多咳の逢瀬
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ぐふん、ぐふん……うう〜ん、むせたかなあ。
ひと昔前なら、ボトル傾けて一気飲みとか、特技のひとつだったんだけどねえ。ここのところは1リットルどころか、500ミリペットでさえ辛い。
マスクをつける人が減ったとはいえ、咳すると妙な目で見られがちなのは変わらないしなあ。ついちびちび飲むくせがついちゃったよ。
こーちゃんは、ここのところ咳が出たことあるかい? 痰がからもうと、からむまいとさ。
くしゃみ、鼻水と並んで、まずいものを身体の中へ取り込むまいとする防衛機構のひとつ。そして、それは外部にも大変目立つものときている。
くしゃみとせきの発声、鼻をすする音……耳にする機会は、人のいるところなら、どこにでもあるといえるだろう。
もし、自分が不意にそれらに見舞われたら、体調不良かと疑うところだろうけれど……ひょっとしたらそれさえ隠れ蓑として、別のことが進行しているかもしれない。
僕の以前の話なんだけど、聞いてみない?
その日の目覚めは最悪だった。
意識を取り戻して、最初にごくん。何とはなしにつばを飲み込むや、飛び上がらんばかりの痛みがのど奥に走った。
このざらつき、明らかに乾燥している。冬の気配も感じる時期になってきていたし、ありえなくはないものの、近年はこの兆候が全くなくて、油断していた。
さらには鼻水もだいぶ溜まっているらしい。こうして、あおむけになっているだけでも、自然とのど奥めがけて、とろりと垂れてくるものを感じていた。
きっと寝ている間に鼻がつまり、口が開いて粘膜がうるおいを失ってしまったのだろう。
起き出して、身体がしっかり動き始めれば、少しはのども楽になる。
なかば息を止めるようにして、僕は手早く着替えを済ませた。正直、何も食べたくはなかったが、うがいに関しては必要経費だ。ちょっとでものどを湿らせておいたほうがいい。
がらがら鳴らす間、目を閉じてかすかな痛みの響きに耐える。こいつをあやまって嚥下したら……と、つい嫌な想像をしてしまう。
二回、三回と繰り返し、ちょっとでも痛みをやわらげにかかった。
元より、これだけでのどが回復するなどとは思っていない。痛みが緩もうとも、日をまたぐこともままある、長期戦。
いかに耐えていくかと、覚悟を決める瞬間でもあったんだ。
先に話したように、身体が動き出せばのどの痛みもやわらぎがちなのが、経験で分かっていた。全身に取り入れていた水分が行き渡れば、のども楽になるだろうと。
しかし、僕のもくろみは外れる。
学校へ行く段になっても、席について授業が始まった後も。いっこうにのどの辛さは回復する兆しを見せなかったんだ。
途中、何度か覚悟を決めて飲み込むつばは、焼けるような痛痒さをもってこたえた。つい顔をしかめずにはいられないくらいに。
舌の根で触れてみれば、そのざらつきがダイレクトに伝わる。いくらなでてみても、舌のぬめりはいささかものどの湿りを助けてくれない。
離れた端から乾いたり、奥深くへしみ込んだりしているかのようで、この程度の接触にも神経質に痛みをもって抗議してくる。
これまで喉が痛むときというのは、時間差こそあれ「風邪かな?」と思う別症状が出てきていた。
熱しかり、頭痛しかり、腹痛しかり。
いずれにも苦しめられた記憶があるが、この日の午前中はそれらがおとなしい。
やがて来た給食も、ありったけの我慢をのどへ集めて、できる限り頬張って嚥下回数を減らしたうえで、どうにか乗りきる。
牛乳を先に飲めば楽になるかと思ったか、焼け石に水どころか、大火事にコップ一杯ほどのもの。目にうるむものが出てくるほどの辛い時間だった。
友達にも心配されるが、午後になっていよいよ追い打ちをかけるものが出てくる。
咳だ。
この日、少しでも口周りの湿度を保てればとマスクをつけてはいたが、そこへ遠慮なくのどの使者は飛び出したがってきた。
