5.必死
アリスから放たれたその言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。
「……何を」
「馬鹿ね。あなたはここで死ぬってこと」
馬鹿なことを言っているのはお前だ。この状況でふざけているのか⁉ と声を上げたいものの、痛みで声が出せない。後ろでロープから抜け出そうともがいているミノタウロスを見て焦りながら、俺は声を絞り出す。
「早くしないと……あいつが」
「大丈夫だ。お前がここでそうやって足掻いていれば、あいつはお前の釘づけになって俺たちは逃げられる」
「……‼」
「罠が一つだけってのも不安だろ? しかも役立たずのお前が作った時間稼ぎの罠だ。信頼しろっていうほうが無理な話だ。そうだろ?」
つまり、俺をあの怪物の更なる足止めとして生け贄にするというわけだ。そんなめちゃくちゃな話に納得できるわけがない。それに、こんな無駄話をしてる暇があるのなら俺を抱えて逃げたほうがまだ良かったじゃないか!
俺は苦し紛れにロナルドの足を掴む。しかしその腕は、ロナウドにしなだれかかるようにして割り込んできたカタリナに踏みつけられた。
「たかが平民の分際で、貴族のロナウド様に触れないでください! 今まで荷物持ちの役に甘んじて、安全な場所から見ていたあなたが役に立つ機会がようやく訪れたのです。むしろ、喜んでその命を捧げるべきでしょう?」
「《斥候》アレインは自分勝手な行動をして野垂れ死んだ。本国にはそう伝えておいてあげるわ。民衆にもあんたの愚行は知れ渡るでしょうね。これじゃ、殺されたあんたの親も浮かばれないわね……アハハ!」
「アリス……お前」
起き上がれないまでも、睨みつける俺にアリスは不愉快な表情を浮かべて何か言おうとする。
しかし、ミノタウロスの足止めも終わりそうだ。それを感じ取ったロナウドが、俺の背負っていた荷物を持ち、アリスの腕を引いた。
「ちっ……意外と重いな。おいアリス、さっさとずらかるぞ。これ以上は無駄話だ」
「では、ごきげんよう~。せいぜい足掻いてくださいね~」
三人が道の奥に消えていくのと同時に、カタリナの高笑いも消えていった。
ダンジョンを照らすのは転がった松明のわずかな光のみで、ミノタウロスの唸り声のみが聞こえる。
やがて、ロープのちぎれる音が聞こえた。
「うっ……くぅ……」
恐れからか、出血のせいか、後ろを振り向かなかった。ただ、背後にある背中を刺すような視線はヒシヒシと感じる。
今すぐに立ち上がって逃げ出したいが、ナイフで刺されたせいで足に力が入らないため、俺は這って逃げるしかない。亀にも劣る速さだが、あの怪物から距離を稼げるだけで動くだけの価値はあった。
俺が走れないことを分かっているのか、ミノタウロスのがゆっくりと近づいていることが分かる。弱者を嘲笑っているのか。
死ぬのが怖い。それだけで、俺は手をめちゃくちゃに動かし、何とかしてこの怪物から逃げられる何かがないか探した。
「……?」
なんとなしに触った壁に違和感がある。死に物狂いで壁に張り付き、耳を当ててみると、反響音が聞こえた。
……壁の向こうに空間がある!
来たときは気が付かなかったが、生死の境の極限状態で鋭敏になっているのか。いずれにしても、闇にたらされた蜘蛛の糸であることには違いない。
《斥候》として磨き上げた感覚を信じて違和感のある壁の部分を弄ると、ガクンッ! という音とともに壁の一部が奥に動き、人一人入れそうなほどの穴が見えた。覗いてみるが、その先は暗くて見えない。だが、ここに賭けるしかない。
出血で意識が飛びそうだが、トンネルに潜り込み、必死の形相で這いずる。
「ブモォォォッ‼」
逃げ道が見つかったことを察したのか、怒号を上げるミノタウロス。背中をなでる鼻息で、トンネルを覗いているのが分かる。
その瞬間、足首が何かに掴まれたのを感じた。ミノタウロスが手を伸ばし、俺の足を掴んだのだ。
「ひっ……っ、アァァアッ!!」
明確な死の気配に、全身の毛が逆立つのを感じた。だが、ほとんど反射的に腰から短剣を引き抜き、振り向き際に掴まれた足に突き刺す。
冷えるような痛みが全身を突き抜けるが、構いはしない。涙を流し、歯を食いしばりながら、そのまま横にナイフを引き抜いた。
「ブモッ‼ ……?」
切断した足を掴んだミノタウロスの腕が引っ込んでいき、困惑したような声が聞こえる。だが、稼いだ時間がそう長くはないことは分かっていた。
痛みで平衡感覚を失っているのか、上と下も分からない。より激しくなった出血で視界も暗いので、前に進めているのかも分からない。
だが、逃げたいという一心で地を掻き続けた。
するとやがて、体に浮遊感を覚え、一瞬の間で地面に叩きつけられる。
自分がどこかに落ちたと分かったのは、ミノタウロスの怒りに満ちた咆哮がかすかに耳に入ってからだった。