに任せたい。
動画サイトを見れば、自分で整備できるだろって。そしたら、お金を節約できるだろって。
そんなことは俺も分かってる。ここで重要な事が一つ。
俺は自分の整備の腕を信用できない。自分と飾の命を預ける気になれないんだよ。
ここは譲れないんだ。皆、分かってくれ。金よりも命が大事だろ。
目標から逃げることだってある。勝てない相手から逃げるのは当然の戦術だ。
気合いだけで戦うのは、勇気じゃない。単なる無謀だ。俺の命は、そんなに安くないね。
一目散に逃げる時に自分が整備したスクーターのエンジンがかからん。走行中にブレーキレバーが取れた。何て事態になったらどうする。
悔やんでも悔やみきれんね。一万円をケチるんじゃなかった、とね。
で、無理してスマートキー付のスクーターにした理由も分かったんじゃないかな。
そう、逃げる時に鍵を探して、挿して、回して、スタートボタンを押す。
数秒のロスだろ。スマートキーなら、ノブを回して、スタートだけだ。二秒かからない。逃げるにはこの差は大きいよな。数万円高くなる価値はあるよな。分かってくれるよな。
俺は、スクーターに跨りエンジンをかける。一発でかかり、小気味が良いアイドリング音が駐車場に響く。すかさず、飾がタンデムシートに乗り込む。
飾の勢いが強すぎ、バランスを崩しかけ、右側にスクーターが倒れそうになる。
これ以上、傷をつける訳にはいかない。俺は右足に力を入れ、踏ん張る。何とか持ちこたえた。
「おい、飾。乗る時はもっと静かに乗れ。こけるだろ。バカタレが。」
「は~い。ごめんなさいでした~。」
反省を全く感じさせない軽い涼やかな声だった。
飾は俺の腰に両手をしっかりと回し、体を密着させる。
男ならば嬉しいことなのだろうが、飾は起伏に乏しい。背中に当たるべき感触が全く無い。
「は~。」
俺は思わずため息を漏らす。
「どしたの?」
「何でもない。」
そもそも妹分に何を期待しているのだか…。
「出すぞ。」
そう言うと俺は都大路へとスクーターを発進させた。
俺は、飾のナビに従いに閑静な住宅街に入り、分譲住宅の一つにスクーターを止めた。
「到着だよ。ここ。」
俺は指差された一戸建てを見る。二階の角部屋から黒い靄が漏れているのが見えた。
「ああ、漏れてるな。完全に妖異案件だ。俺の領分だな。」
「でしょ。私だって靄くらい見えるもん。単独で対処することは爺様に止められてるけど。」
孫娘がかわいいクソジジイは、飾に危険なことは絶対にさせない。その代わりに俺を道具として、そして盾として利用するのだ。
ま、そのお陰で収入になるのだけど…。貧乏って悲しい。
ちなみに表札は出ていない。個人情報保護って奴っすか。本当に調査がしづらい世の中だよ。
俺は玄関先にスクーターを止める。
飾はヘルメットを左ミラーに引っ掛けるとインターホンを押した。
俺もヘルメットを右ミラーに引っ掛け、飾の背後に立つ。今時は、インターホンにカメラが付いているのは当たり前。下手すると別のところにもカメラが付いていて、スマホで確認されていることもある。
最初から俺の姿を見せておいた方が無難だ。後で姿を現すと不信感を持たれることが多い。これも仕事上の経験だ。
「はい、どちら様ですか。」
年上の女性の声だ。恐らく母親だろう。
「恵子さんの同級生の井筒 飾です。お見舞いに来ました。後ろのは兄です。ここまで送ってもらいました。」
「あらあら、ありがとう。ちょっと待ってね。」
そう言うとインターホンは切れた。
被害者である娘へ確認に行ったのか、玄関を開けに来るのだろうか。
しばし、待たされると玄関が開いた。四十代後半の地味な女性だった。母親で間違いないだろう。少々、表情に陰りが見える。看病疲れだろう。妖異の残滓は無い。
「お待たせしてごめんね。どうぞ入って。」
「お邪魔しま~す。」
「失礼致します。」
そして、二階の角部屋にある被害者の部屋に案内された。飾はお見舞いの品を用意していた。
「これで、元気を出して下さい。」
飾は、スポーツバッグからゼリー飲料と野菜ジュースを数本取り出す。
ま、高校生らしいお見舞い品か。
「まあ、ありがとう。冷蔵庫に冷やしておくわね。」
そう言うと母親は部屋を出て行った。
やや少女趣味に彩られた部屋の片隅のベッドでは、顔を赤くした少女が呻き苦しんでいた。
額に貼られた冷却シートの効果を大きく上回る発熱だろうか。
「恵子ちゃん、飾だよ。お見舞いに来たよ。僕に何かできることあるかな。」
「飾ちゃん、あり、がと…。」
少女はそれだけを言うと目を閉じた。体力と気力が無い様だ。今の反応からすると本当に飾の同級生だった様だ。てっきり、口から出まかせを言っているのかと思っていた。
俺は目に力を注ぐ。黒い靄がハッキリと見え、額から黒い靄が発生していることがわかった。
「飾、額に注意しろ。」
「とも君、わかった。」
飾は冷却シートを慎重にめくる。少女の額を露出させる。無論、肌には触れない。
額に青い痣が浮いていた。誰かに掴まれたかの様に指の痕が克明に残っていた。
残滓ではないが、顔には殴られた跡や擦り傷も確認できる。
「飾、確認できるか。」
「ちょい待ってね。」
少女が虚ろである事を利用し、飾がパジャマの隙間から四肢や身体を覗き込む。
「顔と同じだね。打撲痕、擦過痕があるよ。」
さて、考えろ、考えろ。何の事象だ。落ち武者を見たのであれば、その落ち武者に掴まれたと考えるのが自然だろうな。だが、打撲痕と擦過痕は、落ち武者との関連がイメージつかない。逃げる時に転んだのか、それとも…。
「こんにちは、恵子さん。兄の智典です。しんどいのにゴメンね。話、少しいいかな。病気、良くなるかも。」
極力やさしく声をかける。その声に横でクククと笑いかみ殺している不謹慎な奴がいた。あとで折檻だ。
恵子は力なく頷く。これが風邪とかではないと本人も分かっているのだろう。
「落ち武者と何処で会ったのかな。」
「狐坂のカーブ。」
「触れたのは額だけかい。」
恵子は頷く。
「痛いところはあるかな。」
「全身。」
「どうして、ケガをしたのかな?」
「わから、ない。おぼえて、ない。」
「落ち武者は知り合いに似ていたかい。」
首を振る。
「落ち武者は『おとせ』って言ったんだよね。心当たりある?」
「…ない。知ら…ない…。」
そういうと恵子は気を失ってしまった。荒いが、規則正しい呼吸をしているので問題は無いだろう。
「飾、現場に行くぞ。これ以上、新しい情報は入らんな。」
「りょ~か~い。」
俺達は階段を降り、玄関へと戻った。
「おば様、お邪魔しました~。お大事にして下さ~い。」
飾が台所の方へと声をかける。返事を待たず、俺達はさっさと靴を履き、家を出た。