「来るな」という溜めさえ感じさせない、不意打ちマニアどもばかり。我慢することもままならず、僕はけん、けんと何発もせき込んでしまう。
周りの目もそうだけど、何よりのどにしんどい。
一度のどが揺らされるたび、首の骨を駆けあがって、頭蓋全体に痛みが響く。
ヘタにせき止めようとしても、しゃっくりのような音とともに、放ったときに倍する激痛がのどの内にとどまるばかり。すぐに却下した。
背中をさすってくれる子もいたが、それでどれほど楽になるものか。ついには授業中のはばかりない咳込みに、先生さえ心配してしまう始末。
「咳には気をつけなさいね〜。ヘタすると魂が飛んでっちゃうかもだからね」
そこからしばし、授業は脱線した。
咳と同じように、中から外へものを追い出す働きをするくしゃみ。これはその回数が占いに使われることもある。
一回で誰かに噂をされ、二回で誰かに笑いものにされている。三回目では誰かに惚れられていて、四回目以降は風邪を引いているというものだ。
それは咳に対しても、同じようなものがあると、先生は話してくれた。
とはいえ、こちらはくしゃみほど回数で厳密に区切られるのではなく、程度の問題。
のど奥が切れて血がにじみ、それでも多くの咳がやまないとき。身体の奥から魂が抜け出ようとしているのだと。
もとはひとつであったもの。
抜け出した魂は、またひとつになろうと引き合っていく。身体の中とは異なる、別環境で暮らしていきたいと願った結果だ。
もしそのような咳をしているなら、外で結ばれたがっている魂たちの願いであり、猛攻だろうと先生は語ったんだ。
実をいうと、僕は授業が始まる前あたりから、のどの奥に鉄さびにも似た苦さを味わいかけている。
鼻血のときに経験したから、それが自らの血の味だろうとうすうすは見当がついていた。
変わらず乾いている、のどの奥。舌のさわりにより痛みを感じるようになったそこは、まず間違いなくケガをしているだろう。
咳で逃げ出した魂は、外でまたひとつになろうとする。
その意味をおぼろげながら感じたのは、下校途中の道沿いのことだ。
カーブも少なく、一キロ以上先まで見通せるまっすぐな道。その歩道を歩く僕の横を、一台の大型トラックが追い抜いていったんだ。
その排気ガスをもろに受けるより先に、僕は強くせき込んだんだ。
マスクは防御こそすれ、完全に防ぐことはかなわない。
外から内へくるものも。内から外へくるものも。
口いっぱいに広がる血の味を認識したとき、視界の先にあったトラックのコンテナ。その銀色の一角をはっきり濁す、紅色のまだら模様が浮かぶのを、僕は確かに見た。
トラックが通り過ぎると、ややあって真っ白い乗用車が同じように現れる。なお僕の咳は止まらずにいた。
その白いボンネットの隅にも数滴。はっきりと赤い点々が浮かんだ。
ドライバーは気づいた様子なく、僕を見やることもせず、そのまま直進。
対する僕はようやく咳やみ、ぱっとマスクをはがしてみると、そこには無数の赤い斑点が浮かんでいたんだ。
手の甲を口へあてがう。ぺろりと舌で軽く舐めてから離してみると、もずくのように身をくねらせる血の筋が、いくつも唾液の中を泳いでいる。
もしやと、僕は顔をあげた。
曲がり角のないこの道を、二台はどんどん進むものの、明らかに乗用車がトラックを追い上げている。距離がみるみる縮まるのが、遠目にもはっきり分かったんだ。
途中でトラックも気づいたのか、あからさまに速度を上げたんだけど……二台が点ほどの大きさになるころ、重いもの同士の衝突音が耳に届くのと、二台がにわかに動きを止めたのはその時だった。
遠目にもハザードランプがついているし、周囲へ報せるためか、あの定期的にクラクションがなるシステムが発動しているみたいだった。まず、事故と思っていいだろう。
ほどなく、騒ぎを聞きつけて人も集まってくるはず。
面倒はごめんだと、僕はその場をさっさと立ち去った。
家に帰り着いたとき、ふと気づくと、あれほど苦しめられたのどの痛みは、ウソみたいに消えている。
それが外でくっつこうとした、魂が離れたためかどうかは、確証はないけれどね。