3.ソフトボール部
~あー疲れた。ちょっと挨拶しただけでこれだ。
~この仕事、俺には向いてないのだろうか。
~でもさっきの子は可愛かったな。山口菜々美だったかな。
いやいやいかん、生徒の扱いは慎重に。
職員室に戻った俺は、そんなことをぼんやり考えていた。
「初めて教壇に立ってお疲れですか?何事も経験です。すぐになれますよ。」隣の先輩教師が声をかけてくれる。
「あいさつしただけでこの有様です。」俺は自信なさげにそう答えた。
それより明日から授業が始まる。担当は物理だ。
気持ちを切り替えて、内容の予習と、授業のシミュレーションをしよう。
しばらく集中していると「森先生?」と声がかかった。
見ると二人の生徒が立っている。学年章を見ると三年生だ。
どちらも日に焼けて健康そうだ。
「ソフトボール部顧問の森先生ですよね。」
「うん。そうだね。君たちは?」
「私、部長の山田です。」「大川です。」
「顧問をすることになった森だ。悪いんだけどソフトボールは全くの素人なんだ。あまり君たちの役に立てないかも知れない。」
「先生、野球は?」
「いや、野球も経験なしだ。ルールくらいは知ってるけど。」
「そっか。じゃ私たちが後輩の指導をしなきゃだめね。」「部長、頑張って」
山田と大川がそんなことを話している。
「先生、明日から練習を始めます。手が空いたら練習にも顔を出してくださいね。みんなもきっとやる気が出ますから。」
「・・・あんたのやる気がでるんでしょ?」
「えっ。ちょっとヤダ。」部長の顔が赤くなったような気がした。
「さ、挨拶できたし行こうか。じゃ先生またね。」
「は~。今時の子はくだけてますね。」
「あんなもんだと思いますよ。若い男の先生が珍しいのでしょう。2人とも真面目でいい子ですよ。」
隣の先輩教師は3年を受け持っているので2人のこともよく知っているらしい。
「でも森先生。いい気になって問題を起こさないように。」
「ハハハ・・・」
しかし俺は初日だけ挨拶を兼ねて練習の見学をしたが、その後は部活動に顔を出せていない。
連絡事項や事務手続きのために部長の山田とは何度か顔を合わせたが。
さぼっているわけではないが、時間や精神面で余裕がないのだ。
毎日の授業だけでも大変なのに、職員会議、PTA、研修などやることは山積みだ。運動会や文化祭、修学旅行などイベント事は早い時期から準備が始まる。
もちろん先輩教師が進めてくれるのだが、いろいろな雑用が振られてくる。
そのころの俺はいっぱいいっぱいだった。
部活動に顔を出せるようになったのは、授業が一段落した夏休みの直前だった。
その時にはすでに3年生も引退していた。前部長の山田には顔を出してほしいと頼まれていたのに、申し訳ないことをした。
一応ジャージに着替えてグラウンドに出ると、練習が始まっていた。といってもランニングや柔軟体操のウォーミングアップだ。
声を出しているのは2年生の新部長だろう。
俺は全く顔を出せていない後ろめたさから、少し離れたところから練習を見ていた。
そのうち一人の生徒が俺に気づいたのかこちらを指さして何か言っている。
部長がこちらを振り向くとみんなに指示を練習の出してからこちらにやってきた。
「先生~」手を振りながら笑顔で近づいてくる。
まぶしいほどの笑顔だ。
しかし俺の視線は少し下をとらえている。
揺れている。プルプルと。近づいてくる。プルプルと。かなり大きいと見た。
「先生!どこ見てたんですか!」部長が目の前に来てプッと膨れている。
「えっ?いやいや・・・。」アブなかった。適当にごまかす。
流石に部長の名前は憶えていた。「優香、がんばってるな。」
大沢優香。ポジションはキャッチャーだ。
責任感が強く面倒見がよいのでみんなから部長をお願いされたらしい。
優等生タイプで、クラスでも委員長をしているはずだ。
笑顔がまぶしい。そして胸が大きいことを付け加えておこう。
「先生が来てくれるなんて珍しいですね。」よかった。怒っていないようだ。
「あまり顔を出せなくて悪いな。今日は練習を見せてもらおうと思ってな。最近はどうなんだ。」
「う~ん。それが新チームになって部長をやったのはいいんですけど、まとまらなくて。
今出てきてるのは、2年生は私と桜の2人。1年生は楓と芽衣と菜々美の3人。全部で5人だけです。」
「他はどうしたんだ。」
「2年の真紀と理央、それと1年の富美はつるんでゲーセンかカラオケあたりかな?もう一人の1年の朱里はバイトだと思います。バイトのことは内緒だけど・・・。」
