業の火種
王子は買われた。
知精の申し子と噂されるバルキニア国の聡き王子カロン・ド・バルキニアは、敵である隣国エルドリエの第二王女メリエール・ディオナ・フォン・エルドリエとの密なる計画により、争いを避けつつも許婚の契りを交わすことで国民同士の古い戦争の記憶を過去に洗い流す、すなわち内側からの和睦を計画した。無慈悲かつ破天荒極まる次期女帝の第一王女グランシャリオ・フィリア・フォン・エルドリエとはうってかわり慈悲深いと噂されるメリエール王女はこの一件に肯定的な態度を示すが、しかし当然戦争中の隣国に紙と筆での接触など認められることもなく、カロン王子は身を隠しながら直に会いに行く他無かった。理を信じる王子には、戦場の恐れなどなかったのである。
メリエール王女との接触は無事に終わり、後は示し合わせたが如く互いの王を説得する手筈だった。だが、隣国の治安は王都付近から離れるにつれおざなりになり、比例するように悪辣極まる闇の空気が辺りを包みだしていった。そして、若きにして知に愛されたカロン王子だからこそあり得ないことが起きたのである。
王子は人攫いに遭った。このひりついた拮抗状態にある隣国で、新たなる猛火の火種になりかねない重罪を犯す愚か者がいることなど、人生経験の薄いカロン王子には考える余地もなかったのだ。瞬く間に王子は奴隷となりエルドリエ国の裏の闇市へと出品されたが、この時既に自身の未熟さ、迂闊さに対する絶望は深く、思考停止状態となったカロン王子に抵抗の意思はなかった。
しかしそれもまた計算外の事態に遭い、カロン王子は今までになく強烈に目が覚めた。闇市に、かの破天荒な第一王女グランシャリオが、扮装し奴隷市場に顔を出していたのだ。そして第一王女は法外に高い金を払って、あくまでも客としての立場を保ちながらカロン王子を購入し、仮面を外して王女となり、奴隷を城内へと連れ帰った。
カロン王子が抱いていた猛将とも並ぶ程の豪気かつ大胆不敵な印象のグランシャリオ王女はそこにはおらず、目の前には母のように慈悲深く、賢者のように知的な次期女王だけが立っていた。グランシャリオ王女はエルドリエ国王陛下と共に隣国バルキニアの王子カロンと第二王女メリエールの関係に既に気付いており、今までも陰から動向を探っていたという。そしてこれからもその勇気ある行動に敬意を示し、表向きには拮抗状態を保ちつつも、支援させてもらうつもりだと語った。曰く、歴史の流れに一度乗ってしまった者は、王も民もなく、自らの考えのみでは舞台を降りることはできない。それは両国とも同じであり、争いを諫めるには新たなる風が必要なのだ。カロン王子の父である現バルキニア国王もその悪しき流れを断ち切る新たなる風を待っており、取り返しのつかない争いに時間稼ぎを行いつつ、互いに次期王子達の行動に期待をしていたからくりである。
エルドリエ国に蔓延った闇を祓おうとすれば治安は途端に乱れ、良くも悪くも一時的には大混乱が予見される。その隙が露骨にバルキニア国に知られてしまえば、バルキニア国王は民のために戦いを始めなくてはならない。お互いに争いを避ける為に、争いを続けているという矛盾は、もはや国全体にかけられた業の呪いと言ってもいいほどだ。故にカロン王子の救出は表立って取り締まることもできず、むしろバルキニア全体の怒りを買ってしまうことにもなりかねない為に、今は奴隷として正式に買わざるをえずその事実を完全に秘匿とする他なかったのであった。当然、その後はカロン王子は近衛兵に囲まれた馬車で国境まで丁重に送られることとなった。
その揺れる椅子に叩かれながら今日の事を考えていた。奴隷として売られた際についた手の痣を除けば、危機にあったのにも関わらず無傷であり、事実を知る者はエルドリエ国王陛下と第一王女グランシャリオの二人のみ。輸送中の兵士ですらも大事な客人の護衛、以外の情報を伝えられてはおらず、それもあの、徹底的で容赦のないグランシャリオ王女からの直接の命とあれば、誰一人として詮索などすることなく愚直に働くことだろう。
自身が道化と知ったカロン王子は、今何を考えているか。これからの事か、今までの事か。国の事か、隣国に根付いた闇のことか。しかし、そのどれでもない。常に国の未来を事実と知恵で予知してきた王子は、ただ、ただ己の事を。ある事実をずっと考えていたのだ。
『奴隷として売られ、買われた』
決して拭えぬ手首の汚れは、蛆が這っているような嫌悪感を抱かせ続ける。王子に吹いた新たな風に、屈辱という淀みが時代の流れを起こし、王子と王女を巻き込んでいく。
この事実を『誰にも』知られてはならない。その為に何をすれば良いのか。消えない事実であるならば、焼いてしまえばいいではないか。
闇の火種は、今ここに産まれたのだ。