6.勧誘
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
あの小さなトンネルから落下した後、俺は全く動けず、冷たく硬い床に横たわっていた。
この空洞とだけ分かる空間からどうにか抜け出そうという気は既にない。先ほどまで感じていた体を貫くような痛みも、今はもう感じなくなっていった。
もう、俺は死ぬんだろうか。
意識がどんどん薄れていく。このまま目を閉じれば、俺は物言わぬ躯に変わってしまうのだろう。
「……いやだ」
そんな言葉とともに、目から涙が零れていた。俺を裏切ったあいつらの言葉が、脳内に染みついて離れない。それどころか、あいつらが俺にしてきた今までの所業が脳裏によぎる。
侮蔑に満ちた視線、心をえぐるような罵詈雑言、幾多も振るわれてきた暴力、誰にも苦しみを吐き出せない孤独……。
それらを思い出すと頭の何かが切れたようで、その瞬間、胸を締めるような怒りを口から吐き出していた。
「なんで俺がこんな目に‼ いい加減にしろよ‼ 《斥候》なんて訳の分からないものを、僕がいつ望んだんだ‼ ほかの奴らはあれだけ役に立てて、いつも、いつも、俺だって頑張ってたんだよ‼ そんなことも嘲笑って、無駄だって、馬鹿の一つ覚えのように繰り返し言ってきて‼ 役立たずなんてことは分かってるんだ、でも、なんで……」
こんな捨て石のように使われるために、俺はここまで生きてきたのか。あいつらは、なんでこんな酷いことを顔色一つ変えずできるんだ。
気づけば、涙があふれていた。俺はなぜ叫んでいるんだろう。今声を出したところで体力を消耗して命の終わりが早まるだけなのに。
今までせき止めていた想いを吐き出しても、誰も聞いてくれる奴なんかいない。
「ごほっ、おうぇ」
突然叫んだせいか、脂汗が噴き出て、口から汚物があふれ出る。
ああ……くそったれだ。
俺を裏切ったあいつらも、役立たずと分かった途端見限ってきた城の人間も、盲目的にあいつらの外面を信じ続ける平民たちも、この世に天職を作った“神”とやらも。
憎い。全てが、憎い……。
「人が憎い?」
すると突然、頭の上から声がした。
「……ぇぁ」
誰だ、と聞こうとしたが、口から出たのはか細い息だった。どうやら、俺もそう長くは持たないらしい。床に広がる血の量から、俺はそう察した。
だが、聞かれたことに対する明確な答えは持っている。
「……」
「……そう」
声を出す元気もないため、口だけを動かすと、誰かはその意図を感じ取ったように相槌を打つ。すると、口の中に何かの液体が注がれる。
「っ、⁉ うぇ、あぐっ」
途端、心臓が激しく鼓動して、体内で血液が脈打つのが分かった。途方もない気持ちの悪さに何度かのたうち回った後、しばらく自分の体が違う何かに変わるのを感じながら、俺は目を閉じ、意識を失った。
誰かの話し声がする。硬く冷たい石の感触と、鼻を突くような鉄の臭い。ふとそれに気づいてしまうと、一度覚醒した意識は戻らない。俺はゆっくりと目を開ける。
超至近距離でこちらを見つめる少女の赤い瞳が、そこにはあった。
「……」
『……』
無言の時間が過ぎる。少女のほうはこちらを待っているかのようにこちらを見つめていたが、対して俺は動くことができなかった。
少女の奇抜な行動に驚いたわけではない。今目の前にいる少女が、ミノタウロスなど比にもならない正真正銘の化け物であると悟ったからだ。
(バカみたいな魔力量に加えて、その質が半端じゃなく高水準だ。明らかに【賢者】並み……しかも、こんな大人しそうな見た目をしといて、筋力も恐らく……)
見た目こそ華奢だが、この少女が俺を殺すことなど造作もないだろう。この少女がその気になれば、俺の体なんか、マッチ棒みたいにぽきりと折れてしまう。
突然すぎる死の気配からか拡張された《斥候》としての観察眼は、少女の秘める人知を超えた力を余すことなくこの目に映し出していた。
俺がどうこうできる存在ではない。まさに、蛇に睨まれた蛙である。
しばらくの静寂の後、先に動いたのは少女のほうだった。
『……起きた?』
そう言って確かめるようにこちらに手を伸ばす少女。思わず後退ろうとしたが、両腕が鎖で吊るされていることに気が付く。
混乱しているせいか、目の前の少女が人ならざる言語を話していることも、俺がそれを理解できていることも気にならない。
弱肉強食の本能か、止まらない震えを抑えつつ、目を閉じて嵐が過ぎるのを待つ。
予想に反して、こちらに触れた少女の手つきはまるで小動物に触れているかのように優しかった。
『……やっぱり、魔族になって、戸惑ってるよね』
「ま、ぞく、俺が?」
そう言われて、自分の体を見るが今までの自分とそこまで変わらない。強いて言えば多少筋肉質に見えるくらいか。
しかし、少女に頭を触れられて、そこにある何かに気が付いた。
俺からは見えないが、それは耳だ。まるで人狼のように、頭に獣の耳が張り付いている。代わりに、俺の顔の横についているはずの耳は綺麗に消えていた。
『……わたしの血は、口にした者を癒す代わりに、その者を魔族に変える。ダンジョンで死にかけているあなたに、わたしの血を飲ませて命を救ってあげた』
「……そうか、あの時のあれはお前だったのか。助かった」
こいつの正体に気が付くと同時に、俺は少女に対し感謝の言葉を述べていた。
血を飲ませた者を魔族に変えるなんて芸当は魔族の王、魔王にしかできない。しかし、その例外に当てはまる魔族がたった一人存在する。
魔族を率いる十英雄の最後の一人、魔王の娘イサベル=ネイ=ラジヴィヴナ。
『……あなたは、まだ人が憎い?』
「……ははっ、わかりきったことを聞くな」
『……そう、だったら』
憎いか聞かれた瞬間、自分がされた所業を思い出し、湧き出てくる激情を笑って抑え込む。寝て覚めても、それは和らぐどころか、冷淡なものに変わっていた。
先ほどのこの少女への感謝、それは命を救われたことに対してというよりも―――。
『魔王軍に入り、私の配下になりなさい』
―――奴らに復讐できる。そのチャンスが与えられたことに対してだったからだ。