そうか。今は全員そろっても9人ギリギリしかいないはずだ。そのうち4人も抜けてしまったらまともに練習もできない。
「そんな状況では大変だな。」
「はい、そうなんです。そうだ、先生ピッチャーできますか。真紀が来てないので困ってるんです。」
真紀は部長の優香の幼馴染でポジションはピッチャーだそうだ。
本来エースのはずだが練習に来ていない。
「いやいや俺は経験ないから無理だ。」
「打撃練習のバッティングピッチャーです。山なりのボールで大丈夫ですから。」
渋る俺を無理やりマウンドに立たせた優香はキャッチャーマスクをかぶってホームベースの後ろにしゃがんだ。
「先生、ここに投げてください。」優香がミットを構えて声を出す。
ほかの部員も興味津々で見守っている。
だめだ。緊張してきた。まだ投げていないのに汗が出てきた。変な汗というやつだ。
「先生ココですよ。」
俺は度胸を決めて投げてみる「えいっ」
「あれ?」ボールが消えた。優香がマスクを外して周りを見渡す。
「あそこ」離れて見ていた桜が空を指さした。
2年生の田中桜。4番サードだ。
明るい性格で部長の優香とも仲が良く補佐役も務めているらしい。
クラブのムードメーカーだ。
170センチ近い身長としっかりした体つきで我がチームのかなめの一人だ。
俺が投げたボールは真上から落ちてきて、俺の頭に当たって転がった。
それを見た桜はケラケラと笑っている。
「先生、もう一丁」
「いや、やっぱりやめとく。そうだ、ノックならできるかも。」
小さいころに友達と遊んだ草野球を思い出した。打つほうは得意だった気がする。
「私がトスを上げます。」優香が1つボールを掴んだ。
「よし行くぞ!」俺は掛け声をかける。
「バッチコーイ」4番サードの桜が定位置についている。
目で合図を送ると優香がボールを上げる。
俺は思い切りバットを振った。
「スカッ!」ころん。
あれ?空振りした?
「も・もう一丁」
「スカッ!」ころん。
「カー カー 」西の空にカラスが泣いた。
俺の心も泣いている。「さあ、俺も帰ろうかな」
~ 子供のころはそれなりに出来てたのにな・・・。
マジで落ち込んだ。
先ほど大笑いした4番サードの桜も顔が引きつっている。
「先生。ドンマイです!」
部長の優香の声がグラウンドにむなしく響いた。
「先生、疲れたでしょうから休んでいてください。」
「そ・そうだな。あとは見学させてもらうよ。」
意気込んで出席したソフトボール部の練習は、俺の才能のなさをはっきり自覚させてくれた。
優香と桜だけでなく、1年生の3人にも呆れられてしまった。
でもそのうちの1人と目が合うと、こちらに手を振ってきた。
「あの子はたしか・・・ソフトボール部だったのか。」
そう、俺が副担任をしているクラスの生徒で山口菜々美だ。
初日にわき腹をつついてきた美少女である。
もちろんクラスの名簿も部活動の名簿も持っていたが、余裕のない俺は結びつけることができなかった。
副担任は毎日のホームルームには出ていかない。担任だけで用が足りるからだ。
ましてやクラブのほうにも顔出しできていなかったので、ここへ来てやっと一致したのだ。
練習も何とか終わり、制服に着替えた部員たちは「先生さようなら」とあいさつして帰っていく。
・・・みんないい子たちだな。こんな頼りない先生でごめんな。・・・
「先生、少し話があるんですが。」部長の優香に声をかけられた。
うん、話?
制服に着替えた優香は運動後の火照りか、顔が上気している。
無意識に胸に目が行く。
俺はどきっとして「ど・どうした。」と答えるのがやっとだった。
「先生、チームのことなんですが。」
そ・そうだよな。俺は何を焦っているんだ。
「うん」
「このままではだめになります。ううん、もうすでに駄目になっているかも。
だからチームを一つにするために試合をしたいんです。試合が控えていれば、休んでいる子たちを引っ張り出す理由になるし、私たちも練習のモチベーションが上がります。」
「うん。いいかもしれないな。」
「もうすぐ夏休みに入りますが、夏休み中にどこかと練習試合を組んでください。」
「わかった。それなら俺にもできそうだ。明日にでも相手校を当たってみるよ。」
「先生、ありがとうございます。よろしくお願いします。じゃあさようなら。」
「気を付けて帰れよ。」
翌日、俺はあちこちの高校に電話を掛けて、やっと練習試合の約束を取り付けることができた。